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第五代藩主・[[前田綱紀]]の三男。母は綱紀の側室・町姫。祖父は加賀藩中興の祖・[[前田光高]]。祖母は水戸藩初代藩主[[徳川頼房]]の娘・[[清泰院]]([[徳川家光]]の養女・[[徳川光圀]]の姉)。[[前田利常]]と徳川頼房の曾孫にあたる。 |
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[[元禄]]15年([[1702年]])2月14日、松平氏(名字)を与えられ、松平犬千代と称する。<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』169~170頁。</ref>[[享保]]8年([[1723年]])5月、父綱紀が高齢で病のためもあって、[[家督]]を譲られて第六代藩主に就任する。このとき名を吉治から吉徳と改め、6月15日に加賀守を称し、8月18日に左近衛権少将に昇進した<ref>『前田綱紀』(人物叢書)200頁。</ref>。 |
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吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、[[足軽]]の[[大槻伝蔵]]([[男色]]相手の[[寵臣]])を重用して改革を行なった。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇([[徳川御三家|御三家]]に準ずる待遇)し、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかった |
吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、[[足軽]]の[[大槻伝蔵]](後の巷説では[[男色]]相手の[[寵臣]]ともいわれる)を重用して改革を行なった。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇([[徳川御三家|御三家]]に準ずる待遇)し、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったので、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。 |
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そこで伝蔵主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税をつくるなどの改革が行われた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功したと言ってもいいかもしれなかった。この功績によって伝蔵に対する吉徳の信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかし、これに対して、藩内における保守派や門閥層が、改革による質素倹約による制限や成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などで、不満が集まるようになってしまった。 |
そこで伝蔵主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税をつくるなどの改革が行われた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功したと言ってもいいかもしれなかった。この功績によって伝蔵に対する吉徳の信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかし、これに対して、藩内における保守派や門閥層が、改革による質素倹約による制限や成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などで、不満が集まるようになってしまった。 |
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延享2年(1745年)、56歳で死去し、跡を嫡男の[[前田宗辰|宗辰]]が継いだ。吉徳の死の翌年、伝蔵は[[前田直躬]]ら保守派によって失脚させられた。そして吉徳と伝蔵の改革が、皮肉にも後の[[加賀騒動]]の遠因となってしまったのである。 |
延享2年(1745年)、56歳で死去し、その跡を嫡男の[[前田宗辰|宗辰]]が継いだ。吉徳の死の翌年、伝蔵は[[前田直躬]]ら保守派によって失脚させられた。そして吉徳と伝蔵の改革が、皮肉にも後の[[加賀騒動]]の遠因となってしまったのである。 |
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* [[若林喜三郎]]『前田綱紀』([[吉川弘文館]]人物叢書、1986年新装版) |
* [[若林喜三郎]] 『前田綱紀』([[吉川弘文館]]人物叢書、1986年新装版) ISBN 4-642-05058-2 |
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{{前田氏歴代当主||1723年 - 1745年|第6代}} |
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2012年11月6日 (火) 01:07時点における版
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄3年8月8日(1690年9月10日) |
死没 | 延享2年6月12日(1745年7月11日) |
改名 | 勝丸、犬千代(幼名)→利挙(初名)→利興→吉治→吉徳 |
別名 | 又左衛門(通称) |
戒名 | 護國院殿佛鑑法性大居士 |
墓所 | 石川県金沢市野田町の野田山墓地 |
官位 | 正四位下、左近衛権少将、若狭守、加賀守、左近衛権中将 |
藩 | 加賀藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田綱紀、母:町姫 |
兄弟 | 吉徳、利章、三条西公福室、節(浅野吉長室)、豊(前田孝資室)、敬(池田吉泰室)、直(二条吉忠室) |
妻 | 正室:光現院(徳川綱吉の養女、徳川綱誠の娘) |
子 | 宗辰(長男)、重熙(次男)、利和(三男)、重靖(五男)、重教(七男)、利実(八男)、治脩(十男)、喜代(浅野宗恒正室)、聡(前田利幸正室)、楊(佐竹義真正室)、暢(酒井忠宜正室) |
家系
第五代藩主・前田綱紀の三男。母は綱紀の側室・町姫。祖父は加賀藩中興の祖・前田光高。祖母は水戸藩初代藩主徳川頼房の娘・清泰院(徳川家光の養女・徳川光圀の姉)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。
生涯
元禄15年(1702年)2月14日、松平氏(名字)を与えられ、松平犬千代と称する。[1]享保8年(1723年)5月、父綱紀が高齢で病のためもあって、家督を譲られて第六代藩主に就任する。このとき名を吉治から吉徳と改め、6月15日に加賀守を称し、8月18日に左近衛権少将に昇進した[2]。
吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、足軽の大槻伝蔵(後の巷説では男色相手の寵臣ともいわれる)を重用して改革を行なった。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇(御三家に準ずる待遇)し、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったので、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。
そこで伝蔵主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税をつくるなどの改革が行われた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功したと言ってもいいかもしれなかった。この功績によって伝蔵に対する吉徳の信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかし、これに対して、藩内における保守派や門閥層が、改革による質素倹約による制限や成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などで、不満が集まるようになってしまった。
延享2年(1745年)、56歳で死去し、その跡を嫡男の宗辰が継いだ。吉徳の死の翌年、伝蔵は前田直躬ら保守派によって失脚させられた。そして吉徳と伝蔵の改革が、皮肉にも後の加賀騒動の遠因となってしまったのである。
官歴
※日付=旧暦
- 1702年(元禄15)2月、藩世嗣となり、利興と名乗る。6月9日、元服し、将軍徳川綱吉の一字を賜り、吉治と名乗る。正四位下左近衛権少将兼若狭守に叙任。
- 1723年(享保8)5月6日、藩主となる。6月15日、加賀守に遷任する。左近衛権少将如元。8月18日、左近衛権中将に転任する。加賀守如元。
- 1740年(元文5)11月1日、参議に補任。11月16日、吉徳と改める。
家臣
元文6年(1741年)の武鑑掲載の主要家臣は以下の通り。
- 【八家】横山大和守・本多安房守・前田土佐守・前田対馬守・奥村助左衛門・奥村丹三郎・村井主膳・長新十郎
- 【その他年寄】前田大學・横山蔵人・玉井市正・本多頼母・西尾隼人・前田図書
- 【嫡子附役】前田将監・品川主殿・菊池十六郎・青木新兵衛
- 【城使】中村助右衛門・井上二太夫・古屋傳右衛門・後藤瀬兵衛・河村貞右衛門
- 【次男亀次郎(後の重煕)附】土肥庄太夫
参考文献
- 若林喜三郎 『前田綱紀』(吉川弘文館人物叢書、1986年新装版) ISBN 4-642-05058-2