「那智ノ山公晴」の版間の差分
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2012年3月29日 (木) 19:39時点における版
那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、本名:柏木 佐平(かしわぎ さひら)、1920年8月15日-1994年12月22日)は、和歌山県日高郡川辺町(現役時代は同郡矢田村、現・同郡日高川町)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士。最高位は西前頭19枚目(1950年9月場所・1951年1月場所)。現役時代の体格は182cm、99kg。得意手は右四つ、三所攻め、大股、小股掬い。
来歴
1937年5月、横綱・武蔵山の一行が巡業で和歌山市内を訪れた際に出羽海親方(元小結・両國)の熱心なスカウトを受け、それに応じて出羽海部屋へと入門。同年5月場所で初土俵を踏み、翌年5月、本名でもある「柏木」の四股名で序ノ口に付いた(その後、「那智ノ海」を経て「那智ノ山」へ改名している)。
三段目の地位で優勝した1941年1月場所の直後、兵役に就き、中国・湖北省に渡って日本軍の一員として日中戦争に参加。従軍中、右足太腿を酷く負傷し、程無く除隊した。
この怪我により以降は出世も順調に行かず、一時は力士生命も危ぶまれたが、懸命のリハビリで克服。その甲斐もあって、1947年6月場所で待望の新十両昇進を果たした。
1950年9月場所では新入幕を遂げ、惜しくも勝ち越しを逸したものの、健闘している(7勝8敗)。
長身の割に体は細く、右四つ相撲を得意とした力士であった。部屋付きの秀ノ山親方(元関脇・笠置山)から教わった奇手・三所攻めや大股などが得意技で、三所攻めは、本場所でも披露した事がある。
幕内は僅か2場所しか務まらなかったが、十両では永く活躍し(十両在位は、通算36場所)、引退を表明した1958年1月場所でもこの地位を保っていた。
引退後は年寄・峰崎として後輩達を指導し、日本相撲協会では相撲教習所の指導員を長年に亘って務めた。1985年8月、停年退職。
1994年12月22日、悪性リンパ腫のため千葉県市川市内の病院で逝去した。享年74。
主な戦績
- 幕内成績:11勝14敗5休(2場所) 勝率.440
- 通算成績:308勝326敗14休(52場所) 勝率.486
- 各段優勝:三段目1回(1941年1月場所=7勝1敗)
改名歴
- 柏木(かしわぎ、1938年5月場所-1943年5月場所)
- 那智ノ海(なちのうみ、1944年1月場所-1946年11月場所)
- 那智ノ山(なちのやま、1947年6月場所-1958年1月場所)
年寄変遷
- 峰崎(みねざき、1958年1月-1985年8月)