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2012年12月2日 (日) 00:15時点における版
|選手名 = 菅野 智之 |所属球団 = 東海大学硬式野球部 |役職 = |背番号 = |選手写真ファイル名 = |写真サイズ = |写真のコメント = |国籍 = 日本 |出身地 = 神奈川県相模原市 |生年月日 = 1989年10月11日(34歳) |没年月日 = |身長 = 185 |体重 = 88 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = 投手 |プロ入り年度 = |ドラフト順位 = |初出場 = |最終出場 = |年俸 = |経歴 =
}} 菅野 智之(すがの ともゆき、1989年10月11日 - )は、神奈川県相模原市出身の東海大学野球部に所属する野球選手(投手)。2013年から読売ジャイアンツに所属する。
母方の祖父は、元東海大相模高校野球部監督の原貢。伯父(母親の兄)は現読売ジャイアンツ監督の原辰徳。
経歴
プロ入り前
小学校に上がる直前の1995年10月8日に伯父・原辰徳の引退試合を観戦したことがきっかけで本格的に野球を始める[注釈 1]。軟式の少年野球クラブに所属し、当時から投手を務めた。中学時代は3年夏に県大会優勝。関東大会でもベスト8に進出した。
東海大学付属相模高等学校進学後は2年秋から主戦として活躍。最速148km/hを記録するなどプロからも注目を集めたが、甲子園出場はなかった。3年夏の神奈川大会準決勝の横浜高等学校戦では打者として振り逃げ3ランを記録した。
東海大学へ進学後は1年秋から主戦を任され、2年春から4季連続で首都大学リーグの優秀投手を受賞。2年時には第37回日米大学野球選手権大会日本代表と第25回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、U-26 NPB選抜 対 大学日本代表にも出場。3年春の全日本大学野球選手権大会では準々決勝の同志社大学戦で7回参考記録ながらノーヒットノーランを達成し、準決勝の慶應大学戦では最速155km/hを記録し4安打17奪三振の好投で完封勝利を挙げたが、決勝で敗退。夏の第5回世界大学野球選手権大会では予選リーグのキューバ戦のアルフレド・デスパイネに対しての打席で自己最速となる157km/hを記録。4年秋にはリーグ新記録の通算14完封を記録しチームのリーグ優勝に貢献。最高殊勲選手と最優秀投手、ベストナイン、特別功労賞を受賞した。首都大学リーグでの通算成績は37勝4敗、防御率0.57、347奪三振。
ドラフト会議を巡る経緯
2011年のドラフト会議の前には野村祐輔(明大)、藤岡貴裕(東洋大)とともに「大学ビッグ3」と呼ばれ注目される[2]。伯父の原辰徳が監督を務める読売ジャイアンツの単独指名が濃厚と噂されていた[3]が、北海道日本ハムファイターズも1位指名し、抽選の結果日本ハムが交渉権を獲得した。ドラフト後には祖父の原貢が日本ハムの事前挨拶なしでの指名を「人権蹂躙」などと非難する発言をし、注目を集めた[4]。
11月7日には日本ハムの指名挨拶に同席し、進路については「目先のことだけではなく、その先の野球人生を考えた上で判断したい」とコメントした[5]が、21日には日本ハム入団を拒否する意向を表明[6]。社会人野球や国内独立リーグ、海外のプロリーグ等に進んだ場合は2年間指名されることができないため[7]浪人して翌年以降のドラフト指名を待ち、浪人中は東海大学の練習施設を使用して自主練習をすることになった[6]。入団拒否の理由としては「日本ハムさんからいろいろなお話を聞いて光栄に思いました。しかし、それ以上に、自分が小さいころからの夢、そういうものがそれ以上に強かったということです」と述べ[8]、決め手になったという『小さいころからの夢』については「(言葉にするのは)難しいところですが、どうですかね…。分かってください」と語った[9]。
元々日本ハムにとって菅野の入団拒否の表明は想定内であり、「この程度で諦めるなら最初から指名しなかった。交渉期限のギリギリまで説得を続けたい」と表明していた[10]ものの、結局交渉期限最終日の2012年3月31日に日本ハムは菅野の獲得断念を発表[11]。ドラフトのルール上、入団拒否をした選手を同一球団が再び指名するためには当該選手の同意が必要だとされているが、日本の野球規約では「進学その他の事由により、その選手が再び就学した場合は当該選手の再指名は可能」だとされており、東海大に籍を置き続ける菅野は「大学を卒業しての浪人」には相当せず、本人の許可を得ずとも再指名が可能であると日本ハム側は主張しており、2012年度のドラフトで菅野を再指名する可能性があることを公言していた[12]。
しかし10月に方向転換し、日本ハムGMの山田正雄が「うちとしては(1位は)その年の一番力がある選手。1年間のブランクがあることを考えたら(菅野が)一番力のある投手じゃないと思います」との理由で指名を回避するとコメントした[13]。同時にこの年のドラフトで意中の球団以外が交渉権を獲得した場合について、東海大監督の横井人輝が「アメリカに行くであろうと思う。野球留学も含めて、本人もいろいろ興味があるみたい]と発言し[14]、本人も「また去年と同じことが起こるのだとしたら……。何というんですかね……日本で野球をやりたくないかもしれませんね」と発言したこともあり[15]、横浜DeNAベイスターズGMの高田繁や監督の中畑清、東北楽天ゴールデンイーグルス監督の星野仙一から批判された[16][17]。
浪人中は大学野球の規定により対外試合に出場できなかったため、東海大学野球部を練習拠点とし、投げ込みやチームメイト相手の紅白戦やシート打撃に登板して実戦感覚から遠ざかることを防いだ。ただし、紅白戦やシート打撃での登板は実戦における緊張感や重圧という点とは遠いため、ブランクが懸念された[18]。また、大学野球だけでなく、高校野球や日本プロ野球やメジャーリーグなどを積極的に観戦をし、野球選手としてプラスになったと語っている。
そして10月25日に開催されたドラフト会議では、当初はDeNAや楽天も指名の可能性を公言していたものの、前述の米国行きを示唆した影響もあったのか巨人の単独1位指名となり、かねてより熱望していた巨人との交渉権を獲得した。ドラフト会議後には伯父であり巨人の監督である原辰徳が東海大を訪れ、背番号『19』とネームの入った巨人のユニフォームに袖を通した[19]。
同年11月21日に仮契約を締結[20]。同月23日に開催されたファン感謝デーで入団発表された[21]。
選手としての特徴
スリークォーターから最速157km/hのクセのある速球(フォーシーム、ツーシーム、ワンシーム[15])と切れ味鋭いカットボールを武器にし、他にも縦横2種類のスライダーや球速の違う2種類のカーブ、フォーク、シュートを投げ分ける[22]。シュートは雑誌で涌井秀章(西武)の握りを見て、すぐに使えるようになったという[1][23][24]。東海大監督の横井人輝は菅野の多彩な球種について「指先の感覚が今まで見てきたどの投手よりも優れている」と評している[1]。
大学3年次には春季・秋季ともに与四球率0台を記録するなど制球力が高く、自ら「試合でボールがコントロールできずに困ったことはほとんどない」と語るなど制球に自信を持っている[1]。2012年の浪人中にはメジャーリーグのテレビ中継に没頭し、グレッグ・マダックスの『27球で27個のアウトを取るのが理想』という考えが理想になったという[15]。また、ロイ・ハラデイの投球を見て「ピッチングはやっぱりコントロール」と再認識したといい、浪人中はボール1個分の出し入れができる精度の高い制球力をずっと練習してきたという[15][25]。
人物
『原貢の孫、原辰徳の甥』という立場については「いやなことのほうが多かった」と言い、「そこは自分の中のモチベーションでもある。『菅野智之』として認められることを、ずっと目標にしています」と語っている[1][24][26]。高校3年時には周囲からプロ入りも勧められていたが「原監督の甥だからプロに行けたと思われるのがイヤだったんです。大学で文句なしの実力をつけてプロに行きたい」として進学を選んだという[1][26]。伯父のもとでプレーすることについては、2011年のドラフト会議後に「小さい頃には一緒にできたらいいなというくらいしか思ってなかったのが、大学にいってある程度実績を残せるようになって、それが夢ではなく現実となるように自分の中で思い描いていたのはある」と語った[27]。
趣味はゴルフで、大学4年時にはベストスコア100を記録した[28]。
詳細情報
背番号
- 19 (2013年 - )
脚注
注釈
- ^ ただし本人は後のインタビューで「(当時は)幼稚園児だったので具体的には覚えていない。それがきっかけというのは少し“作り”が入っているかもしれない。しかし、引退式を見たことは覚えている。ああいう人になりたいなと思った」と語っている[1]。
出典
- ^ a b c d e f 鷲田康「原家三代」『Sports Graphic Number』第790号、文藝春秋、78-83頁、雑誌26852-11/10。
- ^ “G菅野、野村超え宣言!10勝&防御率1点台”. SANSPO.COM (産経新聞社): p. 2. (2012年11月22日) 2012年11月22日閲覧。
- ^ 「2011ドラフト総決算」『週刊ベースボール』2011年11月14日号、ベースボール・マガジン社、6-7頁、雑誌20442-11/14。
- ^ “祖父・原貢氏軟化 決断は菅野次第「最後は自分で」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2011年10月30日) 2011年11月10日閲覧。
- ^ “菅野、初交渉で軟化 ダルと「一緒にやってみたい」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2011年11月8日) 2011年11月17日閲覧。
- ^ a b “日ハム入団拒否宣言…東海大の菅野”. 読売新聞. (2011年11月21日) 2011年11月21日閲覧。
- ^ “菅野浪人決断ハム拒否 巨人愛貫き通す”. nikkansports.com (日刊スポーツ). (2011年11月4日) 2011年11月24日閲覧。
- ^ “「ある意味自由が効く1年」菅野一問一答”. nikkansports.com (日刊スポーツ). (2011年11月21日) 2011年11月21日閲覧。
- ^ “【菅野トーク】自分にとって一番いい選択かと”. 産経新聞. (2011年11月21日) 2011年11月21日閲覧。
- ^ 中日新聞2011年11月22日号より
- ^ “日ハム、菅野の獲得断念 交渉期間の最終日に発表”. 日本経済新聞. (2012年3月31日) 2012年3月31日閲覧。
- ^ 中日新聞2012年4月1日号より
- ^ “菅野はその年の1番じゃない”. nikkansports.com (日刊スポーツ). (2012年10月16日) 2012年10月18日閲覧。
- ^ “菅野 今年もダメならアメリカ”. nikkansports.com (日刊スポーツ). (2012年10月16日) 2012年10月18日閲覧。
- ^ a b c d 鷲田康「待ち焦がれた始まりの地へ」『Sports Graphic Number』第814号、文藝春秋、82-85頁、雑誌26854-10/25。
- ^ “菅野サイドに猛反発 高田GM「脅しをかけるようなことは…」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年10月17日) 2012年10月18日閲覧。
- ^ “仙さん、菅野サイドの“警告”に怒った”. DAAILY SPORTS ONLINE (デイリースポーツ). (2012年10月18日) 2012年10月18日閲覧。
- ^ “【巨人1位】菅野智之 心配なのはブランク 相思相愛巨人で実力発揮は…”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年10月25日) 2012年10月26日閲覧。
- ^ 菅野、早くも巨人ユニに袖通す!背番号「19」SANSPO.COM、2012年10月25日
- ^ プロ野球:菅野智之投手が巨人と仮契約 - 毎日新聞 2012年11月21日
- ^ 菅野、巨人デビュー!東京ドームでお披露目 - サンケイスポーツ 2012年11月23日
- ^ 『アマチュア野球 vol.30』日刊スポーツ出版社、2010年、8-11頁頁。ISBN 978-4-8172-5509-9。
- ^ “東海大菅野リーグ新14完封”. nikkansports.com (日刊スポーツ). (2011年10月2日) 2011年10月28日閲覧。
- ^ a b c 「ドラマを紡ぐ5人の主役」『週刊ベースボール』2011年10月31日号、ベースボール・マガジン社、8-11頁、雑誌20445-10/31。
- ^ 『アマチュア野球 vol.33』日刊スポーツ出版社、2012年、66-67頁頁。ISBN 978-4-8172-5526-6。
- ^ a b 「菅野智之」として認められるための闘い『野球小僧』2011年10月号、白夜書房、雑誌18801-10、58-65頁。
- ^ “菅野 伯父・原監督とのプレー「思い描いていた」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2011年10月28日) 2011年10月28日閲覧。
- ^ 『アマチュア野球 vol.31』日刊スポーツ出版社、2011年、8-10頁。ISBN 978-4-8172-5513-6。