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「石清水八幡宮」の版間の差分

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清和天皇が即位した翌年の[[859年]](貞観元年)の夏、[弘法大師][空海]の弟子であった南都[[大安寺]]の僧[[行教]]が[[宇佐神宮]]に参詣した折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けた。これを受けて、その翌年の[[860年]]、[[清和天皇]]の命により社殿を建立したのを創建とする。
清和天皇が即位した翌年の[[859年]](貞観元年)の夏、[[弘法大師]][[空海]]の弟子であった南都[[大安寺]]の僧[[行教]]が[[宇佐神宮]]に参詣した折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けた。これを受けて、その翌年の[[860年]]、[[清和天皇]]の命により社殿を建立したのを創建とする。


以来、京都の北東にある[比叡山][延暦寺]と対峙して[[京都]]の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として[[皇室]]・[[朝廷]]より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は220余を数える。
以来、京都の北東にある[[比叡山]][[延暦寺]]と対峙して[[京都]]の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として[[皇室]]・[[朝廷]]より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は220余を数える。
また、[[源氏]]をはじめ、[[足利氏]]・[[徳川氏]]・[[今川氏]]・[[武田氏]]など、多くの[[清和源氏]]の中の[[河内源氏]]の系統が[[氏神]]として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された
また、[[源氏]]をはじめ、[[足利氏]]・[[徳川氏]]・[[今川氏]]・[[武田氏]]など、多くの[[清和源氏]]の中の[[河内源氏]]の系統が[[氏神]]として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された


当社で元服して「八幡太郎」と称した[[源義家]]の父の[[源頼義]]が、[[河内源氏]]の氏神とした[[壷井八幡宮]]は、石清水八幡宮を源氏の本拠地の[[河内国]]石川郡壷井([[大阪府]][[羽曳野市]]壺井)に勧請したもの。また[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]は、[[源頼朝]]が幕府を開く際、石清水八幡宮の御分霊を奉安したことを創始とする。
当社で元服して「八幡太郎」と称した[[源義家]]の父の[[源頼義]]が、[[河内源氏]]の氏神とした[[壷井八幡宮]]は、石清水八幡宮を源氏の本拠地の[[河内国]]石川郡壷井([[大阪府]][[羽曳野市]]壺井)に勧請したもの。また[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]は、[[源頼朝]]が幕府を開く際、石清水八幡宮の御分霊を奉安したことを創始とする。


創建以来、幕末までは[[神仏習合]]の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称し、明治時代([[1868年]])の[[神仏分離]]までは護国寺や極楽寺、弁天堂を始め『男山48坊』と呼ばれる宿坊が参道に軒を連ね、[[寛永の三筆]]として知られる[[松花堂昭乗]]も社僧の一人であった。
創建以来、幕末までは[[神仏習合]]の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称し、明治時代([[1868年]])の[[神仏分離]]までは護国寺や極楽寺、弁天堂を始め『男山48坊』と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、[[寛永の三筆]]として知られる[[松花堂昭乗]]も[[八幡大菩薩]]に仕える社僧の一人であった。


また最近では、[[松下電器産業]]株式会社([[ナショナル]]、[[Panasonic]])の創業者でもあり経営の神様とも称される[[松下幸之助]]氏が深く信仰した他、[[厄除]]開運、必勝、[[商売繁盛]]、家内安全などの御利益を願って全国から参拝者が足を運ぶ。
また最近では、[[松下電器産業]]株式会社([[ナショナル]]、[[Panasonic]])の創業者でもあり経営の神様とも称される[[松下幸之助]]氏が深く信仰した他、[[厄除]]開運、必勝、[[商売繁盛]]、家内安全などの御利益を願って全国から参拝者が足を運ぶ。

2006年1月12日 (木) 10:00時点における版

ファイル:Iwashimizu-hachimangu-1.jpg
石清水八幡宮の社殿

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)京都府八幡市にある神社宇佐神宮(宇佐八幡宮)・鶴岡八幡宮と並ぶ日本三大八幡宮のひとつ。八幡大神を祭神とする。

二十二社の上七社の一つであり、旧社格は官幣大社。本殿など建造物9件が国の重要文化財に指定されている。


清和天皇が即位した翌年の859年(貞観元年)の夏、弘法大師空海の弟子であった南都大安寺の僧行教宇佐神宮に参詣した折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けた。これを受けて、その翌年の860年清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。

以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は220余を数える。 また、源氏をはじめ、足利氏徳川氏今川氏武田氏など、多くの清和源氏の中の河内源氏の系統が氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された

当社で元服して「八幡太郎」と称した源義家の父の源頼義が、河内源氏の氏神とした壷井八幡宮は、石清水八幡宮を源氏の本拠地の河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に勧請したもの。また鎌倉鶴岡八幡宮は、源頼朝が幕府を開く際、石清水八幡宮の御分霊を奉安したことを創始とする。

創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称し、明治時代(1868年)の神仏分離までは護国寺や極楽寺、弁天堂を始め『男山48坊』と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、寛永の三筆として知られる松花堂昭乗八幡大菩薩に仕える社僧の一人であった。

また最近では、松下電器産業株式会社(ナショナルPanasonic)の創業者でもあり経営の神様とも称される松下幸之助氏が深く信仰した他、厄除開運、必勝、商売繁盛、家内安全などの御利益を願って全国から参拝者が足を運ぶ。

基本情報

由緒

祭神

  • 中御前 - 誉田別命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇
  • 西御前 - 比咩大神(ひめおおかみ・宗像三女神)
  • 東御前 - 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后

祭事

境内外社

高良社(鳥居)

高良神社、相槌神社、石清水社、大扉稲荷社、三女神社、水分社、広田社、生田社、長田社、住吉社、一童社、龍田社、貴船社、若宮社、若宮殿社、気比社、水若宮社など

年表

<>は関連事項

文化財

建造物

  • 重要文化財「石清水八幡宮 本殿及び外殿」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 幣殿及び舞殿」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 楼門」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 東門」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 西門」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 廻廊」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 廻廊」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 廻廊」
  • 重要文化財「石清水八幡宮 五輪塔」

その他

  • 重要文化財「石燈籠」 鎌倉時代

古文書

  • 重要文化財「石清水八幡宮護国寺略記」
  • 重要文化財「類聚国史 巻第一、第五」
  • 重要文化財「石清水八幡宮田中宗清願文」
  • 重要文化財「石清水八幡宮文書」 平安~鎌倉~室町~桃山~江戸時代

石清水八幡宮が登場する作品

  • 徒然草第52段「仁和寺にある法師」
    仁和寺に居た老僧は「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」と思っていた。念願叶って石清水八幡宮へ行ったのだが、麓にある高良社や極楽寺などだけ参拝して満足し、他の人が石清水に行こうとして山を登っていたのに、今いる寺社が石清水だと思い込んで山に登らなかったという話。「どんな小さなことにも案内する人が必要である」という話であり、中学校で教えられることの多い文である。
  • 今昔物語集

交通

関連項目

外部リンク