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* [[2008年]](平成20年)3月 - 京都大学の客員教授を退任。
* [[2008年]](平成20年)3月 - 京都大学の客員教授を退任。
* [[2009年]](平成21年)6月 - 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)。
* [[2009年]](平成21年)6月 - 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)。
* [[2011年]](平成23年)12月 - 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)の委員に任命。


== 賞歴 ==
== 賞歴 ==

2012年7月8日 (日) 00:59時点における版

田中 耕一
生誕 (1959-08-03) 1959年8月3日(65歳)
日本の旗 日本 富山県 富山市
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
研究分野 化学
工学
研究機関 島津製作所
クラトスグループ
シマヅ・リサーチ・ラボラトリー・ヨーロッパ
出身校 東北大学
主な業績 生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発
主な受賞歴 日本質量分析学会奨励賞(1989年
文化功労者2002年
文化勲章(2002年)
ノーベル化学賞(2002年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2002年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発

田中 耕一(たなか こういち、1959年(昭和34年)8月3日 - )は、日本化学者エンジニアである。文化功労者文化勲章ノーベル化学賞受賞者。株式会社島津製作所フェロー・田中耕一記念質量分析研究所所長、東京大学医科学研究所客員教授日本学士院会員

来歴

1959年(昭和34年)に富山県富山市に生まれる。出生1ヵ月で実母が病死したため叔父の家で育てられる。その後、叔父の家に養子として迎えられる。兄弟は兄2人と姉がいる。

富山県立富山中部高等学校卒業後、東北大学工学部へ進学(指導教授は安達三郎博士(現・東北大学名誉教授))。東北大学在学時に単位を落し1年間の留年生活を送る。大学卒業後は大学院へ進学せずソニーの入社試験を受けるも不合格。就職先が決まらず安達の勧めで京都島津製作所の入社試験を受け合格し島津製作所へ入社。

東北大学では電磁波、アンテナ工学を専攻していたが、島津製作所入社後は技術研究本部中央研究所に配属され化学分野の研究に従事する。1985年(昭和60年)にたんぱく質などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞につながる。英国クレイトスグループ、島津リサーチラボ出向を経て、2002年(平成14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。

2002年(平成14年)ノーベル化学賞受賞。受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。同年文化勲章受章、文化功労者となる。富山県名誉県民京都市名誉市民名誉博士東北大学)などの称号も贈られている。

受賞当時は島津製作所に勤める会社員であり、会社員のノーベル賞受賞として日本国内で話題となった。

既婚者で子はいない。

ノーベル賞受賞について

タンパク質質量分析にかける場合、タンパク質を気化させ、かつイオン化させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーをかけるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。

そこで、グリセロールコバルトの混合物(マトリックス)を熱エネルギー緩衝材として使用したところ[1]レーザーによりタンパク質を気化、検出することに世界で初めて成功した。この功績が評価され、彼の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、ノーベル賞が授与された。「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、1985年(昭和60年)に特許申請された。

現在、生命科学分野で広く利用されている「MALDI-TOF MS」は、田中らの発表とほぼ同時期にドイツ人化学者(Hillenkamp、Karas)により発表された方法である。MALDI-TOF MSは、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なるが、より高感度にタンパク質を解析することができる。

なお受賞に先立ち、1983年(昭和58年)に卒業した出身校の東北大学から2002年(平成14年)10月31日に名誉博士号が授与されたが、田中は自分は職人的科学者であるとして、ノーベル賞授賞式会場でも敬称にドクターではなく、ミスターを使うよう申し出たという経緯がある。電話による受賞の報が伝えられたとき「びっくり」(ドッキリカメラの意)だと思い本気にしなかったが、家の前に報道陣が大挙押し寄せやっと現実と考えた。

田中は現場にいることを好んだため、昇進の話をたびたび拒み[2]、ノーベル賞受賞時も島津製作所に於いては年齢的に不相応な主任という職にいた。しかし同賞受賞に伴い会社の業績に多大な功績を与えたため、島津製作所は特例で待遇を上げ、研究現場に留まれる「フェロー」という職位を新たに創設した。この時にも、会社は田中を取締役待遇フェローに遇しようとしたが、「急に待遇が上がるのは好ましくない」と田中が拒んだため、しばらくの間、部長待遇のフェローとなったという話もある(2003年1月より執行役員待遇)。

内閣府の総合科学技術会議にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。

田中耕一とマスメディア

田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼び、連日連夜、マスメディア関係者が田中を追いかけ、インタビューをする。ワイドショーも騒ぐ。まるで芸能人の様な扱いを受け、「いいひと」と大衆からの人気を得る。

当時国内外共に明るいニュースが無かったため、田中の功績は大々的に取り上げられ、職人気質で物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人間性も皇室、財界、政界、学界、マスメディア、一般人など非常に広い世界で好意的に受け止められる。

温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、その後NHKの田中耕一追跡取材では、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている。

鉄道好きで電車の運転席を眺めながら通勤することを日課としていたが、ノーベル賞受賞後はマスコミ取材の多さからタクシー通勤をしていた。また、ノーベル賞受賞後の上京時には、島津製作所からの出張費の関係で乗車できなかった500系新幹線のグリーン車に乗れて嬉しいと記者団に答えた。

NHKから、この年の紅白歌合戦に審査員として出演依頼されたが、「私は芸能人でも博士でもありません。」と辞退した。

青色発光ダイオードの製法についての中村修二日亜化学工業の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村修二を擁護する発言をしている。

ノーベル賞の授賞式の後は単独でマスメディアに出ることはほとんどなかったが、2010年(平成22年)10月6日に鈴木章根岸英一のノーベル化学賞受賞が決まった際には勤務先で会見に応じ、発表の生中継を見ていたことを明かした上で、「受賞から8年たち、次々と受賞者が出てきて、わたし自身、肩の荷を下ろすことができるのかと思う」と述べた。

ノーベル賞受賞時とは異なり白髪になっているが、もともと白髪が多く、2002年(平成14年)の受賞当時、すでに白髪染めを使用していたことを夫人が明らかにしている(婦人公論2002年11月22日号)。

略歴

  • 2008年(平成20年)3月 - 京都大学の客員教授を退任。
  • 2009年(平成21年)6月 - 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)。
  • 2011年(平成23年)12月 - 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)の委員に任命。

賞歴

栄典

著作

脚注

  1. ^ 実は、「間違えて」グリセロールとコバルトを混ぜてしまい、「どうせ捨てるのも何だし」と実験したところ、見事に成功したという逸話がある。
  2. ^ 総合職であるため昇進するには営業など様々な部署を経験する必要があった。

参考文献

外部リンク