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「松平典信」の版間の差分

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'''松平 典信'''(まつだいら すけのぶ)は、[[丹波国|丹波]][[篠山藩]]の第2代藩主。[[丹波亀山藩]][[形原松平家]]3代。[[諱]]の読みは「のりのぶ」ともいわれる。
'''松平 典信'''(まつだいら すけのぶ)は、[[丹波国|丹波]][[篠山藩]]の第2代藩主。[[丹波亀山藩]][[形原松平家]]3代。[[諱]]の読みは「のりのぶ」ともいわれる。


寛永6年(1629年)2月24日、初代藩主・[[松平康信]]の長男として[[摂津国|摂津]]高槻で生まれる。[[慶安]]4年([[1651年]])12月28日、従五位下・大和守に叙位・任官する。[[明暦]]元年4月、駿府守に改任され、[[寛文]]9年([[1669年]])9月29日、父の[[隠居]]により[[家督]]を継いで第2代藩主となった。襲封後、典信は領民の飲料水のため玉水の清泉を復活し、醸酒や灌漑にも使用した。しかし在わずか3年後の寛文12年(1672年)11月20日に[[江戸]]で死去した。享年44。
寛永6年(1629年)2月24日、初代藩主・[[松平康信]]の長男として[[摂津国|摂津]]高槻で生まれる。[[慶安]]4年([[1651年]])12月28日、従五位下・大和守に叙位・任官する。[[明暦]]元年4月、駿府守に改任され、[[寛文]]9年([[1669年]])9月29日、父の[[隠居]]により[[家督]]を継いで第2代藩主となった。襲封後、典信は領民の飲料水のため玉水の清泉を復活し、醸酒や灌漑にも使用した。しかし藩主わずか3年後の寛文12年(1672年)11月20日に[[江戸]]で死去した。享年44。


跡を次男・[[松平信利|信利]]が継いだ。
跡を次男・[[松平信利|信利]]が継いだ。

2012年7月31日 (火) 06:41時点における版

 
松平 典信
時代 江戸時代前期
生誕 寛永6年2月24日1629年3月18日
死没 寛文12年11月20日1673年1月7日
改名 又七郎(幼名)、典信
戒名 忠岸院松誉源英
墓所 京都府亀岡市古世町の光忠寺
官位 従五位下、大和守、駿河
幕府 江戸幕府
丹波国篠山藩
氏族 形原松平家
父母 父:松平康信、母:水野重央の娘・常覚院
兄弟 典信昭信
正室:板倉重宗の娘・専称院
信孝信利、娘(戸田光永正室)、
娘(内藤忠次正室のち中山信行継室)、
娘(戸田重恒正室)、娘(松平忠充正室)、
娘(松平氏辰室)、信庸、娘(真田信音正室)、
娘(永井直敬正室)、娘(松平近禎正室)
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松平 典信(まつだいら すけのぶ)は、丹波篠山藩の第2代藩主。丹波亀山藩形原松平家3代。の読みは「のりのぶ」ともいわれる。

寛永6年(1629年)2月24日、初代藩主・松平康信の長男として摂津高槻で生まれる。慶安4年(1651年)12月28日、従五位下・大和守に叙位・任官する。明暦元年4月、駿府守に改任され、寛文9年(1669年)9月29日、父の隠居により家督を継いで第2代藩主となった。襲封後、典信は領民の飲料水のため玉水の清泉を復活し、醸酒や灌漑にも使用した。しかし藩主在職わずか3年後の寛文12年(1672年)11月20日に江戸で死去した。享年44。

跡を次男・信利が継いだ。