「猿丸大夫」の版間の差分
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2012年3月31日 (土) 05:35時点における版
猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう、生没年不明)は、三十六歌仙の一人。猿丸は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者や伊勢神宮の神職のうち五位の御禰宜、神社の御師、芸能をもって神事に奉仕する者の称である[1][2]。
概要
元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物とも言われ、実在した人物かどうかすら疑う向きもある。
さらに、その出自についても、その名が『六国史』をはじめとする公的史料に登場しないことから、これは本名ではなかろうとする考えが古くからあり、山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、二荒山神社の神職小野氏の祖である「猿丸」説など諸説ある、謎の人物である。哲学者の梅原猛は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い。
猿が古来より日枝(比叡)の神使であること、さらに、当初は京に住し、後に秦氏により京を追われ近江国比叡山北東麓に勢力範囲を移し、その子孫が金属採掘による富を求めて東国に広まり、二荒山神社の神職をも輩している小野氏と、二荒信仰を東国に広めたとも云われる猿丸の東国に纏わる史料が多いことから、猿丸大夫とは山王信仰や二荒信仰を東国各地に広めた日枝や二荒の神職を総称した架空の人物とする見方もある。
何れにせよ、『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」とあることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた時代までに、それ以前の古い時代の歌人として、あるいは架空の人物であったとしても一人の歌人として認知されていたことが分かる。
猿丸大夫作とされる歌
花札の「もみじに鹿」の取り合わせは、この歌による。ただし『古今和歌集』ではこの歌は「よみ人しらず」となっている。また三十六歌仙の歌集『三十六人集』の中には猿丸大夫の歌集であるという『猿丸集』なるものがあるが、残されているいくつかの系統の伝本を見ても、その内容は全て後人の手による雑纂古歌集であり、その中の歌が猿丸大夫が詠んだものであるかは疑わしいとされる。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているが語句に異同があり、「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」となっている(御所本三十六人集に拠る)。
猿丸太夫の出自
猿丸と小野氏、二荒神、古今和歌集
『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷[3]のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島神(使い番は鹿)の言葉により、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話があり(これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという)、『二荒山神伝』[4]にもこの戦いについて記されている。これにより下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とするという。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている。
歴史書『六国史』に拠ると、二荒神は承和3年(836年)に従五位上の神階で貞観11年(869年)までに正二位へと進階したが、赤城神の方は二荒神が従二位の階位にあった貞観9年(867年)にようやく従五位上、元慶4年(880年)の時点でも従四位上で二荒神と比べれば遥かに低位である。赤城神は11世紀に正一位を授かり二荒神と同列に序されるが、少なくとも平安時代末期までは二荒神の勢力が赤城神に勝っていたと考えられ、古今和歌集が成立する905年(延喜5年)までにこの説話の元となる出来事が実際にあり、『六国史』にはその名が見えない「猿丸大夫」という謎の人物像が定着し、紀貫之が古今和歌集にその名を載せたと推察するのは容易である。
また、歴史書『類聚国史』に拠ると、小野氏は弘仁年間に巫女であった猿女君の養田を奪って自分の娘に仮冒させたとあり、ここにも小野氏と猿、神事を司る者の関係が見て取れる。
伝説、伝承
猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。また長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。しかしこれらの伝説伝承が、『古今和歌集』や三十六歌仙の猿丸大夫に結びつくかどうかは不明である。
猿丸大夫=柿本人麻呂説
謎の多いこの二人について、哲学者の梅原猛が『水底の歌-柿本人麻呂論』において同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる。
梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田国男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が『古今和歌集』の真名序では「柿本大夫」と記されている点も取り上げ、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である。
しかしながらこの説が主張するように、政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い。
注
参考文献
- 『寺社縁起』(『日本思想大系』20)-桜井徳太郎・萩原龍夫・宮田登(1976年、岩波書店)
- 『水底の歌 - 柿本人麻呂論』-梅原猛(1981年、新潮社)
- 『神を助けた話』(炉辺叢書4)-柳田国男(1920年、玄文社)