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1981年5月場所において西幕下5枚目の位置で6勝1敗の好成績を挙げ、翌7月場所に再び十両へ復帰すると、[[1982年]]1月場所および3月場所と連続して二桁勝利を挙げ、同年5月場所において初土俵から74場所を要して新[[入幕]]を果たした。廻しを取っての豪快な上手投げや下手投げを武器として、その後の約1年半は[[幕内]]中位から下位で活躍したが、右ひじの古傷の悪化により次第に番付を落とし、[[1984年]]9月場所では東十両11枚目で3勝12敗と大敗し、翌11月場所では3年半ぶりに幕下に陥落してしまった。この時すでに30歳となっていたが、その場所を西幕下9枚目の位置で7戦全勝の幕下優勝を果たして1場所での十両への復帰を決めると、再十両となった1985年1月場所でも9勝6敗と勝ち越し、さらに[[1985年]]3月場所では西十両4枚目の位置で12勝3敗の成績で十両優勝を果たし、翌5月場所で3度目の入幕を果たした。以降は[[幕内]]に再び定着し、自己最高位となる東前頭2枚目まで昇進した[[1986年]]3月場所では5勝10敗と大敗したものの、その場所で優勝した関脇・[[北勝海信芳|保志]]や大関・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]との対戦では勝利した。同年11月場所4日目には[[千代の富士貢|千代の富士]]から生涯唯一となる[[金星 (相撲)|金星]]を獲得した。<br>
1981年5月場所において西幕下5枚目の位置で6勝1敗の好成績を挙げ、翌7月場所に再び十両へ復帰すると、[[1982年]]1月場所および3月場所と連続して二桁勝利を挙げ、同年5月場所において初土俵から74場所を要して新[[入幕]]を果たした。廻しを取っての豪快な上手投げや下手投げを武器として、その後の約1年半は[[幕内]]中位から下位で活躍したが、右ひじの古傷の悪化により次第に番付を落とし、[[1984年]]9月場所では東十両11枚目で3勝12敗と大敗し、翌11月場所では3年半ぶりに幕下に陥落してしまった。この時すでに30歳となっていたが、その場所を西幕下9枚目の位置で7戦全勝の幕下優勝を果たして1場所での十両への復帰を決めると、再十両となった1985年1月場所でも9勝6敗と勝ち越し、さらに[[1985年]]3月場所では西十両4枚目の位置で12勝3敗の成績で十両優勝を果たし、翌5月場所で3度目の入幕を果たした。以降は[[幕内]]に再び定着し、自己最高位となる東前頭2枚目まで昇進した[[1986年]]3月場所では5勝10敗と大敗したものの、その場所で優勝した関脇・[[北勝海信芳|保志]]や大関・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]との対戦では勝利した。同年11月場所4日目には[[千代の富士貢|千代の富士]]から生涯唯一となる[[金星 (相撲)|金星]]を獲得した。<br>


東前頭5枚目で迎えた[[1987年]]9月場所において8勝7敗で勝ち越しを果たし、その場所では前頭上位陣で好成績を挙げた者が少なかったこともあり、翌11月場所において初土俵から所要107場所・33歳3ヶ月にして初めて小結へ昇進した。これは現在でも大相撲史上1位の三役へのスロー昇進記録である(2位は[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]の所要106場所)。その場所では3勝12敗と大きく負け越し、これが唯一の三役経験となった。
東前頭5枚目で迎えた[[1987年]]9月場所において8勝7敗で勝ち越しを果たし、その場所では前頭上位陣で好成績を挙げた者が少なかったこともあり、翌11月場所において初土俵から所要107場所・33歳3ヶ月にして初めて小結へ昇進した。これは現在でも大相撲史上1位の三役へのスロー昇進記録である(2位は[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]の所要106場所)。その場所では3勝12敗と大きく負け越し、これが唯一の三役経験となった。


[[1989年]]以降は幕内からは陥落したものの、3年近く十両で相撲を取り続け、[[昭和]]20年代生まれの最後の現役力士として長らく土俵に上がり続けた。[[1992年]]1月場所7年2ヶ月ぶりに幕下へ陥落し、同場所は全休してその場所を最37歳で廃業した。[[年寄名跡|年寄株]]の空なかったため[[日本相撲協会]]に残らず、現在は[[宇都宮市]]内で「相撲茶屋 玉龍」という相撲料理店を経営している。
[[1989年]]以降は幕内からは陥落したものの、3年近く十両で相撲を取り続け、[[昭和]]20年代生まれの最後の現役力士として長らく土俵に上がり続けた。[[1992年]]1月場所では7年2ヶ月ぶりに幕下へ陥落し、同場所は全休して場所後37歳で引退した。
[[年寄名跡|年寄株]]を取得できなかったため、引退後は[[日本相撲協会]]に残らず、現在は[[宇都宮市]]内で「相撲茶屋 玉龍」という相撲料理店を経営している。


[[高見山大五郎|高見山]]の現役最後の相手([[1984年]]5月場所千秋楽)として名を残すが、最終的に高見山より2年長い22年間も現役を務めた長持ち力士であった。<br>
[[高見山大五郎|高見山]]の現役最後の相手([[1984年]]5月場所千秋楽)として名を残すが、最終的に高見山より2年長い22年間も現役を務めた長持ち力士であった。<br>

2012年2月29日 (水) 01:42時点における版

玉龍 大蔵(たまりゅう だいぞう、1954年7月22日-)は、長崎県長崎市出身で、片男波部屋に所属した大相撲力士。本名は永田 大蔵(ながた だいぞう)。最高位は西小結1987年11月場所)。現役時代の体格は191cm、120kg。得意手は右四つ、吊り、上手投げなど。趣味は音楽鑑賞。血液型はA型。

来歴・人物

中学3年生の時に元関脇玉乃海片男波親方の勧誘を受けて片男波部屋に入門。1970年1月場所で初土俵を踏んだ。

初土俵から9年以上かかって1979年5月場所において新十両に昇進したものの、同場所では右手小指の骨折というアクシデントもあって振るわず、3勝12敗と大きく負け越してすぐに幕下へ陥落。そこから再十両を果たすまでに2年2ヶ月の期間を要した。

1981年5月場所において西幕下5枚目の位置で6勝1敗の好成績を挙げ、翌7月場所に再び十両へ復帰すると、1982年1月場所および3月場所と連続して二桁勝利を挙げ、同年5月場所において初土俵から74場所を要して新入幕を果たした。廻しを取っての豪快な上手投げや下手投げを武器として、その後の約1年半は幕内中位から下位で活躍したが、右ひじの古傷の悪化により次第に番付を落とし、1984年9月場所では東十両11枚目で3勝12敗と大敗し、翌11月場所では3年半ぶりに幕下に陥落してしまった。この時すでに30歳となっていたが、その場所を西幕下9枚目の位置で7戦全勝の幕下優勝を果たして1場所での十両への復帰を決めると、再十両となった1985年1月場所でも9勝6敗と勝ち越し、さらに1985年3月場所では西十両4枚目の位置で12勝3敗の成績で十両優勝を果たし、翌5月場所で3度目の入幕を果たした。以降は幕内に再び定着し、自己最高位となる東前頭2枚目まで昇進した1986年3月場所では5勝10敗と大敗したものの、その場所で優勝した関脇・保志や大関・朝潮との対戦では勝利した。同年11月場所4日目には千代の富士から生涯唯一となる金星を獲得した。

東前頭5枚目で迎えた1987年9月場所において8勝7敗で勝ち越しを果たし、その場所では前頭上位陣で好成績を挙げた者が少なかったこともあり、翌11月場所において初土俵から所要107場所・33歳3ヶ月にして初めて小結へ昇進した。これは、現在でも大相撲史上1位の三役へのスロー昇進記録である(2位は琴稲妻の所要106場所)。その場所では3勝12敗と大きく負け越し、これが唯一の三役経験となった。

1989年以降は幕内からは陥落したものの、3年近く十両で相撲を取り続け、昭和20年代生まれの最後の現役力士として長らく土俵に上がり続けた。1992年1月場所では7年2ヶ月ぶりに幕下へ陥落し、同場所は全休して場所後、37歳で引退した。

年寄株を取得できなかったため、引退後は日本相撲協会に残らず、現在は宇都宮市内で「相撲茶屋 玉龍」という相撲料理店を経営している。

高見山の現役最後の相手(1984年5月場所千秋楽)として名を残すが、最終的に高見山より2年長い22年間も現役を務めた長持ち力士であった。

主な戦績

  • 幕内在位:30場所(うち小結1場所)
  • 幕内成績:195勝255敗 勝率.433
  • 現役在位:132場所
  • 通算成績:700勝714敗14休 勝率.495
  • 金星:1個(千代の富士から。1986年11月場所4日目)
  • 各段優勝:十両1回(1985年3月場所)、幕下1回(1984年11月場所)

改名歴

  • 永田 大蔵(ながた だいぞう、1970年3月場所-1972年1月場所)
  • 玉龍 大蔵(たまりゅう -、1972年3月場所-1992年1月場所)

関連項目

外部リンク