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「因幡の白兎」の版間の差分

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=== 「和邇」について ===
=== 「和邇」について ===
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野生の爬虫類の[[ワニ]]は歴史上、日本に生息していない。「和邇」はどういう動物かについて諸説ある<ref name="kaimei"/>。
野生の爬虫類の[[ワニ]]は歴史上、日本に生息していない。しかし「和邇」は出雲国風土記の安来郷の条の伝説などにもでてくるが、どういう動物かについて諸説ある<ref name="kaimei"/>。


「鰐」「和邇」という文字はワニと読むが、『古事記』を書いた官人は、当時、「和邇」「鰐」の字でワニを指示していたかどうかは不明である<ref>日本では読みと意味が古語と現代語で一致しないことがある。[[マツムシ]]と[[スズムシ]]の入れ替わりの例などはよく知られている。</ref>。
「鰐」「和邇」という文字はワニと読むが、『古事記』を書いた官人は、当時、「和邇」「鰐」の字でワニを指示していたかどうかは不明である<ref>日本では読みと意味が古語と現代語で一致しないことがある。[[マツムシ]]と[[スズムシ]]の入れ替わりの例などはよく知られている。</ref>。

2012年3月23日 (金) 08:54時点における版

白兎海岸そばの大国主と白兎の像。
後は白兎神社の鳥居。(2010年9月26日)

稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)は日本神話古事記)に出てくるウサギのこと。このウサギの出てくる物語の名として用いられることもある。『古事記』では「稻羽之素菟」と表記されている。一般に「因幡の白兎」と表記される。

概説

この説話は、次に「大国主の国づくり」が続くが、その前に、他の兄弟神をさしおいてなぜ大国主が国を持つことになったかを説明するための一連の話の一部である。

この説話は、『先代旧事本紀』にはあるが、『日本書紀』には記述がない。『日本書紀』においては、本文でない一書にある「ヤマタノオロチ退治」の次がすぐ「大国主の国づくり」の話となっている。また、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。

『古事記』上巻(神代)の説話の一つに「稻羽之素菟」は登場する。この説話全体としては大穴牟遲神(大国主神)の求婚譚である。その中の前半に登場し、「稻羽之素菟」は大穴牟遲神に「あなたの求婚は成功するでしょう」と宣託言霊のような予祝を授ける役目を担っている。説話の後半については大国主も参照。

こんにちでは、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」が「淤岐島(おきのしま)」から「稻羽(いなば)」に渡ろうとして、「和邇(ワニ)」を並べてその背を渡ったが、「和邇」に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを「大穴牟遲神大国主神)」[1]。に助けられる、という部分的なあらすじが広く親しまれている。

あらすじ

大国主神には多くの兄弟(八十神)がいた。八十神は国を大国主に避けた。その所以は八十神が稲羽の八神上売(やがみひめ)に求婚したいと思い、ともに稲羽(いなば)に出掛けた時のことにある。八十神は大穴牟遲神(おおむなぢのかみ)に袋を持たせ、従者のようにして連れて行った。

気多(けた)の前まで来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。八十神が兎に言った「お前のすべきこと、それは海塩を浴び、風にあたって、高山尾上(高い山の尾根の上、の意味か)に伏せていることだ」。兎がその通りにすると、海塩が乾くにつれて、身の皮が風に吹き裂かれた。

兎が痛みに苦しんで泣き伏せていると、最後にやってきた大穴牟遲神が「どうして泣いているのか」と聞いた。菟が申すことには、「私は淤岐嶋にいて、この地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、海の和邇を欺いて、『私とあなたとを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と言いました。このように言ったところ、欺かれて和邇は列をなし、私はその上を踏んで数えながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は言ってしまったのです、『お前は欺かれたんだよ』と。言いおわるやいなや、最端にいた和邇は、私を捕えてすっかり衣服を剥いでしまった。これを泣き憂いていたところ、先に行った八十神が『海塩を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えて言ったのです。それで、教えのとおりにしたところ、この身はすっかり傷ついてしまったのです」。

そこで、大穴牟遲神が兎に教えて言うことには、「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の(がま)をとって敷き散らして、その上を転げまわれば、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」。そこで、教えのとおりにすると、その体は本来のようになった。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。今は兎神と呼ばれるようになった。

兎が大穴牟遲神に畏み言うことには、「八十神は八上比売を決して得られない。袋を背負っていても、あなた様が獲得なさる」と畏み申した。[2]

解説

稻羽について

「因幡の白兎」と書かれるが、「稲羽」が因幡(現在の鳥取県東部)であるとは、本文には記されていない。

「イナバ」は稲葉、稲場であり、イネの置き場を指し、各地に地名として存在する。また、「往ぬ」「去ぬ」という動詞からきていると解されて和歌などにも「去ろう」「帰ろう」との意味で多々詠まれてきた。

これを因幡とするのは、大国主の話の前後にあり彼の義父となる素戔嗚命の話において、素戔嗚が住んだところが出雲であるから、物語の展開上、その隣の因幡のことではないかと読み進められてきた[誰?]

淤岐嶋について

「淤岐嶋」についても、現在の島根県隠岐郡隠岐島とする説[3]、ほかの島(沖之島等)を指すとする説がある。他に、特定はせず「沖にある島」を漠然とさすとする説[4]もあり、『古事記』において、現代の隠岐島を指すと思われるときには「隠伎の島」と表記されているのに対して、「稻羽之素菟」のところでは「淤岐嶋」と表記されており、「淤岐」の文字は「淤岐都登理(おきつどり)」など、陸地から離れた海という意味の「沖」をさしていることが多く、「淤岐嶋」は「沖の島」の意であるとされる。

「気多の前」は、仮に「淤岐嶋」を鳥取県隠岐郡とした場合には、鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧高草郡)の気多の岬(けたみさき)にあてる説、鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧気多郡)の長尾鼻にあてる説などがある。

「淤岐嶋」を鳥取県隠岐郡とした場合、鳥取市(旧高草郡)には「白兎海岸という浜辺があり、沖合150メートルに島がある。そこまでは岩礁が点々とあり、この岩礁を「わに」に見立てる人もいる。周辺には「気多の岬」、菟が身を乾かしていた「身干山」、兎が体を洗った「水門」でありかつてはこのあたりまで海になっていたことがあり、戦前までは蒲が密生していたという「不増不滅之池」、白兎神社などが揃う。

白兎神社

「白兎神社」に関しては、江戸時代初期の鳥取藩侍医小泉友賢の『因幡民談記』では[5]、『塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)[6]』にある「老兔」について大兔(おおうさぎ)明神は、老兔(ろううさぎ)明神ではないかと考察し、菟は◇(にんべんに竹の右側を書く)草の林にすむ「老兔」であり、洪水によって林が掘り返され、◇の根に乗って沖の島に流された。帰るために「鰐という魚」をたばかって、己とおまえとどちらが家族が多いか数えようと言って鰐を集めてその背を渡ったという[7]

また、平安時代に朝廷が寺社を管理するために官社を定め格付け整理をした『延喜式』神名帳には、因幡国のところに白兎神社の名はみえない[8]。一方で、八上比売を祀る神社として現在の鳥取県八上郡の売沼神社をあてることがあるが、これは『延喜式』の八上郡にみられる神社から相当しそうなものをあてたことに端を発するらしく、『延喜式』にはその社名が載っているといえども売沼神社の祭神が八上比売であることまでは確認できない。

「素菟」について

この兎は、各地の神社名「白兎神社」や祭神名「白兎神」「白兎明神」などに見られるように、「白兎」として広く伝わっている。『古事記』における表記は「菟」、「裸の菟」、「稲羽の素菟」、「菟神」である。江戸時代の国学者本居宣長は、「素」という字には何にもまとわず何にも染まっていないの意があるのではないかと考察している[9]

日本では白い動物を瑞兆として貴んできた。白い動物への信仰は倭建命の魂は白鳥[10]に姿を変えることにも見られ、普段は白くない動物が突然変異で白くなったもの(白鹿、白亀、白蛇)などは神の使い或いは守り神であるから殺してはいけないといった言い伝えも各地にあり、それらは瑞兆として朝廷にも献上された。こうしたことから、大国主の神に予祝する特別なウサギは白いに決まっている、と人々は読んできたと考えられる。

また「白兎明神」は各地で「白鷺明神」と混同され、両方を祀っている寺社もある。発音の近似のほかに、白鷺明神が「疱瘡神除け」としての性格を持つことも無視できない。大国主神が「其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹き拆(さ)かえ」た「裸の菟」に教えたのは、裂傷の手当などではなく、「汝が身、本の膚の如、必ず差(い)えむ」とあるように、皮膚の手当なのである。大国主神に伴う白い兔、倭建命たる白い鳥は、ともに危険な死地を脱する存在、荒れ狂う恐ろしいものを鎮める役割を担っている。(後述する「医療について」も参照。)

『古事記』に「白」と書いていないからといって、「白」でないとする根拠もない。宣長のように「素」の文字に白の意があるとすれば、「白兎」は間違いではない[11]

「和邇」について

野生の爬虫類のワニは歴史上、日本に生息していない。しかし「和邇」は出雲国風土記の安来郷の条の伝説などにもでてくるが、どういう動物かについて諸説ある[12]

「鰐」「和邇」という文字はワニと読むが、『古事記』を書いた官人は、当時、「和邇」「鰐」の字でワニを指示していたかどうかは不明である[13]

また日本語では複数のものを同じ呼称で呼びあらわすため[14]、「わに」は複数の種類の動物の可能性もある。

古墳時代から奈良時代にかけて日本に残っている銅鏡の中には、現在海獣鏡あるいは鼉龍鏡などと呼び名をつけられている、長い姿の獣をモチーフにした鏡がある。その文様が、海蛇、サメ、ワニ、水蛇、蛟龍、青龍のいずれかは不明だが、水生の長い動物への信仰が、その文様の発祥たる中国にはあったことがうかがえる。ほか、世界各地でシーサーペントと呼ばれる大海蛇のような未知なる巨大水棲生物への畏怖を伝える伝説もある。

また、『古事記』にはヤマタノオロチのように架空の動物も登場する。

「和邇」を特定の実在生物に比定することについて、現在までに提唱されている説を以下にあげる。

サメ説

文献研究的にはこの説が一般的である。特に種別の特定はせず、サメやフカのことであるとする。日本には「鰐鮫(ワニザメ)」という言葉があるが、これは獰猛なサメといった意味であり、「鰐」の字とワニという読み方があれどそこに爬虫類のワニの意味はない。平安時代の『和名類聚抄』によれば、日本で「鮫」という字が用いられるようになったのは平安時代以降とされる。

また、旧因幡国(現在の鳥取県東部)を含む山陰地方方言ではサメのことをワニと呼ぶ[15]。歴史学者の喜田貞吉は、隠岐島で出された刺し身について女中が「ワニ」と答えた経験から、古事記神代巻に出て来るワニとはフカ(サメ)のことだとの説に賛成し、後に国定教科書編者となった時、因幡の白兎のワニをワニザメ(すなわち獰猛なサメ)と表記した[16]。出雲国風土記の安来郷の話にも同様なものがあったからであろう。中国地方の山陰では浜でも山間部でもサメを「わに」と呼び、わに料理は山間部に伝わるサメ・エイ等の魚を煮た料理である。

『古事記』山幸彦と海幸彦の段に、山幸彦は「一尋和邇」(ひとひろわに)の首に小刀をつけて返し、佐比持(サヒモチ)神と呼ぶ話がある。サヒは刀の意味で、シュモクザメの頭部が、刀を持っている様であることを表したものと考えられ、「和邇」の字でサメを意味するとみられる。シュモクザメであれば古来から現在に至るまで日本近海に生息している[17]

日本書紀』でも山幸彦と海幸彦の物語がある第十段一書の第四において、「海神 所乘駿馬者 八尋鰐也 是 竪其鰭背 而在 橘之小戸[18][19]」とあり、海神の乗る駿馬は「八尋鰐[20]」で、その鰭(ヒレ)を背に立てて橘之小戸にいると書かれており、サメと読むことができる。

ほか、『日本書紀』第六の一書に、事代主神が「八尋熊鰐」に化けて玉櫛姫に通い、姫蹈鞴五十鈴姫命が生まれ、のちに神武天皇の后となったと書かれている[21]

『肥前国風土記』小城郡条には、世田姫に会うため「海神 謂鰐魚」が佐嘉川を遡上するとあり、『出雲国風土記』仁多郡条の戀山(したいやま)の由来として、「和爾」が阿井村の玉日女命に通おうと「川を遡上」したが、岩で川を塞がれたため和爾が恋しがったことによるという話があり、『古事記』の「海の和邇」との比較から、川の和邇とする見方もある。チョウザメオオメジロザメは川を遡上するし、サメは淡水でも生きられる。[22]


ウミヘビ説

『古事記』の山幸彦と海幸彦の記述に、豊玉姫の出産場面で豊玉姫が「八尋和邇(やひろわに)に化りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もこよ)ひき」とある。津田左右吉は仏教におけるナーガ(水蛟、龍神)信仰を念頭において(すなわち、仏教伝来以後に仏教以前の信仰があるようにとして書いたものが記紀であるということをも示唆している)、『日本古典の研究』において「八尋鰐」と化した豊玉姫が「委蛇ひき」すなわち「蛇のごとくうねった」という日本語の描写の表現的な観点から、「鰐」はワニやサメのようなものよりももっと長くて細い、ウミヘビ状のものではないかと記述した[12](ワニ説のところで後述するが、同じ箇所を読んで、はらばいである点からワニの根拠と読む人もある)。

ワニ説

東南アジアのワニとする説もある。東インド諸島からインドネシアまで、東南アジアには、爬虫類のワニの背をマメジカやある種のサルなどの小動物が渡るという説話が各地にあり、その関連が研究者により指摘されている[23]。東南アジアのイモ栽培起源[23]と同様の話が『古事記』にあり、山幸彦海幸彦の旱魃洪水の話も東南アジアに類話があり、『古事記』にはそうした南方系神話が混入している(日本神話#研究参照)。

他に、中国南部に生息するワニとする説がある。古墳時代、倭の五王などが使いを出したのは中国の南朝であり、中国南部にはヨウスコウアリゲーターというワニが生息している。これが『古事記』における「和邇」だとするには、たまたま稲作の文化またはその担い手の人々が日本に来た時に中国南部にいる爬虫類のワニの話を持ってきて、たまたま書き手がそのままその中国南部に生息するワニを思い浮かべたまま古事記を書いたとするなどの偶然の重なり合いが必要で、そこまでの偶然の重なり合いがあって初めて「鰐」「和邇」はワニの意味であると考えられる。しかし、中国南部の川のワニのことであるならばわざわざ舞台を日本の「淤岐嶋」の海にする必要性がなく、疑問が残る。そもそも、『古事記』『日本書紀』およびこの因幡の白兎の物語は明治時代になって一般に知られるようになったもので、明治時代に「これは日本の古来の書物であり江戸時代にこういう研究がなされた」という形で始めて世に知られるようになったものであり、『古事記』も『日本書紀』も江戸時代から明治にかけてつくられた「古墳時代」「縄文時代」「弥生時代」という日本の諸外国にひけをとらない永い歴史の実在をつくりだすため必要な歴史資料である。ちなみに、現代の日本語ではワニというと多くの人は、細長い顔つきで口をぐわっと大きく開くナイル川やアマゾンにいる「クロコダイル」という爬虫類を思い浮かべるが、この「アリゲーター」という爬虫類は丸い顔つきで口もそれほど大きく開口しない。

小説家司馬遼太郎は『古事記』の山幸彦と海幸彦の記述に、豊玉姫の出産場面で豊玉姫が「八尋和邇(やひろわに)に化りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もこよ)ひき」とあることから、「八尋鰐」が「匍匐」すなわち、はらばいなのであるから「和邇」はワニのことであろうとしている[24]。こうした見方に対しては、次のような指摘もある。ワニが身近でない日本人はワニは腹をひきずっているような気がしてしまうが、実際にはワニは強靭な四本足で体を支えており、腹這いになる動物ではない。ワニの腹はさわり心地がいいといえるくらい白く柔らかく、決してあの硬く丈夫な背中を使ったワニ革のようなものではなく、腹這いで動いていたら腹部が傷ついて死んでしまう。トカゲが腹這いではないのと同様である。(ウミヘビ説のところで前述したが、同じ箇所を読んで、「委蛇ひき」すなわちあたかも蛇であるかのようにくねったのだからワニではなくウミヘビであろうと読む人もある。)ちなみに、この部分はいわゆる異類婚姻譚であり、寓話ではなくあえてそのまま生物学的に読むとすれば、和邇(海神)とヒト神が結婚をしてその子供が生まれる話である。ちなみに、サメは他の魚類爬虫類とは異なり、「オスとメスが人間などの哺乳類と同じく交尾をして、卵ではなく子供を産む」胎生の軟骨魚類である[25]豊玉姫の出産では鵜の羽で屋根を葺いた産屋を作るエピソードが出てくる。それゆえに、そこで生まれた子は鵜茅不合葺命と呼ばれる。未確認動物研究家實吉達郎はその著書でイリエワニが日本に漂着する可能性を指摘しており、イリエワニは卵を温めるために葦で巣を作る事が知られており、産屋を作るエピソードとの類似性からワニ説の根拠としている。しかし『古事記』では産屋を作るのは和邇である豊玉姫ではなく、彼女と結婚したヒトである山幸彦であり、葦で産屋を作ったわけではなく根拠としては弱い。 生物学的な観点からいえば、次のようなことも指摘できる。まず、水面に並んで浮くという行動はワニの生態によく合うが、空気呼吸ができず、静止状態では窒息してしまうサメには無理であるとする意見[26]。しかし、サメの中には静止状態でいてもとくに呼吸に支障をきたさず死なないものがある。他に、ワニ(アリゲーターではなくクロコダイルの場合)が空中の餌を取る行動はよく観察されるが、静止状態からではサメには不可能であるとする意見。しかし『古事記』には静止状態から空中のウサギを噛んだという描写はなく、追いかけまわしてからウサギを捕まえたとすれば起こりうることであるし、ホオジロザメなどはジャンプして空気中に大きな顎を出して獲物に噛みつくことが知られている。

出雲国風土記』では、語臣猪麻呂(かたりのおみゐまろ)の娘が岬に遊んでいた折に「和爾」に食い殺されたという話と、出雲で取れる「沙魚」という魚のことが書かれている。「和邇」をワニとし、「沙魚」をサメとする向きもある。

平安時代の辞書『和名類聚抄[27]』では、「和邇」とは「四足がある」「鰐のこと」「鼈に似ている」と書いている。大鹿が川を渡るとき之を中断すると記している。また、「和邇」とは別に「鮫」の項があり、そこには「和名 佐米(鮫の文字はさめと読む、の意)」と読み方が書かれている。「鮫」がどんなものを指すのかは書かれていない。このことは、平安時代には「さめ」と読む「鮫」という漢字が使われ始めたと同時に四本足の爬虫類のワニが認識されていたことを示すものであって、それ以前の時代にそうであったという根拠にはならない。「和邇」がワニの『古事記』成立期の旧呼称であることを示す文献は存在しない。

その他

『万葉集註釈』巻第二にある『壱岐国風土記』逸文[28]の鯨伏(いさふし)の郷の由来について、「昔者 鮐鰐追鯨 鯨走來隱伏 故云 鯨伏 鰐並鯨 並化為石 相去一里 昔者俗云鯨為 伊佐譯注 鮐 原為海魚 亦有年老之意 此以鮐鰐引作大鰐也[29]」と書かれている。「昔、鮐鰐(わに)鯨(いさ)を追ひければ、鯨(いさ)走り来て隠(かく)り伏しき。故(ゆえ)に鯨伏(いさふし)と云ふ。鰐(わに)と鯨(いさ)と、並び石と化為(な)れり。相去ること一里(さと)なり。昔、俗に云う、鯨を伊佐(いさ)と為す。譚注 鮐は海魚を為し、また年老いるの意有り、これをもって鮐鰐は大鰐に引き作る」とあり、「鰐」がクジラを追う様子と考えられる。

陸上の動物が水中の動物を騙して水(ほとんどは川)を渡るという説話は、上でも言及したように、東南アジアインド、その他世界各地に分布している。そこで、元々は大国主とは関係のない伝承を大国主の話として『古事記』に取り込んだものと考える説も古来から唱えられている[12]が、それをいったら実は『古事記』に出てくるほぼすべての説話は世界各地に多かれ少なかれ類話があるのである。

また、世界といってもある地域に関しては日本が盛んに海外進出して皇民化教育を行った際に天皇を暗記暗唱させたのと同じように広めたからだという可能性もあるし、『古事記』は江戸時代以前にはほとんど読まれていなかった。江戸時代に尊王攘夷の機運とともに歴史学・国学研究が著しく盛んになり、天皇陵の比定も江戸時代後期(一部は明治時代までかかった)に行われた。国学者たちが『古事記』に目を向けるようになったのもこの頃である。そのときには既に日本人は万葉仮名は読めなくなっていた。だからこそ、本居宣長らの注釈書が作られ、重用されたのである。それ以前は、『古事記』『日本書紀』と同じ内容を掲載しながらも天皇家より物部氏に重きをおいた『先代旧事本紀』のほうが広く知られており、江戸時代末期に尊王攘夷思想のもと徳川光圀らがそれを偽書とするまで、幕府の御用学者や各地の知識層もそちらをよく読んでいた(『先代旧事本紀』の或る系統の写本にある表記法、たとえば『古事記』では「兄弟八十神」とあるのを『先代旧事本紀』では「兄事八十神」と書いていることなど、幕府の御用学者らの著書は後者の表記でそのまま見られることなどが、それを証明している)。

仮に海外から持ち込まれた伝聞が取り込まれたのだと解するとしても、そもそも、なぜそれが『古事記』のその部分に採用されなければならなかったか、を考察することが肝要であろう。

医療について

この説話において、「水門の蒲」があたかも薬のように登場する。この記載を、日本における薬の史籍の最初だとする見方もある。[30]。この説話と八十神の迫害における貝を用いる治療の描写は、古代の医術の一端を今に伝えるものと理解する向きもある。

現在の漢方薬に「ホオウ(蒲黄)」という名のガマ科ガマの成熟花粉を乾燥した粉末状の漢方が存在する。成分にはシトステロールが含まれ、脂質異常症(高コレステロール)などに効果があるとされる。ただし、漢方薬のホオウは飲み薬である。傷薬としての外用薬ではない。子宮収縮作用があるため、妊婦は飲んではいけない。味は甘味があるという。

注意しなくてはいけないのが、この説話で語られているのは、あくまで「其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹き拆(さ)かえ」た「裸の菟」の手当てであって、「和邇」に噛まれた裂傷の手当などではないことである(そもそも「和邇」が噛んだという描写はどこにもない。菟は「衣服を剥がされた」のである)。そして、「汝が身、本の膚の如、必ず差(い)えむ」とあるように、皮膚の手当なのである。

皮膚の手当てに関して、「白兎明神」は各地で疱瘡神除けの「白鷺明神」と混同される傾向にあることは既に「素菟について」のところで述べたが、「疱瘡神」(天然痘)を克服するというのは膚の手当てとも関連してくるのである。疱瘡神は天然痘やあらゆる病あらゆる災厄の象徴としておそれられ、疱瘡神を除けるためのさまざまな民間信仰による民間儀礼が日本の各地に残っている(「サムハラ」、「蘇民将来」など。お守り参照)。疱瘡神は暴れる神、素戔嗚命であるとされることもあり、大国主神はこの「稲羽の素菟」の前後で素戔嗚命の出す難題を乗り越える神として伝わっているため、その関連が指摘される。

また、発音を同じくするガマといえば、ガマの油という軟膏のような薬は江戸時代には売られていた。実際には動物の脂肪からとった油分を薬としたものであったらしいがよくわかっていない。こんにちでもひび割れた皮膚の状態を整えるために馬油を塗ったりするが、それに類するような効果はあったと考えられる。漢方薬にはカエルの耳腺分泌物を集め乾燥させた蟾酥(せんそ)というものがあり、これは飲み薬に用いられるほかに、局所麻酔作用がある。(日本では毒薬)。

大国主神は、この説話及び『日本書紀』の少彦名命(すくなひこな)と共に病気の治療法を定めたとする記述から、医療の神ともされている。

八十神の「海塩を浴み、風に当りて伏せれ」という教えについては、解釈がわかれるところである。

大国主の偉大さ、賢者ぶりを強調する説話であるため、八十神は悪意に満ちた害ばかりの教えを行ったと解する見方。そして、一見、悪意に満ちたものに思われるが、この行為は「塩による消毒」を示唆しているという人もある(ただし、実際には、海水で洗っても消毒にはならない)。これについて、『古事記』には「海水」ではなく「海塩」と書かれていることに注意するならば、塩による消毒もあながち的はずれともいいきれない。古来から世界中で食べ物の保存には塩と乾燥が用いられてきた。塩漬けにしたり乾物にしたりすると、完成したものはそれ以上は傷まない(腐食が止まる)ことは、文字などが入ってくるはるかに昔から人間の知恵として世界中で広く認知されていた。それから、大国主の治療はあくまでこの八十神の治療を前提とした第二段階なのであり、八十神の教えがあって初めて完成する治療なのだという見方。いわゆる現代のピーリングのように、いったんよくない部分を完全に取り除く方法を第一段階として教え、そして次の段階の指示(大国主の指示)を高山で待っているように教えたものと解釈することもできる。

日本の類話

山間の鳥取県八頭郡八頭町、かつての八上(やかみ)を舞台とする白兎の出てくる話がつい最近平成20年(2008年)を過ぎて突然知られるようになった。以下のようなものである。

天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探していたところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束を銜(くわ)えて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平(いせがなる)まで案内し、白兎はそこで姿を消した。天照大神は行宮地の近くの御冠石(みこいわ)で国見をされ、そこに冠を置かれた。その後、天照大神が氷ノ山(現赤倉山)の氷ノ越えを通って因幡を去られるとき、そこで樹氷の美しさに感動されてその山を日枝の山(ひえのやま)と命名された。氷ノ山麓の舂米(つくよね)集落には、その際、天照大神が詠まれた御製が伝わる、という話。

また、八頭町門尾(かどお)の青龍寺において、平成23年(2011年)の兎年を前にした平成22年(2010年)、それまでは存在だけが伝えられていた縁起が偶然発見された。そこには、「昔、天照(あまてらす)大神(おおみかみ)が霊石山に降臨された際に一羽の白兎が現れて道案内をし、白兎は月読(つきよみの)尊(みこと)のご神体であり、その後これを道祖白兎大明神と言いならわし、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めた」と記されているという話。

これらの話の出所は定かではない。よく知られた神武天皇東征のヤタガラスの案内の話と、なぜかよく似ている。それから、冠を置くというが天照大神が冠をかぶっているというのはこれまでどこにも出ていなかった非常に斬新な考えである。冠とは他者に対して位と偉さを視覚的にあらわすためにかぶるものであり、至上の存在である天照大神には必要のない品物であり、原始古代精神的な考えではありえない。冠を置くとはすなわち位を置くことつまり退位を意味する。休憩で人前で冠をとりしかもそれをどこかに置いておくなどということはありえない。天照大神が国見をしたというが国見とは重大な行事なので時期も場所も決まっている。単に高い場所から見下ろすという意味ではないため、この場所で国見をしたというのは明らかにおかしなことである。樹氷をあらわすのに日枝という文字を使うのは不可解である。まして、日は天照大神そのものである。そう簡単に使いはしない。氷は「ひ」であり「ひえ」ではない。氷だから冷えでつながるだろうと安直に考えた現代人的な文章にさえ見える。国見をしてさらに日の字を与えたなどという超重大事件の存在が2000年を過ぎるまで誰の口にものぼらなかったとはなんとも不思議である。また、白兎が月読命のご神体だとしている所から見て、どんなにさかのぼろうとしてみても江戸時代中ごろ以降というよりは平成になってからに作られたとみるのが自然である。月読命をまつる寺社で兎を大事にしたり使いとしてみたりすることはあるが、それはあくまで仏教道教の影響を受けた月には兎という民衆の素朴な思いが結びついたものであって、月読命には兎に化身する理由はないのである。月読命がすなわち白兎だとしている寺社は古今東西この例以外に皆無であり、それはそのようにする必要がないからである。

八頭町には、つい最近まで地元の人が由来どころか「白兎神社」だと認識すらしていなかった3つの「白兎神社」があると縁起の取材において結び付けられた。この3つの寺社が選ばれたのは、夏至冬至のライン上にあるということが理由であり、そのラインの南西の延長上に鳥取市河原町曳田の賣沼神社(祭神八上姫)、嶽古墳(八上姫の奥都城ではないかとする説もある)、北東の延長線上に胞衣塚が位置するような3つの祠を都合よく選び出したのである。そして、古代において復活、再生を意図した祭祀がなされていたであろうことがうかがえるなどと言い出し始めた者もいる。しかし、これは古代に夏至冬至ラインに寺社を作ったのではなく、つい最近に夏至冬至ラインに近いところにある寺社を選びだしたのである。八頭町池田には現在は白兎神社と呼ばれている神社があるが、祭神は市杵島姫命、倉稲玉(うかのみたま)命、ミズハノメノ命であり、兎神は祀られていない。社殿のようなものはなく、現在、兎を祀るという祠と稲荷を祀るといわれている二つの祠が鎮座する。八頭町福本にある白兎神社は、840年前後に位をいただいたという話を広めているが「位をいただく」と表現するのならば当然のことながら朝廷に認識されて『延喜式』に掲載されてしかるべきであるが、載っていない。「白兎大明神」を祀っていたそうある(「大兔明神」を祀る白兎海岸の白兎神社とは異なるようである)が、現在は社殿というべきものはなく、鳥居と祠のみである。大正時代の合祀以前には江戸期に築造された社殿があって、正面には「波に兎」と菊の御紋の彫刻が施されているという。彫刻はどうみても江戸中期以前にはさかのぼれない。「波に兎」は江戸中期には庶民も日本各地で広く愛好していたことが知られる瑞祥文様である。謡曲「竹生島」の歌詞にも月の兎は水に映った月の中で波の上を跳ねるという歌詞がある。東北関東九州近畿、各地の寺社の彫刻に「波に兎」の意匠が見られる。現在、この社殿は同町門尾の青龍寺本堂の厨子として再利用されている。八頭町土師百井(はじももい)には、以前、神社があり、大正になってご神体は八頭町宮谷の「賀茂神社」に移し、社殿は八頭町下門尾「青龍寺」に移建したという。この土師百井の神社を「もと白兎神社」と言っているのはそのことを指しており、白兎海岸の白兎神社の本所がそこであったという意味ではない。そして、上記の「伝承」は八頭町門尾(かどお)の青龍寺の城光寺縁起と八頭町土師百井の慈住寺記録として現在広められつつある。氷ノ越えの峠には、かつて、因幡堂があり、白兎をまつっていたそうであるが、現存しない。八頭町には白兎神社関係の灯篭が残るそうであるが、見るからに明らかにそれほど古いものでもないようである。

ウサギを山の神や田の神の使いとする民間信仰は日本の各地にあり、農耕時期の目印、山へ入ることの禁忌などの話によく登場する。そのほか、人がウサギに導かれるという話は京都府宇治市の宇治神社近辺の氏子の農耕時期の目印の民話としても伝わる。

世界の類話

島から戻ってくる話
シベリア少数民族の民話に、アオサギによって孤島に運ばれてしまったキツネアザラシに頭数を数えると言って一列に並ばせ、背を渡って戻ってくるという場面がある。キツネは渡った先で猟師の獲物となり、毛皮をはがされる。[31]
袋を持った人間が動物を助け、あるいは動物に助けられる話
『古事記』において、倭建命が火に囲まれたときに叔母からもらった袋とネズミのおかげで難を逃れた話(草薙剣の話として知られている)、大国主が袋を背負ってやってきてウサギを助ける話(稲羽の白兎)を思い起こさせる。
西アフリカのサバンナ地帯の口承民話。草原でワニが火に取り囲まれ、困っていた。通りかかった人間が、ワニを助けて袋に入れて背に担ぎ、湖まで運んでやる。袋からワニを出すと、ワニは人間に「腹が空いているからお前をこれから食べる」という。人間はワニに、「助けてやったのだから、感謝して食べないでくれ」と頼む。そこで、ワニは、湖に水を飲みに来たロバたちに意見をきく。ロバたちは、我々は人間を助けて人の乗り物となったり荷物を運んだりしてやるが、感謝をされたことがないと言う。日頃使役してきた動物たちに責められ、窮地に立った人間を、ただひとり、ウサギが助けてくれる。知恵者のウサギが、「この袋はずいぶんと小さすぎる。人間は、本当にこの袋に入れてワニをここまで運んできたのか。ワニは、もう一度袋に入ってみてくれないか」とワニを欺くのである。そこで、再びワニが袋に入って見せると、ワニは人間に撲殺され、食用とされることになった。ワニの入った袋を背負った人間が村に帰ると、子が病に伏せっていた。助けるにはワニの血とウサギの肉が要る。ちょうどワニはウサギの知恵のおかげで袋に入れて持ちかえっている。あとはウサギである。助けてくれたウサギが、ほら、そこにいる…[32]
ウサギの尻尾が短い理由を説明する話
アフリカの民話では、湖を迂回するのを億劫がったウサギが親類の数を誇るワニを挑発し、その自慢が本当か数えると騙して渡るが、ワニに尻尾を食いちぎられてしまう。昔ウサギは大きな尻尾を持っていたがそのために現在のウサギには尻尾がないのだと説明される。[33]ウサギの尻尾が短い理由を説明する話としては、これ以外にも、中国で広西(瑶族)民間動物故事にもウサギとワニで同じ話があり、漢族民間動物故事ではウサギとスッポンで語られる。

脚注

  1. ^ 『古事記』に出てくる大穴牟遲、葦原色許男(ア)、八千矛(ヤチホコ)、宇都志國玉(ウツシクニタマ)は同じ大国主のことと古くから解されている。『日本書紀』では、さらに、大国玉、大物主と大国主は多くの別名を持つ。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々、別の神であった神々を統合したためとも解されてきた。
  2. ^ (以上、岩波文庫の古事記から訳した)
  3. ^ 戸部民夫『日本神話』 73頁。
  4. ^ 梅原猛『神々の流竄』
  5. ^ 「兔宮」(「兔」は「兎」の旧字)は、由来は古いが廃れのちに再興したので不明であることと、「大兔明神」を祀ることが記されている。白兎海岸に設置された白兎伝説の紹介パネルなど、いくつかの再話民話集はこの『因幡民談記』によっている。
  6. ^ 天文元年(1532年)に成立したとされる寺社縁起などを集めたもの。高草郡の郡名の由来についての部分。
  7. ^ 因幡国風土記逸文とされているが、真贋は不明。「風土記逸文」〜山陰道”. 露草色の郷. 2009年12月6日閲覧。
  8. ^ 『延喜式』にないからといって必ずしも平安時代に存在しなかった証明にはならない。むしろ、『日本書紀』にはなく『旧事本紀』と『古事記』にのみ登場する兎神であるので、『日本書紀』を正史とする天皇朝廷から位をもらうような官社でなかったことはある意味では筋が通る
  9. ^ 古事記伝
  10. ^ 白い鳥はハクチョウではなく白鷺とする説もある
  11. ^ 「白兎」の字をあてている。 武田祐吉『新訂古事記 付 現代語訳』角川日本古典文庫 43頁。
  12. ^ a b c 赤城毅彦『『古事記』『日本書紀』の解明: 作成の動機と作成の方法』文芸社、2006年。ISBN 4286017303http://books.google.co.jp/books?id=5ftSj-FJk18C&lpg=PA269&ots=VJh_dv3KKs&dq=%E5%85%AB%E5%B0%8B%E9%B0%90&pg=PA269#v=onepage&q=%E5%85%AB%E5%B0%8B%E9%B0%90&f=false2010(平成22年)-08-18閲覧 、ほかにも古くからさまざまな研究がなされている
  13. ^ 日本では読みと意味が古語と現代語で一致しないことがある。マツムシスズムシの入れ替わりの例などはよく知られている。
  14. ^ たとえば、「シシ」は、食肉とするシカ、イノシシ、カモシカなどの動物の総称である。三信遠地方に伝わる花祭りの一種であるシシマツリなどと呼ばれる民間神事では、行われる行事内容は同じであるのに、その地方の中のある土地では供物にシカを用いてシシ祭りと呼び、また別の土地では供物にイノシシを用いてシシマツリと呼んだ。これとは別に獅子舞のシシもある。
  15. ^ 日本国語大辞典
  16. ^ 明治36年(1903年)の教科書ではこの表記になっている。
  17. ^ 鳥取県の青谷上寺地遺跡や兵庫県北部の袴狭遺跡ではシュモクザメを描いた絵が多く発見されているほか、2010年にも福岡県の玄界灘付近に多数が遊泳しているのが福岡県警のヘリコプターから目撃された。
  18. ^ 『日本書紀』を原文で読む”. 日本書紀. pp. 第2巻. 2010(平成22)-06-10閲覧。
  19. ^ 古代史獺祭 日本書紀 巻第二 神代下 第十段 一書第四
  20. ^ 八尋(=とても広くて大きいの意)
  21. ^ 「事代主神 化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」歴史学的には偽書とされてきた『先代旧事本紀』にも同様に、「都味歯八重事代主神 化爲八尋熊鰐通三嶋溝杭女活玉依姫 生一男一女(略)」とある
  22. ^ 現在でも沖縄などで川で採れることがあるし、昭和51年(1976年)に静岡県下紙川で、河口から1.5kmほどのところでヨシキリザメ(メジロザメ科)を捕獲した記録がある。アマゾン川の上流3700km(ペルー)や、ミシシッピー川の上流3000km(米国イリノイ州)でオオジロザメが発見された例がある。
  23. ^ a b 講談社学術文庫古事記(中)全訳中次田真幸
  24. ^ 『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち、檮原街道』
  25. ^ また、現代の水族館などでオスのサメがおらずメスのサメしかいない水槽でサメの子供が生まれた例が報告されている。このことについて、海で捕獲された時点で身ごもっていたサメであったとして説明したり、あるいは超環境に置かれた場合に生物が遺伝子的にメスのみで生殖するためだとする研究がある
  26. ^ 「和邇」をサメとした絵本で、背ビレのあるサメの背ではなく頭をウサギが跳ぶ絵になっていることから、サメにすると背を渡るという伝承の内容に合わないという理屈をいう者がいるが、それは単にその本のその挿絵のサメのキャラクター化デフォルメ上、そのように見ようと思えば見えるという程度の問題である。子供向けにデフォルメされた絵の魚の頭と背の境界がどこであるかを論じるのは不毛というものである。その絵本でも、絵の外の文字においては背を渡ると書かれている。
  27. ^ 倭名類聚抄 鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六”. 倭名類聚抄. 2010年7月15日閲覧。
  28. ^ 國土としての始原史:「風土記逸文」~西海道
  29. ^ 風土逸文 九州甲類風土記(仁和寺本『萬葉集註釋』卷第2 2‧131番歌條)
  30. ^ 富士川游「史談-日本医史:大穴牟遲神」『中外医事新報』1915年、835号、p47
  31. ^ 稲田浩二『世界昔話ハンドブック』 三省堂 ISBN 978-4385410494
  32. ^ コートジボワールの民俗学者アマドゥー・ハンパテ・バの『Il n’y a pas de petite querelle』(未邦訳)に収録された「人とワニ」による。なお、ウサギは人間の話をこっそり聞いており、逃げ出した後だった
  33. ^ 『子どもに語る世界昔ばなし』生活シリーズ 主婦と生活社 ISBN 4-391-61111-2