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2012年7月12日 (木) 13:43時点における版
明帝 蕭巋 | |
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後梁 | |
2皇帝 | |
王朝 | 後梁 |
在位期間 | 562年 - 585年 |
姓・諱 | 蕭巋 |
字 | 仁遠 |
諡号 | 明皇帝 |
廟号 | 世宗 |
生年 | 542年 |
没年 | 585年 |
父 | 宣帝 |
母 | 曹貴嬪 |
后妃 | 張皇后 |
陵墓 | 顕陵 |
年号 | 天保 : 562年 - 585年 |
蕭巋(しょう き)は、南朝後梁の第2代皇帝。廟号は世宗、諡号は明帝。蕭詧(宣帝)の息子である。
562年、父の死により皇位を継ぐ。後梁は実際には北周の傀儡政権であり、蕭巋は北周とともに南朝の陳と対峙した。
北周が北斉を滅ぼした際には、自ら出向いて当時の北周の皇帝たる武帝(宇文邕)に祝賀の言葉を述べた。その際、蕭巋は武帝に後梁建国以来の旧恩を語り、2人はともに涙ぐんだという。また蕭巋が領国に帰る際には、武帝自らが琵琶を弾き盛大に見送り、2人で軽口を叩き合ったと記されている。傀儡政権の皇帝という不安定な立場ではあるものの、北周と親密な関係を築いていたことが伺える。また蕭巋と北周の武帝はほぼ同年代であり、個人的にも親密な関係にあったものと思われる。このように信頼を得た結果、北周は後梁の首都江陵に駐在させていた将軍を引き上げさせ、後梁の自治が回復された。
その後、宗主国が北周から隋へと変わった後もその親密な関係は続き、蕭巋が再び長安を訪れた際には、隋の文帝(楊堅)自ら手を取り、必ず梁の旧地を取り戻して送り届ける、と言ったと伝えられる。また、蕭巋の娘は文帝の息子の楊広(のちの煬帝)に嫁ぎ、楊広が皇帝に即位した際には皇后となっている(蕭皇后)。
このような安定した政権の下、江陵では梁から受け継いだ文化が花開いた。また、蕭巋自身も学問の才能ある人物で、『孝経』、『周易義記』、『大小乗幽微』などを著した。
585年に死去。息子の蕭琮が帝位を嗣いだ。
妻子
后妃
- 張皇后
子
女
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