コンテンツにスキップ

「松平定則」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目: 3行目:
9代藩主[[松平定国]]の次男。母は靖操院殿(藤田氏の娘)。正室は[[松平定信]]の娘。幼名は立丸。または辰丸。官位はなし。
9代藩主[[松平定国]]の次男。母は靖操院殿(藤田氏の娘)。正室は[[松平定信]]の娘。幼名は立丸。または辰丸。官位はなし。


寛政5年([[1793年]])7月27日生まれ。長兄・元之丞の夭折により、[[寛政]]6年([[1794年]])嫡男となる。文化元年([[1804年]])、父の死去により家督を継承。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌年([[1805年]])には、松山二番町横町に初めての[[藩校]][[興徳館]]を設立。[[杉山熊台]]を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年([[1808年]])には、菩提寺のひとつ[[松山市|松山]]法龍寺の寺格を高めた。同6年(1809年)7月3日、病床に伏し弟勝丸([[松平定通]])を養嗣とし、同5日江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年20(17歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田済海寺に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。
寛政5年([[1793年]])7月27日生まれ。長兄・元之丞の夭折により、[[寛政]]6年([[1794年]])嫡男となる。文化元年([[1804年]])、父の死去により家督を継承。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌年([[1805年]])には、松山二番町横町に初めての[[藩校]][[興徳館]]を設立。[[杉山熊台]]を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年([[1808年]])には、菩提寺のひとつ[[松山市|松山]]法龍寺の寺格を高めた。同6年(1809年)7月3日、病床に伏し弟勝丸([[松平定通]])を養嗣とし、同5日江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年20(17歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田[[済海寺]]に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。





2012年10月31日 (水) 15:26時点における版

松平 定則(まつだいら さだのり、1793年9月2日寛政5年7月27日) - 1809年8月15日文化6年7月5日))は江戸時代大名伊予松山藩10代藩主。定勝系久松松平家宗家11代。

9代藩主松平定国の次男。母は靖操院殿(藤田氏の娘)。正室は松平定信の娘。幼名は立丸。または辰丸。官位はなし。

寛政5年(1793年)7月27日生まれ。長兄・元之丞の夭折により、寛政6年(1794年)嫡男となる。文化元年(1804年)、父の死去により家督を継承。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌年(1805年)には、松山二番町横町に初めての藩校興徳館を設立。杉山熊台を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年(1808年)には、菩提寺のひとつ松山法龍寺の寺格を高めた。同6年(1809年)7月3日、病床に伏し弟勝丸(松平定通)を養嗣とし、同5日江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年20(17歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田済海寺に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。