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{{和暦|1936}}5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで[[国民政府]]との国交調整のため、[[須磨弥吉郎]][[南京市|南京]]総領事と共に国民政府の[[張群]]外交部長、[[徐謨]]政務次長、[[高宗武]]亜州司長らと交渉を重ねたが、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]諜報機関の妨害工作により決裂した。
{{和暦|1936}}5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで[[国民政府]]との国交調整のため、[[須磨弥吉郎]][[南京市|南京]]総領事と共に国民政府の[[張群]]外交部長、[[徐謨]]政務次長、[[高宗武]]亜州司長らと交渉を重ねたが、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]諜報機関の妨害工作により決裂した。


{{和暦|1937}}7月に[[日中戦争]]が勃発すると、不拡大を意図した[[船津工作]]に訓令を無視して介入。自ら高宗武との会見をおこなったが、翌{{和暦|1938}}11月に退官した。
{{和暦|1937}}7月に[[日中戦争]]が勃発すると、不拡大を意図した[[盧溝橋事件#停戦協定と和平条件|船津工作]]に訓令を無視して介入。自ら高宗武との会見をおこなったが、翌{{和暦|1938}}11月に退官した。


[[第二次世界大戦]]末期の{{和暦|1945}}5月に外務省顧問となったが、戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により[[公職追放]]。解除後は[[神奈川県公安委員会|神奈川県公安委員]]を務めた。
[[第二次世界大戦]]末期の{{和暦|1945}}5月に外務省顧問となったが、戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により[[公職追放]]。解除後は[[神奈川県公安委員会|神奈川県公安委員]]を務めた。

2012年3月19日 (月) 04:27時点における版

川越 茂(かわごえ しげる、1881年(明治14年) - 1969年(昭和44年))は日本の外交官

生涯

宮崎県北那珂郡赤江村(現宮崎市)生まれ。宮崎県立宮崎中学校第七高等学校東京帝国大学法学部を卒業後外務省に入省。亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事(1929年)、満州国参事官1932年)、広東総領事(1933年)、天津総領事(1934年)を歴任。

1936年(昭和11年)5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで国民政府との国交調整のため、須磨弥吉郎南京総領事と共に国民政府の張群外交部長、徐謨政務次長、高宗武亜州司長らと交渉を重ねたが、日本陸軍諜報機関の妨害工作により決裂した。

1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発すると、不拡大を意図した船津工作に訓令を無視して介入。自ら高宗武との会見をおこなったが、翌1938年(昭和13年)11月に退官した。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月に外務省顧問となったが、戦後GHQにより公職追放。解除後は神奈川県公安委員を務めた。