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「フィンセント・ファン・ゴッホ」の版間の差分

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[[ファイル:Henri de Toulouse-Lautrec 056.jpg|thumb|170px|[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]によるゴッホの肖像画<br />(1887年)]]
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ゴッホの初期作品は、[[ジャン・ミレー|ミレー]]の影響が強かったが、印象派と出会うことによりその資質が開花したといえる。当時のパリでは[[ジャポニスム]]が流行していたこともあり、浮世絵にも大きな影響を受けた。印象派の画家達の筆触が比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下るとともに筆触は長く伸び、うねり、のちの表現主義を予告するようなものになる。また新印象派が理論的だったのに対し、ゴッホは主観的・また[[象徴主義]]的である。強い輪郭線、色面による構成、デフォルメ等も、印象派とは異質のものである。彼は夜の街も描き、人間社会の憂鬱さや、神的な世界をもモチーフにした。
ゴッホの初期作品は、[[ジャン・ミレー|ミレー]]の影響が強かったが、印象派と出会うことによりその資質が開花したといえる。当時のパリでは[[ジャポニスム]]が流行していたこともあり、浮世絵にも大きな影響を受けた。印象派の画家達の筆触が比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下るとともに筆触は長く伸び、うねり、のちの[[表現主義]]を予告するようなものになる。また新印象派が理論的だったのに対し、ゴッホは主観的・また[[象徴主義]]的である。強い輪郭線、色面による構成、デフォルメ等も、印象派とは異質のものである。彼は夜の街も描き、人間社会の憂鬱さや、神的な世界をもモチーフにした。


== 日本での受容 ==
== 日本での受容 ==

2012年3月13日 (火) 04:33時点における版

フィンセント・ファン・ゴッホ
Vincent van Gogh
1990年代初頭に発見された1886年頃の写真
専門家の中では反対意見もある
誕生日 1853年3月30日
出生地 オランダの旗 オランダ ズンデルト
死没年 (1890-07-29) 1890年7月29日(37歳没)
死没地 フランスの旗 フランス ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ
国籍 オランダの旗 オランダ
運動・動向 ポスト印象派
芸術分野 画家
教育 ブリュッセル美術学校
アントウェルペン王立芸術学院
代表作ジャガイモを食べる人々』、『ひまわり』、『タンギー爺さん』、『星月夜』など
後援者 テオドルス(弟)
影響を受けた
芸術家
アントン・モーヴジャン=フランソワ・ミレーモンティセリ印象派浮世絵
影響を与えた
芸術家
表現主義
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フィンセント・ファン・ゴッホヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、Vincent van Gogh, 1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダ画家。姓・名前とも様々に表記されるが、詳細は#日本におけるゴッホの表記と発音を参照。なお、ファン/ヴァンは本来は姓の一部である。

概要

フランスパリアルルに居を構え、印象派浮世絵の影響を受けた作品を描いた。ポスト印象派の代表的画家である。現在でこそ高く評価をされているが、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だった。人に贈った絵が、鶏小屋の穴を塞ぐのに使われていたこともあった(『医師フェリックス・レイの肖像』)。1890年に銃で自殺。彼を終生援助した弟テオドルス(通称テオ)にあてた書簡はのちに出版され、文学的に高く評価されている。

生涯

13歳(1866年)
  • 1853年オランダ南部のベルギーとの国境に近い町ズンデルトに生まれた。祖父、父共に牧師だった。前年に生まれてすぐに死んだ兄と同じ名前を付けられた。幼い頃から性格は激しく、家族を含め、他人との交流に問題を抱えていた。
  • 1869年から美術商として成功していた伯父のグーピル商会に勤め、熱心に働いた。
  • 1872年からは兄弟の中で唯一気の合った弟のテオドルス(テオ)と文通を始めた。この文通は何度か途切れるが、死に至るまで20年にわたって続けられた。商会のロンドンパリの支店に勤めるが、失恋をきっかけに美術商への熱意を失う。
  • 1876年に勤務態度があまりにも悪かったため、商会を退職させられる、牧師を目指し、貧しい人々のために献身的に活動を行う。
  • 1879年にあまりにみすぼらしい有様が牧師らしくないと言われ、伝道師の仮免許を剥奪される。その後もしばらく炭坑で伝道の補助を行う。
耳を切った後に描かれた自画像(1889年)。背後には、浮世絵が飾られている。コートールド・ギャラリー

なお、死因は一般には自殺と言われているが、自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いたことや、右利きにもかかわらず左脇腹から垂直に内臓を貫いていることから、他殺説も存在する[2]

  • 兄への援助も妻子と裕福な家庭を築くことも上手くいかない弟テオが、自殺未遂で拳銃を取り出した際に、もみ合ってヴィンセントの腹に銃弾が発射されたとの説もある。
  • 弟テオは、ヴィンセントの死から数ヶ月後の1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院した後、1891年1月25日に病で死去する。

作品

ゴーギャンによるゴッホの肖像画
(1888年)
ロートレックによるゴッホの肖像画
(1887年)

ゴッホの初期作品は、ミレーの影響が強かったが、印象派と出会うことによりその資質が開花したといえる。当時のパリではジャポニスムが流行していたこともあり、浮世絵にも大きな影響を受けた。印象派の画家達の筆触が比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下るとともに筆触は長く伸び、うねり、のちの表現主義を予告するようなものになる。また新印象派が理論的だったのに対し、ゴッホは主観的・また象徴主義的である。強い輪郭線、色面による構成、デフォルメ等も、印象派とは異質のものである。彼は夜の街も描き、人間社会の憂鬱さや、神的な世界をもモチーフにした。

日本での受容

ゴッホが日本において知られるようになったのは、1911年武者小路実篤が文芸誌『白樺』において紹介したのが最初と言われる。1919年には山本顧彌太が『ひまわり』を購入し、日本に持ち込んでいる。戦後は劇作品で劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり公演した『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)の影響も大きい。

1996年、ゴッホの生涯を、単独の漫画で初めて紹介した『ゴッホ-太陽を愛した「ひまわり」の画家』(小学館版学習まんが人物館)が発売された。

ゴッホ作品の高騰

ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われるが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ない。

1987年安田火災海上(現損保ジャパン)は『ひまわり』を約58億円で落札し、話題を呼んだ。現在は、損保ジャパン東郷青児美術館が所蔵している。

医師ガシェの肖像』は、テオの未亡人ヨハンナによって、1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられる作品である。1990年5月15日ニューヨーククリスティーズでの競売で、8,250万ドル(当時のレートで約124億5,000万円)で齊藤了英に競り落とされ、日本人による高額落札として話題となった。2010年現在でも、ゴッホ作品の最高落札額である。

近年では、2006年に『アルルの女(ジヌー夫人)』が4,033万ドルで落札されている。

日本におけるゴッホの表記と発音

ゴッホのサイン
  • オランダ語での発音を日本語で表記するのは難しい。 オランダ語の発音例
  • オランダ語の「g」は、日本語では表記不可能な発音である。日本語で表記するなら「ホッホ」がより近い。
  • オランダ語の「v」は「f」に近く発音される。よって「フィンセント」と「ヴィンセント」及び「ファン」と「ヴァン」については共に前者が近い。
  • 特に、「van」のvの前に無声音のtが立つため、「Vincent」のVよりも無声化する確率が高い。
  • そのため、「Vincent」を「ビンセント」「ヴィンセント」と有声音風にしておきながら「van」は「ファン」と表記されることもある。
  • ドイツ語発音では、「フィンツェント・ファン・ゴッホ」と呼ばれる(「Goch」とも表記される場合がある)。
  • フランス語では「ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ」と発音する。
  • 英語風の「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という表記もしばしば見受けられる。

映画

ゴッホ、デン・ハーグの画廊で働いていた頃の写真(18歳頃)
弟のテオ(1878年、21歳)

手紙

作品

肖像画

自画像

脚注

  1. ^ ゴッホの耳を切ったのは?=友人ゴーギャンか-英紙 【ロンドン5日時事】(2009/05/06-07:39) - 時事ドットコム 2009年5月21日閲覧。また、MSN産経ニュース[1]
  2. ^ 小林利延『ゴッホは殺されたのか 伝説の情報操作』朝日新聞社(朝日新書)、2008年
  3. ^ 訳者二見史郎は、展覧会図録『アルルのファン・ゴッホ』と、『ファン・ゴッホとミレー』を編訳・解説し、集大成の著作『ファン・ゴッホ詳伝』を、2010年11月に公刊(各みすず書房)。

関連項目

外部リンク

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