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「京都電燈デナ21形電車」の版間の差分

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[[ファイル:Eiden21Series02.jpg|thumb|right|250px|デナ21(1993年 市原駅付近)]]
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'''叡山デナ21形電車'''(えいざんでんてつデナ21がたでんしゃ)は、[[叡山]]([[1986年]]3月までは[[京福道]]叡山線)で[[1994年]]まで使されいた[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]。元は京福電気鉄道の前身である[[京都電燈]]、及びその関連会社である[[鞍馬気鉄道]]が新造した[[鉄道|車]]である。
'''京都デナ21形電車'''(きょうとでんとうデナ21がたでんしゃ)は、[[京都]]が同社[[叡山電鉄叡山本線|叡山線]]用車両として[[1929年]][[昭和]]4年)に新製した[[電]][[動力車|制御電動車]]である。車両記号の「デナ」とは、「デ」が電動車を('''デ'''ンドウシャ)、「ナ」が車体の大きさ(中型 = '''ナ'''カガタ)をそれぞれ意味する。

デナ21形の落成前年となる[[1928年]](昭和3年)には、京都電燈の傍系事業者である[[鞍馬電気鉄道]]が、[[叡山電鉄鞍馬線|同社路線]]の開業に際して、デナ21形と基本設計が同一である同形車両'''デナ121形電車'''を新製しており、両形式合わせて計10両が在籍した。

本項では、京都電燈デナ21形・鞍馬電気鉄道デナ121形の両形式について詳述する。


== 概要 ==
== 概要 ==
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[[ファイル:EiDENdena21.JPG|thumb|right|180px|鞍馬駅前に保存されたデナ21前頭部]]
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[[1942年]]に京都電燈の京福への分と、京福による鞍馬電鉄の合により、京福の21 - 24と鞍馬電鉄引継ぎの121 - 126は同一形式にまとめられた。戦後の一時期において121 - 124が2個モーターにされるなどの変遷があったが、順次塗装の2色化、尾灯の2個化、車内照明の[[ランプ (光源)|管形白熱灯]]化、制御機の交換(オリジナルはキー式)、モーターの4個化などが行われている。
[[1942年]]に京都電燈の保有する鉄道部門の[[京福電気鉄道]]への分社化と、京福電気鉄道による鞍馬電吸収により、京福の21 - 24と鞍馬電鉄引継ぎの121 - 126は同一形式にまとめられた。戦後の一時期において121 - 124が2個モーターにされるなどの変遷があったが、順次塗装の2色化、尾灯の2個化、車内照明の[[ランプ (光源)|管形白熱灯]]化、制御機の交換(オリジナルはキー式)、モーターの4個化などが行われている。


121・123は[[1964年]]に鞍馬線で[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京福電鉄電車衝突事故|正面衝突事故]]により大破・焼失し、[[廃車 (鉄道)|廃車]]となっている。
121・123は[[1964年]]に鞍馬線で[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京福電鉄電車衝突事故|正面衝突事故]]により大破・焼失し、[[廃車 (鉄道)|廃車]]となっている。
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[[1978年]]、[[集電装置]]のパンタグラフ化<ref>2両編成化して鞍馬側車両の出町柳側をパンタグラフに取替え、切替え直前は2両で1箇所のポール、あるいは出町柳側であった車両のみを単独使用。切替え直後は2両で1箇所のパンタグラフ、あるいは鞍馬側であった車両のみを単独使用。後に出町柳側車両の出町柳側をパンタグラフに取替え、工事完了としている。</ref>で全車両とも[[出町柳駅|出町柳]]寄りにパンタグラフが取り付けられた。結果、窓からのポール操作を行うことがなくなったので(スライダーシュー化後は連結面は通常未使用)、編成を組む側の面のみ<ref name=kantsu>21・23・125の[[八瀬比叡山口駅|八瀬遊園]]・鞍馬寄り、22・24・124・126の出町柳寄り。122はこれらの車両の検査時の予備として両側とも施工(後の片運転台化時は鞍馬寄り運転台を撤去)。</ref>[[貫通扉]]を取付け2両編成化を行った。同時に<ref>一部はポール時代に施工されている。また運転台窓については手動ワイパーのまま固定化され、後に自動化されたものもある。</ref>運転台窓の固定化や空気動ワイパーの取付、122・124を除く全車に外板更新によるノーシル化が行われている。
[[1978年]]、[[集電装置]]のパンタグラフ化<ref>2両編成化して鞍馬側車両の出町柳側をパンタグラフに取替え、切替え直前は2両で1箇所のポール、あるいは出町柳側であった車両のみを単独使用。切替え直後は2両で1箇所のパンタグラフ、あるいは鞍馬側であった車両のみを単独使用。後に出町柳側車両の出町柳側をパンタグラフに取替え、工事完了としている。</ref>で全車両とも[[出町柳駅|出町柳]]寄りにパンタグラフが取り付けられた。結果、窓からのポール操作を行うことがなくなったので(スライダーシュー化後は連結面は通常未使用)、編成を組む側の面のみ<ref name=kantsu>21・23・125の[[八瀬比叡山口駅|八瀬遊園]]・鞍馬寄り、22・24・124・126の出町柳寄り。122はこれらの車両の検査時の予備として両側とも施工(後の片運転台化時は鞍馬寄り運転台を撤去)。</ref>[[貫通扉]]を取付け2両編成化を行った。同時に<ref>一部はポール時代に施工されている。また運転台窓については手動ワイパーのまま固定化され、後に自動化されたものもある。</ref>運転台窓の固定化や空気動ワイパーの取付、122・124を除く全車に外板更新によるノーシル化が行われている。


1986年の叡山電鉄発足時も同社の主力として使用されていたが、老朽化に加え、[[電動発電機]]非搭載で旅客サービス用電源がないことによるサービス水準の低下<ref>車内照明用の電源は走行用の電源に直結しており、定電圧化や直流蛍光灯等に改造されることもなかった。このため特に上り勾配や出町柳駅で隣の電車が発車した時に車内が暗くなる傾向が顕著であった。また、空調装置は冷房はもとより扇風機も設置されていなかった。</ref>、また同社に於ける単行運転のワンマン化のため、[[1987年]]に23・24が車体を載せ替えられ[[叡山電鉄デオ700系電車|デオ710形]]711・712へ改造された。
1986年の[[叡山電鉄]]発足時も同社の主力として使用されていたが、老朽化に加え、[[電動発電機]]非搭載で旅客サービス用電源がないことによるサービス水準の低下<ref>車内照明用の電源は走行用の電源に直結しており、定電圧化や直流蛍光灯等に改造されることもなかった。このため特に上り勾配や出町柳駅で隣の電車が発車した時に車内が暗くなる傾向が顕著であった。また、空調装置は冷房はもとより扇風機も設置されていなかった。</ref>、また同社に於ける単行運転のワンマン化のため、[[1987年]]に23・24が車体を載せ替えられ[[叡山電鉄デオ700系電車|デオ710形]]711・712へ改造された。


残った6両は、[[京阪鴨東線]]開業による輸送力増強や2両編成での運用の常態化、[[自動列車停止装置|ATS]]の取り付けのため貫通化側<ref name=kantsu />の運転台が撤去されたが、車掌スイッチと乗務員扉は残されて、駅によっては重宝されていた。[[叡山電鉄デオ800系電車#810形|デオ800系810番台]]の増備により[[1993年]]に122-126、1994年に125-124の順に廃車となり、同年11月に残っていた21-22がさよなら運転をして運用を離脱した後、翌[[1995年]]に廃車となり形式消滅した。
残った6両は、[[京阪鴨東線]]開業による輸送力増強や2両編成での運用の常態化、[[自動列車停止装置|ATS]]の取り付けのため貫通化側<ref name=kantsu />の運転台が撤去されたが、車掌スイッチと乗務員扉は残されて、駅によっては重宝されていた。[[叡山電鉄デオ800系電車#810形|デオ800系810番台]]の増備により[[1993年]]に122-126、1994年に125-124の順に廃車となり、同年11月に残っていた21-22がさよなら運転をして運用を離脱した後、翌[[1995年]]に廃車となり形式消滅した。
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2012年10月28日 (日) 13:45時点における版

ポール時代のデナ21
デナ21(1993年 市原駅付近)

京都電燈デナ21形電車(きょうとでんとうデナ21がたでんしゃ)は、京都電燈が同社叡山線用車両として1929年昭和4年)に新製した電車制御電動車)である。車両記号の「デナ」とは、「デ」が電動車を(ンドウシャ)、「ナ」が車体の大きさ(中型 = カガタ)をそれぞれ意味する。

デナ21形の落成前年となる1928年(昭和3年)には、京都電燈の傍系事業者である鞍馬電気鉄道が、同社路線の開業に際して、デナ21形と基本設計が同一である同形車両デナ121形電車を新製しており、両形式合わせて計10両が在籍した。

本項では、京都電燈デナ21形・鞍馬電気鉄道デナ121形の両形式について詳述する。

概要

日本車輌製の全長15m弱の両運転台で、前面は非貫通形3枚窓・側面は窓配置dD5D5D5d[1]の片開き3扉。窓の上隅に曲線がつけられているのとノーヘッダであることが特徴となっている。当初集電装置はダブルポールであったが1930年にシングルポールに改められている。また、車体の塗装は緑一色であり、尾灯は向かって左側に1個であった。車内照明はグローブ形の白熱灯が使用されている。

21 - 24

1929年に京都電燈が叡山線(現・叡山本線)用に増備した車両で、平坦な叡山線用であったため、前年に製造された鞍馬電気鉄道向けのものと異なり、発電ブレーキが省略され、モーターは出町柳側台車に2個、空気ブレーキはSMEであった。発電ブレーキ取付までは勾配区間[2]への臨時運用を意識してか、台車には砂箱が取付けられていた。

121 - 126

1928年の鞍馬電気鉄道(現在の鞍馬線宝ヶ池駅 - 市原駅開業時に121 - 124が、翌1929年の鞍馬駅延長時に125・126が新造された。勾配線区である鞍馬線用に発電ブレーキが装備されている。また空気ブレーキはGE製であった。121 - 124はモーターは2個だったが、125・126の新造の際に4個モーター化されている(なお、その時のモーターを流用して新造したのが上記の21 - 24である、と言われている)。

変遷

デナ21の車内(最終期)
鞍馬駅前に保存されたデナ21前頭部

1942年に京都電燈の保有する鉄道部門の京福電気鉄道への分社化と、京福電気鉄道による鞍馬電気鉄道の吸収合併により、京福の21 - 24と鞍馬電鉄引継ぎの121 - 126は同一形式にまとめられた。戦後の一時期において121 - 124が2個モーターにされるなどの変遷があったが、順次塗装の2色化、尾灯の2個化、車内照明の管形白熱灯化、制御機の交換(オリジナルはキー式)、モーターの4個化などが行われている。

121・123は1964年に鞍馬線で正面衝突事故により大破・焼失し、廃車となっている。

1965年には21 - 24も発電ブレーキが取り付けられ、122・124 - 126のブレーキがSMEに改められたことから、元の所属の差に関係なく共通で使用されるようになった。

1978年集電装置のパンタグラフ化[3]で全車両とも出町柳寄りにパンタグラフが取り付けられた。結果、窓からのポール操作を行うことがなくなったので(スライダーシュー化後は連結面は通常未使用)、編成を組む側の面のみ[4]貫通扉を取付け2両編成化を行った。同時に[5]運転台窓の固定化や空気動ワイパーの取付、122・124を除く全車に外板更新によるノーシル化が行われている。

1986年の叡山電鉄発足時も同社の主力として使用されていたが、老朽化に加え、電動発電機非搭載で旅客サービス用電源がないことによるサービス水準の低下[6]、また同社に於ける単行運転のワンマン化のため、1987年に23・24が車体を載せ替えられデオ710形711・712へ改造された。

残った6両は、京阪鴨東線開業による輸送力増強や2両編成での運用の常態化、ATSの取り付けのため貫通化側[4]の運転台が撤去されたが、車掌スイッチと乗務員扉は残されて、駅によっては重宝されていた。デオ800系810番台の増備により1993年に122-126、1994年に125-124の順に廃車となり、同年11月に残っていた21-22がさよなら運転をして運用を離脱した後、翌1995年に廃車となり形式消滅した。

現在は21の前頭部と車輪が鞍馬駅前に保存されている。

脚注

  1. ^ dは乗務員室扉、Dは客用扉、数字は扉の間の窓の数を表す。
  2. ^ 発電ブレーキ取付までは原則として二軒茶屋までの運転であったが、鞍馬まで入った例もある。
  3. ^ 2両編成化して鞍馬側車両の出町柳側をパンタグラフに取替え、切替え直前は2両で1箇所のポール、あるいは出町柳側であった車両のみを単独使用。切替え直後は2両で1箇所のパンタグラフ、あるいは鞍馬側であった車両のみを単独使用。後に出町柳側車両の出町柳側をパンタグラフに取替え、工事完了としている。
  4. ^ a b 21・23・125の八瀬遊園・鞍馬寄り、22・24・124・126の出町柳寄り。122はこれらの車両の検査時の予備として両側とも施工(後の片運転台化時は鞍馬寄り運転台を撤去)。
  5. ^ 一部はポール時代に施工されている。また運転台窓については手動ワイパーのまま固定化され、後に自動化されたものもある。
  6. ^ 車内照明用の電源は走行用の電源に直結しており、定電圧化や直流蛍光灯等に改造されることもなかった。このため特に上り勾配や出町柳駅で隣の電車が発車した時に車内が暗くなる傾向が顕著であった。また、空調装置は冷房はもとより扇風機も設置されていなかった。