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「上信電気鉄道デキ1形電気機関車」の版間の差分

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==デキがドイツから輸入されることになった経緯について==
==デキがドイツから輸入されることになった経緯について==


大正から昭和初期にかけての日本の各鉄道会社では、英米製の電気機関車や設備が主流だったが、上信電鉄ではドイツ製が多かった。[[第一次大戦]]の戦時賠償として、ドイツから日本へ優秀な鉄道機材、設備が譲渡されることになったが、群馬県出身の政治家[[桜井伊兵衛]]の運動により、上信電鉄はそれらの多くを譲り受けることができたからである。譲渡が円滑に進んだ裏には、デキを製造したシーメンス・シュッケルト社による日本市場開拓という目論見もあったこうした流れの中福島変電所の[[回転変流機]]など主要電気機器はドイツに発注され、デキもまた同様に輸入されることとなった。<ref>『上信電鉄百年史』</ref>
大正から昭和初期にかけての日本の各鉄道会社では、英米製の電気機関車や設備が主流だったが、上信電鉄ではドイツ製が多かった。[[第一次大戦]]の戦時賠償として、ドイツから日本へ優秀な鉄道機材、設備が譲渡されることになったが、群馬県出身の政治家[[桜井伊兵衛]]の運動により、上信電鉄はそれらの多くを譲り受けることができたからである。譲渡が円滑に進んだ裏には、当時滞独中であっ[[井上工業]]の[[井上房一郎]]による仲介と、シーメンス社による日本市場開拓という目論見もあったこうした流れの中福島変電所の回転変流機など主要電気機器はドイツに発注され、デキもまた同様に輸入されることとなった。<ref>『上信電鉄百年史』</ref>


== 主要諸元==
== 主要諸元==

2012年11月12日 (月) 06:30時点における版

デキ1とデキ3
(下仁田駅 2007年10月20日)

上信電鉄デキ1形電気機関車(じょうしんでんてつデキ1がたでんききかんしゃ)は、上信電鉄に在籍する電気機関車である。

概要

1924年大正13年)、当時の上信電気鉄道が改軌電化した際に、ドイツシーメンスシュケルト社から購入した。小型の凸型機で機械部分の製造者はM.A.N社。価格は当時で36,990円。

3両(デキ1・デキ2・デキ3)が導入され貨物列車牽引に長年使用されていた。貨物輸送全盛期には、石炭や薪炭、木材、繭、こんにゃく等々の輸送に用いられていた。昼時に運行することが多く、沿線住民からは「オメシレッシャ」と呼ばれて親しまれていたという。

鉄道ファンの間では上州のシーラカンスの異名をとる。1986年昭和61年)にはエバーグリーン賞鉄道友の会)を受賞している。

1994年平成6年)9月23日の貨物輸送廃止に伴いデキ2が廃車され、群馬県富岡市もみじ平公園に保存されている。

貨物輸送廃止後もデキ1とデキ3は車籍を有するが、定期運用はなく、工事列車臨時のイベント列車などに使用されることがある。

砂箱の撤去と前照灯位置の変更、パンタグラフの交換、およびATS関連装備の搭載がなされているが、外観に関しては大正年間の輸入当時と比べても大きな改変は無いといってよい。

2007年(平成19年)3月12日、下仁田 - 南蛇井間で線路沈下が原因と見られる脱線事故が発生し、その際に受けた損傷が原因でながらく補修待ちとなっていたが、2011年度の群馬デスティネーションキャンペーンに向けた修復が2010年末から行われ、2011年4月に完了した。

デキがドイツから輸入されることになった経緯について

大正から昭和初期にかけての日本の各鉄道会社では、英米製の電気機関車や設備が主流だったが、上信電鉄ではドイツ製が多かった。第一次大戦の戦時賠償として、ドイツから日本へ優秀な鉄道機材、設備が譲渡されることになったが、群馬県出身の政治家桜井伊兵衛の運動により、上信電鉄はそれらの多くを譲り受けることができたからである。譲渡が円滑に進んだ裏には、当時滞独中であった井上工業井上房一郎による仲介と、シーメンス社による日本市場開拓という目論見もあった。こうした流れの中、福島変電所の回転変流機など主要電気機器はドイツに発注され、デキもまた同様に輸入されることとなった。[1]

主要諸元

イベント時に公開されたデキ3の運転台。
(2009年11月8日)

脚注

  1. ^ 『上信電鉄百年史』

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