「矢作公一」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
ホットコーラカルピス (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
→来歴・人物: 打撃にのみ「かなり」期待がかかった。の「かなり」を削除しました。 |
||
30行目: | 30行目: | ||
医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。[[立教新座中学校・高等学校|立教高校]](現・立教新座高校)から、[[立教大学]]へ進学。立教大では、[[長嶋一茂]]とクリーンナップを組んだこともあった。[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]リーグ通算83試合出場、245打数71安打、打率.290、17本塁打(歴代7位タイ)、38打点。ベストナイン2回。 |
医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。[[立教新座中学校・高等学校|立教高校]](現・立教新座高校)から、[[立教大学]]へ進学。立教大では、[[長嶋一茂]]とクリーンナップを組んだこともあった。[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]リーグ通算83試合出場、245打数71安打、打率.290、17本塁打(歴代7位タイ)、38打点。ベストナイン2回。 |
||
立教大から[[1988年]]ドラフト6位で日本ハムファイターズから指名され、[[1989年]]入団。守備、走塁にかなり難が有り、打撃のみに |
立教大から[[1988年]]ドラフト6位で日本ハムファイターズから指名され、[[1989年]]入団。守備、走塁にかなり難が有り、打撃のみに期待がかかった。 |
||
[[1992年]]現役引退後はスポーツライターの傍ら、[[埼玉県]][[川口市]]にお好み焼き屋「ピンチヒッター」を開いた。スポーツライターとして、[[1990年代]]に[[週刊ベースボール]]で[[イースタン・リーグ]]のリポート記事を担当していた。 |
[[1992年]]現役引退後はスポーツライターの傍ら、[[埼玉県]][[川口市]]にお好み焼き屋「ピンチヒッター」を開いた。スポーツライターとして、[[1990年代]]に[[週刊ベースボール]]で[[イースタン・リーグ]]のリポート記事を担当していた。 |
2012年12月5日 (水) 08:24時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県浦和市(現:さいたま市) |
生年月日 | 1966年12月29日(57歳) |
身長 体重 |
175 cm 105 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト6位 |
初出場 | 1989年7月29日 |
最終出場 | 1991年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手、スポーツライター。現役時代の登録名は矢作 公一(読み同じ)。
来歴・人物
医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。立教高校(現・立教新座高校)から、立教大学へ進学。立教大では、長嶋一茂とクリーンナップを組んだこともあった。東京六大学リーグ通算83試合出場、245打数71安打、打率.290、17本塁打(歴代7位タイ)、38打点。ベストナイン2回。
立教大から1988年ドラフト6位で日本ハムファイターズから指名され、1989年入団。守備、走塁にかなり難が有り、打撃のみに期待がかかった。
1992年現役引退後はスポーツライターの傍ら、埼玉県川口市にお好み焼き屋「ピンチヒッター」を開いた。スポーツライターとして、1990年代に週刊ベースボールでイースタン・リーグのリポート記事を担当していた。
2005年に「ピンチヒッター」を閉店。2011年現在は父の会社で取締役を務めつつ、少年野球クラブチームのコーチや自ら設立した「Y.S.B野球塾」を通じて子供への指導を行っている。
炎のチャレンジャーの「回転寿司30皿制限時間内に食べたら100万円」に一般参加者として挑戦したものの達成ならなかった(100万円の使い道は「日本ハムの優勝旅行についていく」だった。)。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 日本ハム | 10 | 10 | 9 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | .222 | .300 | .222 | .522 |
1990 | 14 | 19 | 19 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | .158 | .158 | .158 | .316 | |
1991 | 9 | 9 | 8 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | .125 | .222 | .125 | .347 | |
通算:3年 | 33 | 38 | 36 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 16 | 0 | .167 | .211 | .167 | .377 |
記録
- 初出場:1989年7月29日、対近鉄バファローズ16回戦(藤井寺球場)、8回表に田中幸雄の代打で出場
- 初打席・初安打:同上、8回表に佐々木修から
- 初打点:1989年8月10日、対オリックス・ブレーブス19回戦(西宮球場)、8回表に二村忠美の代打で出場、山内嘉弘から
- 初先発出場:1990年7月3日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(東京ドーム)、6番・指名打者として先発出場
背番号
- 33 (1989年 - 1992年)