コンテンツにスキップ

「寒巌義尹」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m -年代的に能忍に師事はない
1行目: 1行目:
'''寒巌義尹'''(かんがんぎいん、[[建保]]5年([[1217年]]) - [[正安]]2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1300年]][[10月4日]]))は、[[鎌倉時代]]中期の[[曹洞宗]]の[[僧]]。父は[[後鳥羽天皇]]とも[[順徳天皇]]とも言われている。
'''寒巌 義尹'''(かんがん ぎいん、[[建保]]5年([[1217年]]) - [[正安]]2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1300年]][[10月4日]]))は、[[鎌倉時代]]中期の[[曹洞宗]]の[[僧]]。[[寒巌派]]の派祖。父は[[後鳥羽天皇]]とも[[順徳天皇]]とも言われている。


== 略歴 ==
初め[[比叡山]]に入って天台教学を学び、ついで[[日本達磨宗]]の[[大日房能忍]]に[[臨済禅]]を学んだが、[[1241年]]([[仁治]]2年)[[山城国]]深草の[[道元]]のもとに参禅した。[[1253年]]([[建長]]5年)中国の[[宋 (王朝)|宋]]に渡った。道元の没後に日本へ帰国し、道元の弟子で[[永平寺]]2世[[懐奘]]に師事したが、1260年([[正元 (日本)|正元]]2年)頃、[[肥後国]]宇土郡古保里庄の住人、古保里越前守の娘素妙尼の要請により、現・宇土市花園町に[[如来寺 (宇土市)|如来寺]]を建立した。[[1264年]]([[文永]]元年)再び宋へ渡った義尹は、[[1267年]](文永3年)に帰国すると肥後へ移り、1276年([[建治]]2年)には同国益城郡に極楽寺を開創した。
初め[[比叡山]]に入って天台教学を学んだが、[[1241年]]([[仁治]]2年)[[山城国]]深草の[[道元]]のもとに参禅した。[[1253年]]([[建長]]5年)中国の[[宋 (王朝)|宋]]に渡った。道元の没後に日本へ帰国し、道元の弟子で[[永平寺]]2世[[懐奘]]に師事したが、1260年([[正元 (日本)|正元]]2年)頃、[[肥後国]]宇土郡古保里庄の住人、古保里越前守の娘素妙尼の要請により、現・宇土市花園町に[[如来寺 (宇土市)|如来寺]]を建立した。[[1264年]]([[文永]]元年)再び宋へ渡った義尹は、[[1267年]](文永3年)に帰国すると肥後へ移り、1276年([[建治]]2年)には同国益城郡に極楽寺を開創した。


同年5月、義尹は、当時九州第一の難所とされていた[[緑川]]の大渡に橋を架けるという計画を立てた(「大渡橋幹縁疏」)。この計画は、当時の肥後国[[河尻庄]]地頭[[河尻泰明]]や、泰明を介した[[北条氏]]の援助の下、2年にわたる工事の末1278年([[弘安]]元年)に竣工し、盛大な供養が執り行われた(「大渡橋供養記」)。以後義尹は泰明との交流を深め、[[1283年]](弘安6年)には同庄大渡(現・熊本市野田町)に土地を寄進され、[[大慈寺 (熊本市)|大慈寺]]の開山となっている。
同年5月、義尹は、当時九州第一の難所とされていた[[緑川]]の大渡に橋を架けるという計画を立てた(「大渡橋幹縁疏」)。この計画は、当時の肥後国[[河尻庄]]地頭[[河尻泰明]]や、泰明を介した[[北条氏]]の援助の下、2年にわたる工事の末1278年([[弘安]]元年)に竣工し、盛大な供養が執り行われた(「大渡橋供養記」)。以後義尹は泰明との交流を深め、[[1283年]](弘安6年)には同庄大渡(現・熊本市野田町)に土地を寄進され、[[大慈寺 (熊本市)|大慈寺]]の開山となっている。


1300年(正安2年)、義尹は如来寺へ隠遁し、同年、84歳で入寂した。その墓所と伝えられる伝完巖義尹の墓が如来寺境内にあり、宇土市指定文化財になっている。
1300年(正安2年)、義尹は如来寺へ隠遁し、同年、84歳で入寂した。その墓所と伝えられる伝完巖義尹の墓が如来寺境内にあり、宇土市指定文化財になっている。

== 関係論文 ==
* [http://ci.nii.ac.jp/search?q=義尹 CiNii>義尹]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*川口高風「寒巖義尹の研究」『仏教学会誌』10、1968。
* [[川口高風]]「寒巖義尹の研究」『仏教学会誌』10、1968)
*上田純一「寒巌義尹、肥後進出の背景 ──北条氏得宗勢力と木原・河尻氏──」『熊本史学』57・58、1982。
* [[上田純一]]「寒巌義尹、肥後進出の背景 北条氏得宗勢力と木原・河尻氏『熊本史学』57・58、1982)
*粟谷良道「義尹」『道元思想のあゆみ』、鎌倉時代、1993。
* [[粟谷良道]]「義尹」『道元思想のあゆみ』1、鎌倉時代、1993)
*舘隆志「寒巌義尹の研究 ──生誕について──」『駒澤大學禪研究所年報』17、2006。
* [[舘隆志]]「寒巌義尹の研究 生誕について『駒澤大學禪研究所年報』17、2006)
*舘隆志「新出資料・寒巌尹和尚本伝について」『宗教学論集』25、駒沢宗教学研究会、2006。
* 舘隆志「新出資料・寒巌尹和尚本伝について」『宗教学論集』25、駒沢宗教学研究会、2006)
*新宇土市史編纂委員会『新宇土市史 通史編第二巻 中世・近世』2007
* 新宇土市史編纂委員会『新宇土市史 通史編第二巻 中世・近世』(2007)

{{先代次代|[[曹洞宗]]||[[孤雲懐奘]]| }}


{{DEFAULTSORT:かんかんきいん}}
{{DEFAULTSORT:かんかんきいん}}
20行目: 26行目:
[[Category:鎌倉時代の人物]]
[[Category:鎌倉時代の人物]]
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]
[[Category:仏教宗派の開祖]]
[[Category:1217年生]]
[[Category:1217年生]]
[[Category:1300年没]]
[[Category:1300年没]]


{{Buddhism-stub}}
{{Buddhism-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
[[en:Kangan Giin]]
[[en:Kangan Giin]]

2012年5月2日 (水) 22:31時点における版

寒巌 義尹(かんがん ぎいん、建保5年(1217年) - 正安2年8月21日1300年10月4日))は、鎌倉時代中期の曹洞宗寒巌派の派祖。父は後鳥羽天皇とも順徳天皇とも言われている。

略歴

初め比叡山に入って天台教学を学んだが、1241年仁治2年)山城国深草の道元のもとに参禅した。1253年建長5年)中国のに渡った。道元の没後に日本へ帰国し、道元の弟子で永平寺2世懐奘に師事したが、1260年(正元2年)頃、肥後国宇土郡古保里庄の住人、古保里越前守の娘素妙尼の要請により、現・宇土市花園町に如来寺を建立した。1264年文永元年)再び宋へ渡った義尹は、1267年(文永3年)に帰国すると肥後へ移り、1276年(建治2年)には同国益城郡に極楽寺を開創した。

同年5月、義尹は、当時九州第一の難所とされていた緑川の大渡に橋を架けるという計画を立てた(「大渡橋幹縁疏」)。この計画は、当時の肥後国河尻庄地頭河尻泰明や、泰明を介した北条氏の援助の下、2年にわたる工事の末1278年(弘安元年)に竣工し、盛大な供養が執り行われた(「大渡橋供養記」)。以後義尹は泰明との交流を深め、1283年(弘安6年)には同庄大渡(現・熊本市野田町)に土地を寄進され、大慈寺の開山となっている。

1300年(正安2年)、義尹は如来寺へ隠遁し、同年、84歳で入寂した。その墓所と伝えられる伝完巖義尹の墓が如来寺境内にあり、宇土市指定文化財になっている。

関係論文

参考文献

  • 川口高風「寒巖義尹の研究」(『仏教学会誌』10、1968)
  • 上田純一「寒巌義尹、肥後進出の背景 ─北条氏得宗勢力と木原・河尻氏─」(『熊本史学』57・58、1982)
  • 粟谷良道「義尹」(『道元思想のあゆみ』1、鎌倉時代、1993)
  • 舘隆志「寒巌義尹の研究 ─生誕について─」(『駒澤大學禪研究所年報』17、2006)
  • 舘隆志「新出資料・寒巌尹和尚本伝について」(『宗教学論集』25、駒沢宗教学研究会、2006)
  • 新宇土市史編纂委員会『新宇土市史 通史編第二巻 中世・近世』(2007)
先代
孤雲懐奘
曹洞宗
次代