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「造幣局 (日本)」の版間の差分

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== 硬貨製造量 ==
== 硬貨製造量 ==
2010現在、造幣局では6種類の硬貨を製造している([[一円硬貨|1円]]、[[五円硬貨|5円]]、[[十円硬貨|10円]]、[[五十円硬貨|50円]]、[[百円硬貨|100円]]、[[五百円硬貨|500円]])。硬貨の製造量は、新硬貨の発行や経済状況等に応じて年ごとに変化する。戦後最も製造量が多かったのは[[1989年]](昭和64年+平成元年)で、計51億5316万6千枚の硬貨が製造された<ref name="Maisuu">[http://www.mint.go.jp/data/pdf/nenmeibetsu_21.pdf 年銘別 貨幣製造枚数 平成21年銘](PDFファイル) 上位URL=[http://www.mint.go.jp/data/index.html 貨幣に関するデータ] 独立行政法人造幣局 2010-05-09 閲覧</ref>。2009年次の製造量は計8億5301万8千枚で、内訳は以下の通りである。
2012時点で、造幣局では6種類の日本硬貨を製造している([[一円硬貨|1円]]、[[五円硬貨|5円]]、[[十円硬貨|10円]]、[[五十円硬貨|50円]]、[[百円硬貨|100円]]、[[五百円硬貨|500円]])。硬貨の製造量は、新硬貨の発行や経済状況等に応じて年ごとに変化する。戦後最も製造量が多かったのは[[1989年]](昭和64年+平成元年)で、計51億5316万6千枚の硬貨が製造された<ref name="Maisuu">[http://www.mint.go.jp/data/pdf/nenmeibetsu_21.pdf 年銘別 貨幣製造枚数 平成21年銘](PDFファイル) 上位URL=[http://www.mint.go.jp/data/index.html 貨幣に関するデータ] 独立行政法人造幣局 2010-05-09 閲覧</ref>。2009年次の製造量は計8億5301万8千枚で、内訳は以下の通りである。
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|+ 造幣局 貨幣製造枚数(2009年)<ref name="Maisuu"/>
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また、造幣局では外国の通貨・記念硬貨やメダルの製造を請け負うこともある。これまでに[[スリランカ]]や[[ニュージーランド]]の記念硬貨を製造している<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1300D_T11C12A1EB1000/ 財務省・造幣局、バングラデシュ貨幣の製造受注] - [[日本経済新聞]]</ref>また2012年にはバングラデシュの2[[タカ (通貨)|タカ]]硬貨の製造を受注しており、外国の一般流通貨幣を製造するのは戦後初となる<ref>[http://www.mint.go.jp/topics/new/page166.html バングラデシュ中央銀行から2タカ貨幣の製造を受注しました(2012年11月13日)]-造幣局プレスリリース</ref>。


== 桜の通り抜け ==
== 桜の通り抜け ==

2012年11月13日 (火) 03:28時点における版

造幣局
造幣局本局(大阪府大阪市)
造幣局本局(大阪府大阪市
2010年時点で造幣局が製造している6種類の硬貨
2010年時点で造幣局が製造している6種類の硬貨
正式名称 造幣局
英語名称 Japan Mint
組織形態 独立行政法人
本局所在地 日本の旗 日本
530-0043
大阪府大阪市北区天満1-1-79
北緯34度41分48.6秒 東経135度31分16.3秒 / 北緯34.696833度 東経135.521194度 / 34.696833; 135.521194座標: 北緯34度41分48.6秒 東経135度31分16.3秒 / 北緯34.696833度 東経135.521194度 / 34.696833; 135.521194
法人番号 6120005008509 ウィキデータを編集
予算 255億円(2008年度)[1]
*業務収入 250億円
*その他収入 5億円
人数 職員数 1,037人[2]
理事長 新原芳明(2008年7月~)
活動内容 硬貨の製造、勲章の製造など
設立年月日 1871年4月4日
所管 財務省
関連組織 日本銀行
国立印刷局
拠点 大阪本局(造幣博物館
東京支局
広島支局
ウェブサイト http://www.mint.go.jp/
テンプレートを表示
OAPタワーから南望

独立行政法人造幣局(ぞうへいきょく)は、硬貨の製造、勲章褒章及び金属工芸品等の製造、地金鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業を行う日本の機関。

概要

本局は大阪市北区天満にあり、構内に造幣博物館がある。また、支局が東京(東京都豊島区)と広島(広島市佐伯区)の2か所にある。

創設された1871年から工場内および近隣周辺にガス灯を点灯している。これは貨幣を鋳造するために発生させたガスの余剰分を利用したものであり、特に屋外に設置されたものは日本で初めてのガス灯による街灯でもあったため、その明るさに見物人が押し寄せた。

この造幣局では、東京オリンピック長野オリンピックの金・銀・銅の各メダル、名古屋城金鯱なども製作された。地元以外では、大阪造幣局と呼ばれることもある。

沿革

1868年5月16日慶応4年4月24日)、明治新政府は旧金座および銀座を接収し、同年6月11日(慶応4年4月21日)に貨幣司を設けて二分判および一分銀などの鋳造を引き継いだ。翌1869年3月17日明治2年2月5日)貨幣司が廃止され、太政官に造幣局が設けられた。同年8月15日(明治2年7月8日)、造幣局は造幣寮と改称され、大蔵省の所属となった。

参与会計事務官・三岡八郎、外国事務局判事・五代才助らは1868年(慶応4年)に、同年に廃止されたイギリス帝国香港造幣局の造幣機械を6万で購入する契約を結んだ。同年11月1日(明治元年9月17日)に英国建築技師のウォートルスを雇用し、局舎の設計および機器の購入などを担当させた。1870年3月3日(明治3年2月2日)には旧香港造幣局長のキンドルが造幣寮の首長に任命された[3][4]

大阪所在の本局は1871年1月17日(明治3年11月27日)に銀貨の製造を開始し、1871年4月4日(明治4年2月15日)に大蔵省造幣寮として創業式を挙行した。同年6月27日(明治4年5月10日)には新貨条例および造幣規則が布告され、近代的貨幣制度がスタートした。

1875年(明治8年)1月31日限りでキンドルらお雇い外国人10人を解雇し、寮務全般に亘り改革が実行された。試験分析局のディロンおよび、冶金室のガウランドは造幣頭の顧問役を兼任した。

1877年(明治10年)1月11日造幣局に改称した。

1879年(明治12年)9月16日、大蔵省内に東京出張所を開設し、貨幣製造のための地金の受け入れ業務を開始した。東京支局は1907年(明治40年)5月17日に一旦廃止された。1929年昭和4年)7月1日東京府東京市麹町区内幸町に再び東京出張所が開設され、1939年(昭和14年)11月20日には東京府豊島区西巣鴨に移転した。1943年(昭和18年)9月1日には造幣局東京支局に改称した。1945年(昭和20年)4月13日空襲により全焼し東京支局は事業を停止した。同年6月7日には大阪の本局も空襲の被害を受け工場の一部を焼失した。

1945年(昭和20年)2月1日広島県佐伯郡五日市町に造幣局広島支局が開設された。同年8月6日には原爆により被災したが、翌1946年(昭和21年)1月15日に貨幣製造を再開した。また同月に東京支局も貨幣製造を再開している。

1949年(昭和24年)6月1日から1952年(昭和27年)7月31日まで造幣庁(長は長官)と称したのち再び造幣局に改称、2003年(平成15年)4月1日独立行政法人化された。

拠点

節内の全座標を示した地図 - OSM
節内の全座標を出力 - KML

硬貨製造量

2012年時点で、造幣局では6種類の日本硬貨を製造している(1円5円10円50円100円500円)。硬貨の製造量は、新硬貨の発行や経済状況等に応じて年ごとに変化する。戦後最も製造量が多かったのは1989年(昭和64年+平成元年)で、計51億5316万6千枚の硬貨が製造された[5]。2009年次の製造量は計8億5301万8千枚で、内訳は以下の通りである。

造幣局 貨幣製造枚数(2009年)[5]
種別 年間製造枚数 貨幣価値換算
001 一円硬貨 0480030004800 3 千枚 0000480030004800 3 千円分
005 五円硬貨 004003000400 3 千枚 0000200150002001 5 千円分
010 十円硬貨 3380030003 3800 3 千枚 00338003000033 8003 0 千円分
050 五十円硬貨 005003000500 3 千枚 0002501500002 5015 0 千円分
100 百円硬貨 1150030001 1500 3 千枚 011503000000115 0300 0 千円分
500 五百円硬貨 3430030003 4300 3 千枚 1715015000001715 0150 0 千円分
合計 8 5301 8 千枚 1867 0269 8 千円分

また、造幣局では外国の通貨・記念硬貨やメダルの製造を請け負うこともある。これまでにスリランカニュージーランドの記念硬貨を製造している[6]また2012年にはバングラデシュの2タカ硬貨の製造を受注しており、外国の一般流通貨幣を製造するのは戦後初となる[7]

桜の通り抜け

造幣局本局の桜(2006年4月の通り抜け期間中に撮影)

大阪市北区の大川(旧淀川)沿いにある本局には、約120品種、約400本のが植えられている。本局のあった土地はもともと藤堂家の大坂屋敷があり、同家の植栽していたサクラの樹木が造幣局にも引き継がれた。造幣局長であった遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と1883年(明治16年)から一般にも開花したサクラを公開することになったのが始まり。大阪大空襲で桜の多くが焼失したが職員によって蒐集され多品種の桜並木が復元された。いまでは大阪の春の伝統行事として、毎年4月中旬から下旬にかけての開花時期には一般開放され、多くの人で賑わう。この観桜のための一般公開は、南側のゲート(川崎橋)から入場して北側のゲート(銀橋)から抜ける一方通行となるため、「通り抜け」と呼ばれている。この通り抜けは夜まで行われるため、日没後の夜桜も鑑賞できる。現在ではサクラの品種といえば「ソメイヨシノ」しか知られなくなったため、毎年「今年の桜」として一品種を選定して紹介している。日本さくら名所100選に選定されている。なお、この桜の通り抜けが中止されたのは太平洋戦争で空襲が激化した1943年から1946年にかけての4年間のみであり、それ以外は毎年続けられてきた。2011年東日本大震災の際も、内外の反対の声を抑え、規模を縮小しながらも、開催が断行された。この際には募金箱が会場に設置され、7日間の開催期間中に集まった募金総額は1000万円以上に上った。

  • 2009年の大阪桜の通り抜けは、4月15日(水)から4月21日(火)に開催された。2009年度の“今年の桜”は『平野撫子』(ひらのなでしこ)であった。
  • 2010年の大阪桜の通り抜けは、4月14日(水)から4月20日(火)に開催された。2010年度の“今年の桜”は『都錦』(みやこにしき)

また、広島支局でも、毎年開花時期に「花のまわりみち」として一般開放されている。広島支局の桜は1967年に大阪から移植されたものであり、1991年より一般公開を始めた。

造幣せんべい

造幣局内の売店で販売されるおみやげ品の一つに「造幣せんべい」がある。これは神戸の亀井堂総本店(「瓦せんべい」の老舗として知られる)が製造しているもので、せんべいの両面に1円 - 500円の硬貨の図案が焼かれている。造幣局の他に、財務省内の売店等でも販売されている。

以前は、桜の通り抜け期間中に通り抜け順路沿いに設置された特設売店でも購入することができたが、現在では販売を行っていない。代りに、京阪シティモール地下入口前で販売するようになっている。

なお、東京支局が豊島区に所在する縁から、2004年には豊島区選定の名品・名産品にも選ばれたことがある。

在籍人物

脚注

  1. ^ 平成20年度 決算報告書(PDFファイル) 上位URL=平成20年度 財務諸表等 独立行政法人造幣局 2010-05-09 閲覧
  2. ^ 常勤職員数(任期付き職員数含む)2009年1月1日時点 独立行政法人評価年報(平成20年度版)第1部第3節 役職員の状況(PDFファイル)(総務省)上位URL=政策評価・独立行政法人評価委員会 独立行政法人評価年報(平成20年度版)平成21年12月9日 2010-05-03 閲覧
  3. ^ 『造幣局六十年史』 大蔵省造幣局、1931年
  4. ^ 『造幣局百年史(資料編)』 大蔵省造幣局、1974年
  5. ^ a b 年銘別 貨幣製造枚数 平成21年銘(PDFファイル) 上位URL=貨幣に関するデータ 独立行政法人造幣局 2010-05-09 閲覧
  6. ^ 財務省・造幣局、バングラデシュ貨幣の製造受注 - 日本経済新聞
  7. ^ バングラデシュ中央銀行から2タカ貨幣の製造を受注しました(2012年11月13日)-造幣局プレスリリース

関連項目

外部リンク