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日本の[[原爆文学]]」(全15巻)は[[第二次世界大戦]]後38年目の[[1983年]](昭和58年)7月末に実現した、[[広島]]・[[長崎]]への[[原爆]]攻撃によって世界で最初の[[被爆]]国となった我が国に生まれた[[反核]]・[[反戦]]の小説、詩歌、手記、記録、評論、エッセイの初の大部な集大成である。
『'''日本の原爆文学'''』は[[第二次世界大戦]]後38年目の[[1983年]](昭和58年)7月末に実現した、[[広島]]・[[長崎]]への[[原爆]]攻撃によって世界で最初の[[被爆]]国となった日本に生まれた[[反核]]・[[反戦]]の小説、詩歌、手記、記録、評論、エッセイの初の大部な集大成である。全15巻


「[[核戦争の危機を訴える文学者の声明]]」署名者(以下、[[反核文学者の会]])による活動の証しとして、[[核状況下]]にある現代を生きることの意味について[[平和]]を希求するすべての人々に読み考えてもらうために企画され、[[ほるぷ出版]](第1期。1969-86年)からセットにて全巻同時に刊行された。
「[[核戦争の危機を訴える文学者の声明]]」署名者(以下、[[反核文学者の会]])による活動の証しとして、[[核状況下]]にある現代を生きることの意味について[[平和]]を希求するすべての人々に読み考えてもらうために企画され、[[ほるぷ出版]](第1期。1969-86年)からセットにて全巻同時に刊行された。
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:第8巻「[[小田実]]・[[武田泰淳]]」
:第8巻「[[小田実]]・[[武田泰淳]]」
:第9巻「[[大江健三郎]]・[[金井利博]]」
:第9巻「[[大江健三郎]]・[[金井利博]]」
:第10巻「短篇
:第10巻「短篇I
:第11巻「短篇
:第11巻「短篇II
:第12巻「戯曲」
:第12巻「戯曲」
:第13巻「詩歌」
:第13巻「詩歌」
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11月9日:第2回編集会議、4時間。[[伊藤成彦]]を中心に以下を確認した。
11月9日:第2回編集会議、4時間。[[伊藤成彦]]を中心に以下を確認した。
#全16巻(予定)を[[広島]]・[[長崎]]の[[原爆忌]]前に全巻刊行。

#著者・[[著作権]]者へ収録の願い状を用意できしだい発送。
:1)全16巻(予定)を[[広島]]・[[長崎]]の[[原爆忌]]前に全巻刊行。
#[[版権]]交渉は慎重を期す。
:2)著者・[[著作権]]者へ収録の願い状を用意できしだい発送。
#[[印税]]は5%ぐらいとし、最初の依頼状には記載せず、後日、[[反核文学者の会]]から説明書を送り納得を得る。
:3)[[版権]]交渉は慎重を期す。
#売上より「[[アジア文学者ヒロシマ会議]]」への援助を希望。
:4)[[印税]]は5%ぐらいとし、最初の依頼状には記載せず、後日、[[反核文学者の会]]から説明書を送り納得を得る。
#原稿収集にあたる編集世話人に編集経費を検討。
:5)売上より「[[アジア文学者ヒロシマ会議]]」への援助を希望。
#手のかからない小説類の元原稿を来週までに収集し作業を先行させる。
:6)原稿収集にあたる編集世話人に編集経費を検討。
#[[ほるぷ出版]]の定価6万円、採算ライン3000セットの仮決定を了承。
:7)手のかからない小説類の元原稿を来週までに収集し作業を先行させる。
#刊行期日を厳守するため全般に拙速を良しとする。
:8)[[ほるぷ出版]]の定価6万円、採算ライン3000セットの仮決定を了承。
:9)刊行期日を厳守するため全般に拙速を良しとする。


=== 当初は16巻の計画 ===
=== 当初は16巻の計画 ===
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:第9巻「[[大江健三郎]]」
:第9巻「[[大江健三郎]]」
:第10巻「[[小田実]]・[[武田泰淳]]」
:第10巻「[[小田実]]・[[武田泰淳]]」
:第11巻「短篇
:第11巻「短篇I
:第12巻「短篇
:第12巻「短篇II
:第13巻「戯曲」
:第13巻「戯曲」
:第14巻「詩歌」
:第14巻「詩歌」
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:第16巻「評論・エッセイ」
:第16巻「評論・エッセイ」
:独立巻で検討 ◆[[渡辺広士]](『終末伝説』)
:独立巻で検討 ◆[[渡辺広士]](『終末伝説』)
11月16日:第3回編集会議、5時間。[[小田実]]、[[小中陽太郎]]が会議初参加。個人集、「戯曲」、「短編」の収録作品がほぼ固まる。推薦人、各巻の解説者候補を決定。題名は「集成 日本の[[原爆文学]]」と仮決定。編集委員会形式でなく編集世話人とする。編集世話人からは[[ほるぷ出版]]からの全集刊行決定の知らせを既に[[反核文学者の会]]署名者へ発送済みと報告された。
11月16日:第3回編集会議、5時間。[[小田実]]、[[小中陽太郎]]が会議初参加。個人集、「戯曲」、「短編I」の収録作品がほぼ固まる。推薦人、各巻の解説者候補を決定。題名は「集成 日本の[[原爆文学]]」と仮決定。編集委員会形式でなく編集世話人とする。編集世話人からは[[ほるぷ出版]]からの全集刊行決定の知らせを既に[[反核文学者の会]]署名者へ発送済みと報告された。


=== 編集世話人の全面的な協力 ===
=== 編集世話人の全面的な協力 ===
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編集世話人はこの企画で[[ほるぷ]]グループを危機に陥れないため以下の全面的な協力を決めた。
編集世話人はこの企画で[[ほるぷ]]グループを危機に陥れないため以下の全面的な協力を決めた。
#採算点を下げるため[[印税]]は著名作家(最高は15%)から市井の人々まで定価の一律5%とし、同2%相当額を「[[アジア文学者ヒロシマ会議]]」の運営に援助する。
#[[版権]]を持つ出版社との交渉が困難な場合、編集世話人が無償応諾を説得する。
#経費節減のため編集世話人への謝礼をゼロとし、[[広島]]・[[長崎]]の編集世話人を含めて手弁当で作業する。(実際には原稿収集の経費の一部が数名に支払われた。)
#販売促進に協力する。


=== 著者・著作権者への交渉 ===
:1)採算点を下げるため[[印税]]は著名作家(最高は15%)から市井の人々まで定価の一律5%とし、同2%相当額を「[[アジア文学者ヒロシマ会議]]」の運営に援助する。
:2)[[版権]]を持つ出版社との交渉が困難な場合、編集世話人が無償応諾を説得する。
:3)経費節減のため編集世話人への謝礼をゼロとし、[[広島]]・[[長崎]]の編集世話人を含めて手弁当で作業する。(実際には原稿収集の経費の一部が数名に支払われた。)
:4)販売促進に協力する。

=== 著者・[[著作権]]者への交渉 ===
[[1982年]]11月29日(月):収録候補作品の著者・著作権者へ収録の願い状を[[反核文学者の会]]と[[ほるぷ出版]]の連名で発送開始。
[[1982年]]11月29日(月):収録候補作品の著者・著作権者へ収録の願い状を[[反核文学者の会]]と[[ほるぷ出版]]の連名で発送開始。


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[[阿川弘之]]より断りの電話。律儀な言葉遣いで「[[反核]]アピールのグループが刊行するなら大反対。私は[[小林秀雄]]と同じ意見。私なりに反核の立場を表していく。グループに関係なく[[ほるぷ出版]]独自で編集・刊行するなら承諾する」。これに対し[[伊藤成彦]]は「断られたなら諦める。尾崎さんを担ぎ出すことはしない」(メモのまま)と了承した。
[[阿川弘之]]より断りの電話。律儀な言葉遣いで「[[反核]]アピールのグループが刊行するなら大反対。私は[[小林秀雄]]と同じ意見。私なりに反核の立場を表していく。グループに関係なく[[ほるぷ出版]]独自で編集・刊行するなら承諾する」。これに対し[[伊藤成彦]]は「断られたなら諦める。尾崎さんを担ぎ出すことはしない」(メモのまま)と了承した。


「短篇」収録の[[中本たか子]]より書状、承諾。
「短篇I」収録の[[中本たか子]]より書状、承諾。


同日、急遽企画の概要と収録作品の一覧(予定)を一斉に追加発送。全体像が不明との問い合わせが複数寄せられたため。依頼時に同封しなかった理由は「作者同士の生臭い確執を避けるため細かいことは教えないでおく」(メモのまま)との編集世話人の判断だった。
同日、急遽企画の概要と収録作品の一覧(予定)を一斉に追加発送。全体像が不明との問い合わせが複数寄せられたため。依頼時に同封しなかった理由は「作者同士の生臭い確執を避けるため細かいことは教えないでおく」(メモのまま)との編集世話人の判断だった。


12月2日:「短篇」収録の[[川上宗薫]]、細田征矢子([[細田民樹]][[著作権]]者)承諾。同収録の[[有吉佐和子]]より「印税が払われないなら断る」との返事、のち承諾。「短篇」収録の[[西原啓]]承諾。「戯曲」収録の[[別役実]]承諾。同収録の[[ふじたあさや]]承諾、「良い機会なので手を加えたい。期限を教えて欲しい」。
12月2日:「短篇I」収録の[[川上宗薫]]、細田征矢子([[細田民樹]][[著作権]]者)承諾。同収録の[[有吉佐和子]]より「印税が払われないなら断る」との返事、のち承諾。「短篇II」収録の[[西原啓]]承諾。「戯曲」収録の[[別役実]]承諾。同収録の[[ふじたあさや]]承諾、「良い機会なので手を加えたい。期限を教えて欲しい」。


12月3日:「短篇」収録の[[桂芳久]]、[[越智道雄]](「[[版権]]は[[冬樹社]]」)承諾。「戯曲」収録の[[田中千禾夫]]、[[宮本研]](「版権は[[晶文社]]」)、[[堀田清美]](「一部改訂を希望」)承諾。
12月3日:「短篇I」収録の[[桂芳久]]、[[越智道雄]](「[[版権]]は[[冬樹社]]」)承諾。「戯曲」収録の[[田中千禾夫]]、[[宮本研]](「版権は[[晶文社]]」)、[[堀田清美]](「一部改訂を希望」)承諾。
[[堀田善衛]]承諾、「[[岩波書店]]の了承を取ってほしい。著作権料はみんなと同じでいい。[[津久井喜子]]による英語訳が進行中。解説を[[小中陽太郎]]君が書くようなら少し申したく、[[平野謙]]、[[栗原幸夫]]と少し違うものを書いてほしい」。
[[堀田善衛]]承諾、「[[岩波書店]]の了承を取ってほしい。著作権料はみんなと同じでいい。[[津久井喜子]]による英語訳が進行中。解説を[[小中陽太郎]]君が書くようなら少し申したく、[[平野謙]]、[[栗原幸夫]]と少し違うものを書いてほしい」。


12月4日:[[佐多稲子]]承諾、「[[講談社]]文芸図書のO氏の了解を取ってほしい」。「短篇」収録の[[小田勝造]](「『同窓会は夏に』を希望」)、[[藤本仁]]、[[古浦千穂子]]、[[中山士朗]]承諾。同収録の[[亀沢深雪]]承諾、「「[[文学界]]」所収の『[[広島]]巡礼』に誤植。正したい」。「戯曲」収録の[[大橋喜一]]承諾、「[[版権]]は[[テアトロ社]]」。
12月4日:[[佐多稲子]]承諾、「[[講談社]]文芸図書のO氏の了解を取ってほしい」。「短篇II」収録の[[小田勝造]](「『同窓会は夏に』を希望」)、[[藤本仁]]、[[古浦千穂子]]、[[中山士朗]]承諾。同収録の[[亀沢深雪]]承諾、「「[[文学界]]」所収の『[[広島]]巡礼』に誤植。正したい」。「戯曲」収録の[[大橋喜一]]承諾、「[[版権]]は[[テアトロ社]]」。


12月6日:[[後藤みな子]]より断りの書状。「自分の鎮魂として書いた。もうしばらく沈めておきたい」(メモのまま)。編集世話人の多くはあるていど予測していたようで「いいでしょう」と頷きあって了承した。
12月6日:[[後藤みな子]]より断りの書状。「自分の鎮魂として書いた。もうしばらく沈めておきたい」(メモのまま)。編集世話人の多くはあるていど予測していたようで「いいでしょう」と頷きあって了承した。


「短篇」収録の[[小久保均]]承諾、「『夏の刻印』『生者の仕事』を希望」。
「短篇II」収録の[[小久保均]]承諾、「『夏の刻印』『生者の仕事』を希望」。


12月7日:[[林京子]]より電話。承諾の意向だが「[[講談社]]に3年間の[[版権]]が有るので第一出版局長のM氏に問い合わせて欲しい」。「短篇」収録の[[石田耕治]]、[[文沢隆一]]、[[梶山季之]]の[[著作権]]者梶山美那江承諾。
12月7日:[[林京子]]より電話。承諾の意向だが「[[講談社]]に3年間の[[版権]]が有るので第一出版局長のM氏に問い合わせて欲しい」。「短篇I」収録の[[石田耕治]]、[[文沢隆一]]、[[梶山季之]]の[[著作権]]者梶山美那江承諾。


12月8日:「短篇」収録の[[岩崎清一郎]]承諾。
12月8日:「短篇I」収録の[[岩崎清一郎]]承諾。


12月9日:中川一枝([[大田洋子]]実妹)、「[[三省堂]](メモのまま。[[三一書房]]?)の意向を聞いてから返事する」。[[竹西寛子]]、「心臓疾患で療養中につき18日以降に会って答える」、のち承諾。
12月9日:中川一枝([[大田洋子]]実妹)、「[[三省堂]](メモのまま。[[三一書房]]?)の意向を聞いてから返事する」。[[竹西寛子]]、「心臓疾患で療養中につき18日以降に会って答える」、のち承諾。
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12月13日:第4回編集会議、4時間。[[大江健三郎]]が会議初参加。収録承諾状況の確認、一部の巻で加除を検討。[[印税]]は定価の一律5%、「[[アジア文学者ヒロシマ会議]]」の運営費援助として[[反核文学者の会]]に同2%相当額が支払われると明記し、著者・[[著作権]]者へあらためて送ることを正式決定。
12月13日:第4回編集会議、4時間。[[大江健三郎]]が会議初参加。収録承諾状況の確認、一部の巻で加除を検討。[[印税]]は定価の一律5%、「[[アジア文学者ヒロシマ会議]]」の運営費援助として[[反核文学者の会]]に同2%相当額が支払われると明記し、著者・[[著作権]]者へあらためて送ることを正式決定。


12月14日:佃陽子(「短篇」収録の[[佃実夫]][[著作権]]者)承諾。金井満津子([[金井利博]]著作権者)承諾。両者とも著作権者の所在確認に手間取り、郵送が遅れた。
12月14日:佃陽子(「短篇I」収録の[[佃実夫]][[著作権]]者)承諾。金井満津子([[金井利博]]著作権者)承諾。両者とも著作権者の所在確認に手間取り、郵送が遅れた。


=== 版権交渉と全15巻の決定 ===
=== 版権交渉と全15巻の決定 ===
145行目: 143行目:
(1月14~21日:伊藤成彦は韓国政治家・[[民主化運動]]家の[[金大中]]に会いに渡米。金大中は死刑判決が無期懲役刑に減刑され、さらにその執行停止の条件として前年12月末にアメリカへ亡命。のち[[1997年]]、韓国大統領に就任)
(1月14~21日:伊藤成彦は韓国政治家・[[民主化運動]]家の[[金大中]]に会いに渡米。金大中は死刑判決が無期懲役刑に減刑され、さらにその執行停止の条件として前年12月末にアメリカへ亡命。のち[[1997年]]、韓国大統領に就任)


1月17日:[[図書印刷]]へ出稿開始。初回は「[[堀田善衛]]」、「短篇」。
1月17日:[[図書印刷]]へ出稿開始。初回は「[[堀田善衛]]」、「短篇I」。


1月31日:第6回編集会議、4時間。(記録無し)
1月31日:第6回編集会議、4時間。(記録無し)
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6月初め:全国で約1000人の販売スタッフの多くが刊行趣旨を理解し動き始めた。
6月初め:全国で約1000人の販売スタッフの多くが刊行趣旨を理解し動き始めた。


6月28日:見本として使用する「短篇」完成。
6月28日:見本として使用する「短篇I」完成。


7月初め:[[オフセット印刷]]の[[刷版]]用[[製版]]フィルム、全巻で[[青焼き点検]]終了(完全校了)。
7月初め:[[オフセット印刷]]の[[刷版]]用[[製版]]フィルム、全巻で[[青焼き点検]]終了(完全校了)。
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=== 第2巻「大田洋子」 ===
=== 第2巻「大田洋子」 ===
若干の誤植以外、問題は無かった。[[三一書房]]の「大田洋子集」(全4巻)と重なるのは『[[屍の街]]』のみ。『恋』『暴露の時間』『ほたる』『病葉』『輾転(てんてん)の旅』は「日本の[[原爆文学]]」のみの収録である。さらに大田洋子自身の評論を15作品、大田洋子論を10作品収録した。
若干の誤植以外、問題は無かった。[[三一書房]]の「大田洋子集」(全4巻)と重なるのは『[[屍の街]]』のみ。『恋』『暴露の時間』『ほたる』『病葉』『輾転(てんてん)の旅』は「日本の原爆文学」のみの収録である。さらに大田洋子自身の評論を15作品、大田洋子論を10作品収録した。


=== 第6巻「堀田善衛」 ===
=== 第6巻「堀田善衛」 ===
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=== 第12巻「戯曲」 ===
=== 第12巻「戯曲」 ===
『ヒロシマについての涙について』の改訂原稿を千駄ヶ谷の日本青年館で[[ふじたあさや]]から台本にて受領した。地下の大きな集会室に若者が集まっており、の「これから立ち稽古ですが観ていかれますか」との言葉に甘えた。
『ヒロシマについての涙について』の改訂原稿を千駄ヶ谷の日本青年館で[[ふじたあさや]]から台本にて受領した。地下の大きな集会室に若者が集まっており、ふじたの「これから立ち稽古ですが観ていかれますか」との言葉に甘えた。


劇は途中から上手と下手で別の劇となり、ときおり二つの劇で同じ台詞を同時に語り、それをきっかけに劇がひとつになる。いっぽうで新たな劇が始まり、最大3個の劇が同時進行する。[[ABCC]]の調査に協力する学生と押し問答する母親、一方でその娘の独白。ときどき同じ台詞を同時に語り、極まって二人が抱き合い一瞬に一つの劇になる。[[ふじたあさや]]の隣で観通した2時間で高校生にも演じられるよう、「舞台進行のまま」にレイアウトすることにした。ページは最大3段組になり、同じ台詞を一緒に語るところを傍線で示した。
劇は途中から上手と下手で別の劇となり、ときおり二つの劇で同じ台詞を同時に語り、それをきっかけに劇がひとつになる。いっぽうで新たな劇が始まり、最大3個の劇が同時進行する。[[ABCC]]の調査に協力する学生と押し問答する母親、一方でその娘の独白。ときどき同じ台詞を同時に語り、極まって二人が抱き合い一瞬に一つの劇になる。[[ふじたあさや]]の隣で観通した2時間で高校生にも演じられるよう、「舞台進行のまま」にレイアウトすることにした。ページは最大3段組になり、同じ台詞を一緒に語るところを傍線で示した。
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[[栗原貞子]]は「[[生ましめんかな]]」の詩を手書き原稿で送ってきた。調べてないが初出と変わっている可能性がある。[[広島]]への[[原爆]]投下の夜、多数の傷ついた人々が横たわる[[逓信省]]の地下室で女性が産気づき、重症の産婆が赤子を取り上げ、翌朝産婆は死んでいったという命を繋いでいく内容は多くの言語に翻訳され世界中の感動を呼んだ。実際の話は少し違ったそうだが、伝え聞いた[[栗原貞子]]は感激のあまりすぐさま詩を書き留めたという。
[[栗原貞子]]は「[[生ましめんかな]]」の詩を手書き原稿で送ってきた。調べてないが初出と変わっている可能性がある。[[広島]]への[[原爆]]投下の夜、多数の傷ついた人々が横たわる[[逓信省]]の地下室で女性が産気づき、重症の産婆が赤子を取り上げ、翌朝産婆は死んでいったという命を繋いでいく内容は多くの言語に翻訳され世界中の感動を呼んだ。実際の話は少し違ったそうだが、伝え聞いた[[栗原貞子]]は感激のあまりすぐさま詩を書き留めたという。


この詩には編集過程でもエピソードがあった。短歌の原稿を読み込んでいたときH氏(女性)の次の歌を見つけた。
この詩には編集過程でもエピソードがあった。短歌の原稿を読み込んでいたときH(女性)の次の歌を見つけた。


::おそひくる陣痛の痛みにうづくまる我にむすびをくれし人あり
::おそひくる陣痛の痛みにうづくまる我にむすびをくれし人あり
::[[空襲]]の合図と共に生れ出し吾子板の上にそのままにあり
::[[空襲]]の合図と共に生れ出し吾子板の上にそのままにあり


収録応諾の返送はHの娘Oからで、添え書きに母は4年前に[[原爆症]]で亡くなったとあった。もしやと思い切って広島の自宅へ電話した。電話口で幼い男の子の声がはじけ、続いてOが出た。やはり「[[生ましめんかな]]」の詩に詠まれた産気づいた女性がHで、赤ん坊はOだった。しかも電話に出たのはOの4歳のさんだった。この[[アンソロジー]]の底に流れるもう一つの主題「生きること、生き続けること」が電話の向こうにあった。
収録応諾の返送はHの娘Oからで、添え書きに母は4年前に[[原爆症]]で亡くなったとあった。もしやと思い切って広島の自宅へ電話した。電話口で幼い男の子の声がはじけ、続いてOが出た。やはり「[[生ましめんかな]]」の詩に詠まれた産気づいた女性がHで、赤ん坊はOだった。しかも電話に出たのはOの4歳の子だった。この[[アンソロジー]]の底に流れるもう一つの主題「生きること、生き続けること」が電話の向こうにあった。


Oはこの年([[1983年]])の[[8月6日]]夜、[[原爆ドーム]]前からの[[NHK]]の生中継に4歳のお子さんを抱かれて出演し、脇には同じく[[被爆者]]の3代目[[江戸家猫八]](2001年没)が涙ながらに立った。
Oはこの年([[1983年]])の[[8月6日]]夜、[[原爆ドーム]]前からの[[NHK]]の生中継に4歳のお子さんを抱かれて出演し、脇には同じく[[被爆者]]の3代目[[江戸家猫八]](2001年没)が涙ながらに立った。


「詩歌」では思いのほか原典に当たることができたが、昭和20年代の物不足、資金不足から活字をそろえられず、「荼毘」の「荼」が「茶」で間に合わさた作品もあった。これは意味が明らかなので正しく荼毘とした。
「詩歌」では思いのほか原典に当たることができたが、昭和20年代の物不足、資金不足から活字をそろえられず、「荼毘」の「荼」が「茶」で間に合わさた作品もあった。これは意味が明らかなので正しく荼毘とした。
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短歌3首の市井の方の印税は11,000セットでもわずか117.5円だった。「採算もあやういお仕事ですから原稿料はいただけません」「収録してくださっただけでも有り難いことです」との声は数多く寄せられていたが、社に提案して60円の郵便記念切手2枚を感謝の手紙とともに送った。当時発売された[[鳥シリーズ]]第1号の「[[ヤンバルクイナ]]」だった。そうしたら思いがけなく、「美しい切手をさっそく仏壇に飾りました」との複数の丁重な礼状ほか多数のねぎらいの返書を頂戴した。
短歌3首の市井の方の印税は11,000セットでもわずか117.5円だった。「採算もあやういお仕事ですから原稿料はいただけません」「収録してくださっただけでも有り難いことです」との声は数多く寄せられていたが、社に提案して60円の郵便記念切手2枚を感謝の手紙とともに送った。当時発売された[[鳥シリーズ]]第1号の「[[ヤンバルクイナ]]」だった。そうしたら思いがけなく、「美しい切手をさっそく仏壇に飾りました」との複数の丁重な礼状ほか多数のねぎらいの返書を頂戴した。


[[林京子]]は印税736,969円の半額を[[長崎市原爆被爆者基金]]へ寄付し、残りの半額を[[反核文学者の会]]の運動に役立ててほしいと連絡してきた。当時の[[ほるぷ]]内部の配布文書にその際のの一文が掲載されている。
[[林京子]]は印税736,969円の半額を[[長崎市原爆被爆者基金]]へ寄付し、残りの半額を[[反核文学者の会]]の運動に役立ててほしいと連絡してきた。当時の[[ほるぷ]]内部の配布文書にその際のの一文が掲載されている。


「『日本の[[原爆文学]]』は文学者たちの切迫した[[核兵器廃絶]]の希い、[[平和]]への希求から生まれたもの。その印税を九死に一生を得た[[被爆者]]の立場から、少しでも、お役に立てる使い方ができればと寄付を思いたった」(掲載のまま)
「『日本の原爆文学』は文学者たちの切迫した[[核兵器廃絶]]の希い、[[平和]]への希求から生まれたもの。その印税を九死に一生を得た[[被爆者]]の立場から、少しでも、お役に立てる使い方ができればと寄付を思いたった」(掲載のまま)


=== 編集世話人の協力 ===
=== 編集世話人の協力 ===
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== その後 ==
== その後 ==
1986年5月31日、[[ほるぷ出版]]のリストラによって全社員が社を退いた。以後の同社のこと、「日本の[[原爆文学]]」のことは何も知らない。[[ほるぷ]]本体も一般家庭へのセット物の売行低下が止まらず、「日本の原爆文学」の成功以後は苦難が続き、大手[[取次]]の[[日本出版販売]](日販)傘下に入り、のち1999年に解体整理された。いくつもの困難な企画を成功に導き、多くの出版社を救い、かつ[[日本近代文学館]]設立初期(2代館長[[伊藤整]]、3代館長[[塩田良平]]、4代館長[[小田切進]]の時代)の運営基金充実を助けた反面、一部販売スタッフの強引な販売手法が非難を呼んだ側面もあった。
1986年5月31日、[[ほるぷ出版]]のリストラによって全社員が社を退いた。以後の同社のこと、「日本の[[原爆文学]]」のことは何も知らない。[[ほるぷ]]本体も一般家庭へのセット物の売行低下が止まらず、「日本の原爆文学」の成功以後は苦難が続き、大手[[取次]]の[[日本出版販売]](日販)傘下に入り、のち1999年に解体整理された。いくつもの困難な企画を成功に導き、多くの出版社を救い、かつ[[日本近代文学館]]設立初期(2代館長[[伊藤整]]、3代館長[[塩田良平]]、4代館長[[小田切進]]の時代)の運営基金充実を助けた反面、一部販売スタッフの強引な販売手法が非難を呼んだ側面もあった。

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[[Category:日本の文学]]

2012年9月26日 (水) 02:40時点における版

Template:Cleanup日本の原爆文学』は第二次世界大戦後38年目の1983年(昭和58年)7月末に実現した、広島長崎への原爆攻撃によって世界で最初の被爆国となった日本に生まれた反核反戦の小説、詩歌、手記、記録、評論、エッセイの初の大部な集大成である。全15巻。

核戦争の危機を訴える文学者の声明」署名者(以下、反核文学者の会)による活動の証しとして、核状況下にある現代を生きることの意味について平和を希求するすべての人々に読み考えてもらうために企画され、ほるぷ出版(第1期。1969-86年)からセットにて全巻同時に刊行された。

全15巻の構成(平均500ページ)

第1巻「原民喜
第2巻「大田洋子
第3巻「林京子
第4巻「佐多稲子竹西寛子
第5巻「井上光晴
第6巻「堀田善衛
第7巻「いいだもも
第8巻「小田実武田泰淳
第9巻「大江健三郎金井利博
第10巻「短篇I」
第11巻「短篇II」
第12巻「戯曲」
第13巻「詩歌」
第14巻「手記・記録」
第15巻「評論・エッセイ」
「日本の原爆文学」

企画始動から刊行まで

企画の持ち込み

1982年(昭和57年)、反核反戦運動のうねりのなか、反核文学者の会世話人メンバーは活動の証しとして原爆文学の十数巻もの大部な集大成を、1983年原爆忌および「アジア文学者ヒロシマ会議」(同7月27~31日)までに刊行する企画をたてた。だが企画を持ち込まれた大手出版社、中堅出版社はことごとく断った。原爆文学およびそれに関する書籍はごく一部の作品を除いて赤字になることは当時の出版界の常識であり、ましてやこれほどの大部なアンソロジーはまったく検討の外だった。世話人メンバーも出版社を危機に陥れかねないことを知り、実現は閉ざされたかに見えた。

そのとき世話人メンバーはほるぷ(HOLP。Home Library Promotionの略。1964-1999年)の存在を聞き及んだ。ほるぷの前身は東京都内の中森書店から出発した書籍の直販割賦販売会社、図書月販である。最盛時は全国で3000名近い販売スタッフを抱え、平凡社の「世界大百科事典」や数々の絵本をはじめ出版各社が売り悩んでいた良書をセットの割賦販売にのせて次々とヒットに導き、多くの出版社を支えつつ成長した。なかでも出版界がこぞって無謀と評した(財)日本近代文学館の「名著複刻シリーズ」事業(数百冊もの近代文学初版本の完全復元と普及の両立)を、ほるぷ出版や東京連合印刷を設立して、印刷による正確な再現に必要な高精度の製版撮影技術と製紙・印刷・製本にわたる復元技術を確立して大成功に導き、日本近代文学館の財団法人としての運営基金形成に大きく貢献していた。

1982年9月某日、世話人メンバーの代表(大江健三郎小田実伊藤成彦)はほるぷのオーナー社長中森蒔人(まきと。2004年没)に面会した。中森蒔人は同月ほるぷ出版の社長にも就任していた。当時のほるぷ出版は社員約60名、年商60数億円の中堅出版社に育ち、数多くの海外秀作絵本の翻訳や児童書、単行本を刊行する一方、他社が二の足を踏む良書のセット企画、野心的な試みをほるぷの販売網にていくつかヒットさせていた。だが、ほるぷの原点が良書の普及活動にあるとはいえ、中森蒔人はこの企画に逡巡した。

中森蒔人日本共産党党員であり、社員や販売スタッフにも一部その思想傾向があった。ほるぷの顧客には教職員の割合も多く、反核反戦平和反差別に関心ある人々が一定存在し、多くのセット商品の中には教育に関するもののほか、『はだしのゲン』で著名な中沢啓治、陸軍二等兵として戦争を体験した水木しげる等の漫画による反核・反戦ものもあった。だが家庭へのセット販売の陰りが一段と明確になった当時、原爆文学に関する大部な企画の重圧は相当だった。

ちなみに、ほるぷグループはほるぷ映画を設立し、今井正監督『橋のない川』1部、2部(住井すゑ原作、1969-70年)など、反差別の映画制作にも手を染めていた。またこの年(1982年)の7~8月、中国・韓国にて日本の教科書の記述内容(明治以降)に反発した激しいデモが頻発したが(教科書問題)、ほるぷ出版はちょうど両国の自国史教科書の翻訳(「世界の教科書=歴史」シリーズ、1981-85年。ほるぷにてセット販売)を刊行したばかりで、半月にわたってマスコミの集中取材を受けていた。(同年8月より『中国1』(清代まで)、『中国2』(アヘン戦争以降)、『韓国1』(中学校用)、『韓国2』(高等学校用)のみ単行本として発売した。) こうした社会性の強い出版活動もこのあとの展開をもたらした一因と言える。なおシリーズを担当したのは歴史編集チームだった。

企画受諾、作業の開始

1982年9月20日(月)夜、中森蒔人新社長と歴史編集チームとの食事会があり、中森蒔人は持ち込まれた企画を初めて話題にして社員に意見を求めた。ほるぷオーナーの中森蒔人によるグループ内の労務政策から、思想的に自由な雰囲気を保持していたほるぷ出版労組と社の緊張は以前から絶えず、その夜も一部組合員は同席を拒んだ。だが中森蒔人の話に社員は大きな関心を示した。

10月13日(火):中森蒔人は来社した大江健三郎に企画受諾の決意を伝えた。

10月14日:全集担当チームは歴史編集チーム内で編成されることになり、即翌日より関係図書の収集が開始された。全巻刊行まで9カ月だった。

10月21日:収録作品選定作業の中心となる長岡弘芳黒古一夫と全集担当チームとで第1回編集会議、2時間。

10月25日:反核文学者の会世話人グループはほるぷ出版からの全集刊行を正式に決議。

11月9日:第2回編集会議、4時間。伊藤成彦を中心に以下を確認した。

  1. 全16巻(予定)を広島長崎原爆忌前に全巻刊行。
  2. 著者・著作権者へ収録の願い状を用意できしだい発送。
  3. 版権交渉は慎重を期す。
  4. 印税は5%ぐらいとし、最初の依頼状には記載せず、後日、反核文学者の会から説明書を送り納得を得る。
  5. 売上より「アジア文学者ヒロシマ会議」への援助を希望。
  6. 原稿収集にあたる編集世話人に編集経費を検討。
  7. 手のかからない小説類の元原稿を来週までに収集し作業を先行させる。
  8. ほるぷ出版の定価6万円、採算ライン3000セットの仮決定を了承。
  9. 刊行期日を厳守するため全般に拙速を良しとする。

当初は16巻の計画

当初16巻の案は以下のとおりだった。(◆印の作家はのちに収録からはずれた。)

第1巻「原民喜
第2巻「大田洋子
第3巻「◆井伏鱒二(『黒い雨』『かきつばた』)」
第4巻「佐多稲子
第5巻「井上光晴・◆後藤みな子(『時を曳く』『三本の釘の重さ』『炭塵のふる町』)」
第6巻「◆阿川弘之(『魔の遺産』『八月六日』『年々歳々』)・竹西寛子
第7巻「林京子
第8巻「堀田善衛
第9巻「大江健三郎
第10巻「小田実武田泰淳
第11巻「短篇I」
第12巻「短篇II」
第13巻「戯曲」
第14巻「詩歌」
第15巻「手記・記録」
第16巻「評論・エッセイ」
独立巻で検討 ◆渡辺広士(『終末伝説』)

11月16日:第3回編集会議、5時間。小田実小中陽太郎が会議初参加。個人集、「戯曲」、「短編I」の収録作品がほぼ固まる。推薦人、各巻の解説者候補を決定。題名は「集成 日本の原爆文学」と仮決定。編集委員会形式でなく編集世話人とする。編集世話人からはほるぷ出版からの全集刊行決定の知らせを既に反核文学者の会署名者へ発送済みと報告された。

編集世話人の全面的な協力

確定した編集世話人:中野孝次小田実伊藤成彦小中陽太郎大江健三郎長岡弘芳黒古一夫栗原貞子岩崎清一郎山田かん鎌田定夫(パンフレット掲載順)。

編集世話人はこの企画でほるぷグループを危機に陥れないため以下の全面的な協力を決めた。

  1. 採算点を下げるため印税は著名作家(最高は15%)から市井の人々まで定価の一律5%とし、同2%相当額を「アジア文学者ヒロシマ会議」の運営に援助する。
  2. 版権を持つ出版社との交渉が困難な場合、編集世話人が無償応諾を説得する。
  3. 経費節減のため編集世話人への謝礼をゼロとし、広島長崎の編集世話人を含めて手弁当で作業する。(実際には原稿収集の経費の一部が数名に支払われた。)
  4. 販売促進に協力する。

著者・著作権者への交渉

1982年11月29日(月):収録候補作品の著者・著作権者へ収録の願い状を反核文学者の会ほるぷ出版の連名で発送開始。

11月30日:井上光晴より電話、「基本的に承諾するが、判断のため全集の全体像を知りたい。自分一人で1巻にしてほしい。自分としては『手の家』のほうが望ましい(どの作品の替わりかは記録が無い)」。

武田百合子武田泰淳著作権者)より電話、著作権料の説明を求められる。直後に承諾。

小山喜久子(「戯曲」収録の小山祐士著作権者)より承諾の電話、「本人は6月10日、民芸の公演中に死去した。収録してもらえて有り難い」。

12月1日:田中小実昌(『浪曲師朝日丸の話』が「短篇」収録候補)より断りの電話、「反核のために書いた訳でもなく、そのようなものに加わる作品とは思えない」。

阿川弘之より断りの電話。律儀な言葉遣いで「反核アピールのグループが刊行するなら大反対。私は小林秀雄と同じ意見。私なりに反核の立場を表していく。グループに関係なくほるぷ出版独自で編集・刊行するなら承諾する」。これに対し伊藤成彦は「断られたなら諦める。尾崎さんを担ぎ出すことはしない」(メモのまま)と了承した。

「短篇I」収録の中本たか子より書状、承諾。

同日、急遽企画の概要と収録作品の一覧(予定)を一斉に追加発送。全体像が不明との問い合わせが複数寄せられたため。依頼時に同封しなかった理由は「作者同士の生臭い確執を避けるため細かいことは教えないでおく」(メモのまま)との編集世話人の判断だった。

12月2日:「短篇I」収録の川上宗薫、細田征矢子(細田民樹著作権者)承諾。同収録の有吉佐和子より「印税が払われないなら断る」との返事、のち承諾。「短篇II」収録の西原啓承諾。「戯曲」収録の別役実承諾。同収録のふじたあさや承諾、「良い機会なので手を加えたい。期限を教えて欲しい」。

12月3日:「短篇I」収録の桂芳久越智道雄(「版権冬樹社」)承諾。「戯曲」収録の田中千禾夫宮本研(「版権は晶文社」)、堀田清美(「一部改訂を希望」)承諾。 堀田善衛承諾、「岩波書店の了承を取ってほしい。著作権料はみんなと同じでいい。津久井喜子による英語訳が進行中。解説を小中陽太郎君が書くようなら少し申したく、平野謙栗原幸夫と少し違うものを書いてほしい」。

12月4日:佐多稲子承諾、「講談社文芸図書のO氏の了解を取ってほしい」。「短篇II」収録の小田勝造(「『同窓会は夏に』を希望」)、藤本仁古浦千穂子中山士朗承諾。同収録の亀沢深雪承諾、「「文学界」所収の『広島巡礼』に誤植。正したい」。「戯曲」収録の大橋喜一承諾、「版権テアトロ社」。

12月6日:後藤みな子より断りの書状。「自分の鎮魂として書いた。もうしばらく沈めておきたい」(メモのまま)。編集世話人の多くはあるていど予測していたようで「いいでしょう」と頷きあって了承した。

「短篇II」収録の小久保均承諾、「『夏の刻印』『生者の仕事』を希望」。

12月7日:林京子より電話。承諾の意向だが「講談社に3年間の版権が有るので第一出版局長のM氏に問い合わせて欲しい」。「短篇I」収録の石田耕治文沢隆一梶山季之著作権者梶山美那江承諾。

12月8日:「短篇I」収録の岩崎清一郎承諾。

12月9日:中川一枝(大田洋子実妹)、「三省堂(メモのまま。三一書房?)の意向を聞いてから返事する」。竹西寛子、「心臓疾患で療養中につき18日以降に会って答える」、のち承諾。

12月13日:第4回編集会議、4時間。大江健三郎が会議初参加。収録承諾状況の確認、一部の巻で加除を検討。印税は定価の一律5%、「アジア文学者ヒロシマ会議」の運営費援助として反核文学者の会に同2%相当額が支払われると明記し、著者・著作権者へあらためて送ることを正式決定。

12月14日:佃陽子(「短篇I」収録の佃実夫著作権者)承諾。金井満津子(金井利博著作権者)承諾。両者とも著作権者の所在確認に手間取り、郵送が遅れた。

版権交渉と全15巻の決定

12月8~9日:版権所有の出版社へ無償収録の願い状を発送。

12月中~下旬:晶文社弥生書房婦人民主クラブなど出版社、団体から次々と無償収録の承諾書届く。

12月21日:講談社、版権を主張しないことを「法を超えて了承する」。

12月22日:岩波書店、版権料として印税2%を要求。(どう対処したかの記録無し。)

1983年(昭和58年)1月7日:三一書房、自社の「大田洋子集」(1982年、全4巻)所収の『屍の街(しかばねのまち)』について版権を主張し、収録応諾せず。『屍の街』は被爆時の記憶も生々しい1945年11月に書かれたルポルタージュ風の世界最初の原爆小説(出版は1948年)であり極めて重要な作品だった。

1月7~9日:担当編集長、広島長崎に出張。現地編集世話人と打ち合わせ。編集世話人より長岡弘芳伊藤成彦が同行。

1月11日:三省堂金井利博の無償収録承諾。

1月13日:第5回編集会議、2時間。「大田洋子」の巻の対策として『屍の街』をはずした第2案を検討。生原稿のコピーも集められる。新潮社の件は17日に方針を出す(内容の記録無し)。全巻の解説者を決定、次週より依頼開始。「評論・エッセイ」の巻の収録作品は伊藤成彦の帰国を待って固めることとする。

(1月14~21日:伊藤成彦は韓国政治家・民主化運動家の金大中に会いに渡米。金大中は死刑判決が無期懲役刑に減刑され、さらにその執行停止の条件として前年12月末にアメリカへ亡命。のち1997年、韓国大統領に就任)

1月17日:図書印刷へ出稿開始。初回は「堀田善衛」、「短篇I」。

1月31日:第6回編集会議、4時間。(記録無し)

2月8日:「井伏鱒二」の巻の中止が決まる。広島の編集世話人から収録に異論が出たとの報告を聞く。非被爆体験者の立場での執筆の在り方や『重松日記』(2001年、筑摩書房)との関連も指摘されたようだが、この件については深い論議を避けた印象だった。

これにより最終的に全15巻となる。ほるぷ、6月予約販売開始を決定。

2月9~14日:「大田洋子」の巻の『屍の街』をめぐって様々な動き。編集世話人、小田切秀雄へ協力を依頼。

2月15日:小田切秀雄三一書房刊「大田洋子集」編集委員の一人)が三一書房社長に面会。三一書房は『屍の街』の無償収録をやむなく内諾した。第2案の一部も収録することに決定された。

3月14日:第7回編集会議、3時間。「評論・エッセイ」の巻の一部を差し替え。全巻の構成が固まる。第14巻、第15巻、および個人集に収録した評論、エッセーの選択には長岡弘芳黒古一夫の研究業績が大きく反映された。

また装丁には丸木位里丸木俊作『原爆の図』第8部「救出」の部分を採用することが決まった。デザインとしては原画撮影のネガ版を使用し、スミ版(黒色)を抜いたと記憶する。

採算ラインは無謀な7000セット

全15巻3000セット採算で計算するとほるぷの販売網にのせるには1冊単価7000円超、セット価格は10万円を超えた。当時、この価格帯での常識的なほるぷの販売見込数は1000セット以下だった。その重圧に大江健三郎は売れて欲しいとの切なる願いを込めて大阪朝日新聞に「3000セット売れたら日本人を見直す」と寄稿した(原文未確認)。たちまち朝日新聞大阪本社に傲慢だとの抗議の電話が殺到したと聞く。

だが中森蒔人は常識を無視した決断を下した。採算ラインは7000セット、セット定価57,000円、1冊単価3800円。「これはほるぷグループの存在をかけて世に広めなければならない全集だ。だから高価であってはならない。」

刊行までのこと

5月11日:ほるぷ出版、セット完成を7月10日、奥付刊記8月6日と最終決定。

5月25日:ほるぷ、カタログを全国の営業所へ発送。

6月初め:全国で約1000人の販売スタッフの多くが刊行趣旨を理解し動き始めた。

6月28日:見本として使用する「短篇I」完成。

7月初め:オフセット印刷刷版製版フィルム、全巻で青焼き点検終了(完全校了)。

7月13~14日頃:突然、初刷り7000セット予約完売の報が飛び込んだ。ほるぷはすぐさま4000セットの増刷を決定。あっけない採算ラインの突破に編集世話人の危惧は喜びと安堵に一変した。

これで明白になったのは、反核反戦の気運の昂まりの中で原爆文学の大部な集大成に反応する人々が予想をはるかに超えて存在していたこと、それを見抜いた出版人は皆無だったことである。ほるぷグループにあったのは、企画に惚れ込んで何が何でも売る決意と、不可能を可能にしてきた社の直販の歴史をがむしゃらに信じることだった。

7月16日(土):反核文学者の会は販売促進の一環として東京の日本教育会館で刊行記念文芸講演会を開催。カタログ撮影用の束見本で全巻の姿を展示した。

7月27~31日:広島にて「アジア文学者ヒロシマ会議」が「アジアの平和と文学-「」、貧困抑圧からの解放を求めて-」を掲げて開催された。アジア、アフリカ、アラブはもとより世界中から文学者、反核反戦運動家が参加し、報告と討論、被爆者との懇談会等ののちヒロシマ・アピールを採択した(31日は長崎訪問とレセプション)。会場には完成したばかりの「日本の原爆文学」全15巻が飾られた。

「アジア文学者ヒロシマ会議」での報告・発言・討議のすべてはほるぷ出版よりほるぷ現代Books『核 貧困 抑圧』(アジア文学者ヒロシマ会議実行委員会編、伊藤成彦解説、1984年2月)に収録され発売された。

7月末~8月初め:原爆忌直前に初刷り7000セットは発売記念特価54,000円で予約者に届いた。二刷は8月15日に完成し、年末までに1万セット以上の販売を達成した。

担当した5巻の作業

編集方針は選択された作品を「そのまま収録する」ことだった。全15巻刊行を原爆忌に間に合わせるには原稿を読み込んで明らかな誤植を訂正する時間しかないとの判断と、「既発表作品の集大成」であることからだった。だが原稿が既刊の本や雑誌であれ、読み込みで必要と思われた調査、執筆者への確認・相談は欠くべきでない。担当した下記5巻での作業を次に記す。

第2巻「大田洋子
第6巻「堀田善衛
第8巻「小田 実武田泰淳
第12巻「戯曲(担当を希望)」
第13巻「詩歌(担当を希望)」

第2巻「大田洋子」

若干の誤植以外、問題は無かった。三一書房の「大田洋子集」(全4巻)と重なるのは『屍の街』のみ。『恋』『暴露の時間』『ほたる』『病葉』『輾転(てんてん)の旅』は「日本の原爆文学」のみの収録である。さらに大田洋子自身の評論を15作品、大田洋子論を10作品収録した。

第6巻「堀田善衛」

長編『審判』収録。初出は岩波書店(1963年)。著者の指示で筑摩書房版『堀田善衛全集』(1974-75年版)の第5巻でなく当時最新刊の集英社版文庫本(1979年)を定本に採用した。だが誤植や筑摩書房版との差異は約30カ所になった。重要な差異は当時バルセロナ在住の著者に手紙で問い合わせ、返書は常に2週間で返った。大きな訂正箇所を上げておく。

広島への原爆投下時刻の混乱

集英社版文庫本下巻P.29では「午前八時十五分」、同P.240では「午前九時四十五分」、筑摩書房版第5巻では「午前九時十五分」となっている。著者自身なぜそうなったか判らないとのことで「午前八時十五分」で統一してほしいと返書が来た。

事後に気付いたが、エノラ・ゲイが発進したテニアン時間では原爆投下は午前九時十五分となる。しかも集英社版文庫本下巻P.240の箇所は気象偵察機のパイロットだったポール・リボートが広島への原爆投下の瞬間を回想する場面であり、「午前九時四十五分」は誤りでも筑摩書房版「午前九時十五分」の可能性はあり得なくない。だが次のP.241の長崎への投下は「午前十一時一分」(公式には二分)と日本時間となっている。広島をテニアン時間「午前九時十五分」としながら長崎をテニアン時間にし忘れた可能性は無かったか、著者死亡の今確認のすべは無い。ちなみに「詩歌」の作品中にも「午前九時十五分」が見られた。

集英社版文庫本上巻で抜けた部分、誤り

集英社版文庫本上巻P.85の15行目「すべてに遠近感も(実在感も)感じられ…」の( )の中が欠如、筑摩書房版にあり。著者の指示で復活。

同じく上巻P.140の「二万百八キロ」「二万八千三百三十四キロ」はメートルのあやまり。

謡曲の題名と引用詞章が集英社版・筑摩書房版とも混乱

最後に近いところに謡曲の引用が数カ所ある。この謡曲は宝生流観世流とで題名が違い、詞章も少し違う。集英社版と筑摩書房版の双方が以下のようにちぐはぐな状態だった。

集英社版:題名は「安達ヶ原」(観世流の名称)、引用詞章は宝生流。
筑摩書房版:題名は「黒塚」(宝生流の名称)、引用詞章は観世流。

謡曲を習う者、能狂言の愛好家なら必ず注意する点である。バルセロナの著者へは手紙と本文のコピーを送り、宝生流でそろえることを提案した。理由は作中で謡曲を謡う祖母、郁子刀自(いくことじ)が金沢の出身であり、北陸は宝生流の盛んな土地であること。返書は提案どおりで整理せよ、だった。

第8巻「小田実・武田泰淳」

小田実『HIROSHIMA』(1981年、講談社)はパールハーバーからヒロシマまでを時間軸とし、ロス・アラモス近郊で世界初の被爆者となったホピ族インディアンに始まり、白人、黒人、朝鮮人、日本人が登場する「全体小説」の成功作とも言われる。読み込みで8カ所の誤植を見つけた。元原稿は神戸の自宅で完璧に管理されており、電話での問いに〝人生の同行者〟(小田実自身の表現)である新妻の玄順恵が即座にすべて回答した。

第12巻「戯曲」

『ヒロシマについての涙について』の改訂原稿を千駄ヶ谷の日本青年館でふじたあさやから台本にて受領した。地下の大きな集会室に若者が集まっており、ふじたの「これから立ち稽古ですが観ていかれますか」との言葉に甘えた。

劇は途中から上手と下手で別の劇となり、ときおり二つの劇で同じ台詞を同時に語り、それをきっかけに劇がひとつになる。いっぽうで新たな劇が始まり、最大3個の劇が同時進行する。ABCCの調査に協力する学生と押し問答する母親、一方でその娘の独白。ときどき同じ台詞を同時に語り、極まって二人が抱き合い一瞬に一つの劇になる。ふじたあさやの隣で観通した2時間で高校生にも演じられるよう、「舞台進行のまま」にレイアウトすることにした。ページは最大3段組になり、同じ台詞を一緒に語るところを傍線で示した。

第13巻「詩歌」

詩、短歌、俳句、川柳の作者の合計は1300名を超え、収録作品数は4100近い膨大なものだった。

詩:約160名、203編
短歌:約350名、約2460首
俳句: 740名、1322句
川柳: 82名、100首

広島長崎双方の被爆者による短歌・俳句の作品選定と収録承諾の確認は現地編集世話人が当たった。時間もないことからひとまず「原本」とされたものを割り付けして出稿し、一方で当時、近代文学の初版本複刻事業の合同編集部を設置していた東京駒場の日本近代文学館にて可能な限り原典に当たった。

最大の誤りは原本の一つに使用した『日本原爆詩集』(1978年、太平出版社)での真壁仁の詩だった。読み込むと詩が明らかに途中から変調する。原典の『死の灰詩集』(現代詩人会編、1954年、宝文館)で確認したところ吉原幸子の詩がシームレスに繋がってしまっていた。他に途中で不自然にカットされたもの、大きな誤植のあるものもあった。

日本原爆詩集』は原爆関係の単行本アンソロジーとして、当時確か20刷りほど版を重ねた希有かつ貴重なベストセラーだった。

他の注目点は詩の「初出年月」だった。詩本文の誤りの多さから念のため他の巻ではしなかった著者校を郵送で行った。結果、思いのほか訂正が送られてきた。日本近代文学館の書庫の詩集等で記載以前の収録を発見し初出を訂正した作品もいくつかあった。

安藤次男から詩のト書きの「九時十五分」を「八時十五分」へと訂正依頼があった。

山本太郎は3月の反核文学者の会で発表したばかりの詩にさっそく手を入れた。

栗原貞子は「生ましめんかな」の詩を手書き原稿で送ってきた。調べてないが初出と変わっている可能性がある。広島への原爆投下の夜、多数の傷ついた人々が横たわる逓信省の地下室で女性が産気づき、重症の産婆が赤子を取り上げ、翌朝産婆は死んでいったという命を繋いでいく内容は多くの言語に翻訳され世界中の感動を呼んだ。実際の話は少し違ったそうだが、伝え聞いた栗原貞子は感激のあまりすぐさま詩を書き留めたという。

この詩には編集過程でもエピソードがあった。短歌の原稿を読み込んでいたときH(女性)の次の歌を見つけた。

おそひくる陣痛の痛みにうづくまる我にむすびをくれし人あり
空襲の合図と共に生れ出し吾子板の上にそのままにあり

収録応諾の返送はHの娘Oからで、添え書きに母は4年前に原爆症で亡くなったとあった。もしやと思い切って広島の自宅へ電話した。電話口で幼い男の子の声がはじけ、続いてOが出た。やはり「生ましめんかな」の詩に詠まれた産気づいた女性がHで、赤ん坊はOだった。しかも電話に出たのはOの4歳の子供だった。このアンソロジーの底に流れるもう一つの主題「生きること、生き続けること」が電話の向こうにあった。

Oはこの年(1983年)の8月6日夜、原爆ドーム前からのNHKの生中継に4歳のお子さんを抱かれて出演し、脇には同じく被爆者の3代目江戸家猫八(2001年没)が涙ながらに立った。

「詩歌」では思いのほか原典に当たることができたが、昭和20年代の物不足、資金不足から活字をそろえられず、「荼毘」の「荼」が「茶」で間に合わさた作品もあった。これは意味が明らかなので正しく荼毘とした。

市井の人々の短歌にも著者校を行ったが、自身の歌と確認できないため削除の申し出、別の歌との差し替え希望が複数寄せられた。ほとんどは地元の同人誌、自費出版の歌集などに掲載されたものだが、個々それぞれに被爆の瞬間からの「時の距離」があったかもしれない。

また、詩は著名な詩人が中心だったが、短歌、俳句、川柳は一般の人々が中心となった。

第14巻「手記・記録」

担当した巻ではないが、1954年3月1日に太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験によって被爆し、それによって死亡した第五福竜丸乗組員の久保山愛吉無線長の手記、その妻久保山すずの一文が加えられている。

周辺の記録

印税の支払い

短歌3首の市井の方の印税は11,000セットでもわずか117.5円だった。「採算もあやういお仕事ですから原稿料はいただけません」「収録してくださっただけでも有り難いことです」との声は数多く寄せられていたが、社に提案して60円の郵便記念切手2枚を感謝の手紙とともに送った。当時発売された鳥シリーズ第1号の「ヤンバルクイナ」だった。そうしたら思いがけなく、「美しい切手をさっそく仏壇に飾りました」との複数の丁重な礼状ほか多数のねぎらいの返書を頂戴した。

林京子は印税736,969円の半額を長崎市原爆被爆者基金へ寄付し、残りの半額を反核文学者の会の運動に役立ててほしいと連絡してきた。当時のほるぷ内部の配布文書にその際の林の一文が掲載されている。

「『日本の原爆文学』は文学者たちの切迫した核兵器廃絶の希い、平和への希求から生まれたもの。その印税を九死に一生を得た被爆者の立場から、少しでも、お役に立てる使い方ができればと寄付を思いたった」(掲載のまま)

編集世話人の協力

大江健三郎小田実をはじめ編集世話人はこの企画によってほるぷグループ、ほるぷ出版を危機に陥らせてはならぬとさまざまに活動した。その一つが7月16日、東京の日本教育会館で開かれた刊行記念文芸講演会であり、それは以下の小冊子となって販売促進にも活用された。ともに格調の高い冊子だった。

大江健三郎 『「生きのびる希望」としての文学』
小田 実 『反核反戦を貫ぬく主体性』

反核文学者の会の刊行の言葉

「日本の原爆文学」のパンフレットに掲載された反核文学者の会の「刊行の言葉」を掲げる。(掲載の形のまま)

核戦争の脅威が大きく取沙汰されるようになっています。
この状況に対し、平和を希求する世界の多くの人々のあいだから
核戦争の危機を訴える声が日ましに大きくなってきました。
しかし、多くの人々は、
核兵器の使用がどのような結果をもたらすのか、を
まだまだ知らされてはいません。
わが国は世界で最初の被爆国です。
かつて、無謀な戦争に突入していった
わが祖国は一九四五年あの悲劇に
追い込まれてしまいました。
二度と…、二度と…
あやまちをくり返してはなりません。
広島」「長崎」……《被爆》という現実、
人間たちでは処理できないほどの
重い経験を日本の文学者たちは、
地味ながら執拗にみずからの言葉で刻印してきました。
その作品群は、
人間や世界の本質をするどく抉り出しています。
私たちは、今ここに、
日本でしか出せない〝原爆文学〟の集大成を試み、
原爆は、人間にいったい何をもたらしたのか、
そして、核状況下にある現代を生きることの意味について、
平和を希求するすべての人々が、
読み考えられることを広く訴えたいと思います。

その後

1986年5月31日、ほるぷ出版のリストラによって全社員が社を退いた。以後の同社のこと、「日本の原爆文学」のことは何も知らない。ほるぷ本体も一般家庭へのセット物の売行低下が止まらず、「日本の原爆文学」の成功以後は苦難が続き、大手取次日本出版販売(日販)傘下に入り、のち1999年に解体整理された。いくつもの困難な企画を成功に導き、多くの出版社を救い、かつ日本近代文学館設立初期(2代館長伊藤整、3代館長塩田良平、4代館長小田切進の時代)の運営基金充実を助けた反面、一部販売スタッフの強引な販売手法が非難を呼んだ側面もあった。