コンテンツにスキップ

「コストシン・ナド・オドロン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
新しいページ: '{{Infobox settlement | name = コストシン・ナド・オドロン | nickname = | image_skyline = Kostrzyn nad Odrą 8.jpg | imagesize = 250px | image_capti...'
タグ: 参考文献(出典)に関する節がない記事の作成
 
48行目: 48行目:


== 歴史 ==
== 歴史 ==
おおよそ960年から1200年まで、代々のポーランド公は城を築いて領地治めていた。
おおよそ960年から1200年まで、代々のポーランド公は城を築いて領地として治めていた。
ポーランド公[[ミェシュコ1世]]は{{仮リンク|ツェディニャ|en|Cedynia}}への遠征({{仮リンク|ツェディニャの戦い|en|Battle of Cedynia}} )の際に拠点として、この地の戦略的重要性を活用した。[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)]]もこの地で[[バウツェン]]を征服する戦争の準備をした。
ポーランド公[[ミェシュコ1世]]は{{仮リンク|ツェディニャ|en|Cedynia}}への遠征({{仮リンク|ツェディニャの戦い|en|Battle of Cedynia}} )の際に拠点として、この地の戦略的重要性を活用した。[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)]]もこの地で[[バウツェン]]を征服する戦争の準備をした。


[[1232年]]の[[ドイツ騎士団]]へのポーランド語の手紙に古い[[スラヴ語派|スラヴ語]]で ''Cozsterine'' と明記され、これが キュストリン/コストシン という名が記録に残されている最古のものである。
[[1232年]]の[[ドイツ騎士団]]へのポーランド語の手紙に古い[[スラヴ語派|スラヴ語]]で ''Cozsterine'' と明記され、これが キュストリン/コストシン という名が記録に残されている最古のものである。
12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。
12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。
[[1223年]]に[[ヴワディスワフ・オドニツ]]王子からドイツ[[テンプル騎士団]]へ与えられたが、[[1261年]]に[[ブランデンブルク辺境伯]]に征服された。
[[1223年]]に[[ヴワディスワフ・オドニツ]]王子からドイツ[[テンプル騎士団]]へ与えられたが、[[1261年]]に[[ブランデンブルク辺境伯]]に奪わてしまった。
1300年までにブランデンブルクの{{仮リンク|アルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯)|en|Albert III, Margrave of Brandenburg-Salzwedel}}が、[[マクデブルク法]]を適用して河川を使った貿易が大規模に行われるようになり町は急速に発展した。
1300年までにブランデンブルクの{{仮リンク|アルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯)|en|Albert III, Margrave of Brandenburg-Salzwedel}}が、[[マクデブルク法]]を適用して河川を使った貿易が大規模に行われるようになり町は急速に発展した。


[[ヨハン (ブランデンブルク=キュストリン辺境伯)]]は城を築いて、[[1535年]]から[[1571年]]まで{{仮リンク|東ブランデンブルク|en|Neumark}}地方の都として居城とした。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。
[[ヨハン (ブランデンブルク=キュストリン辺境伯)]]は城を築いて居城にし、[[1535年]]から[[1571年]]まで{{仮リンク|東ブランデンブルク|en|Neumark}}地方の都とした。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。


後に即位し[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世(フリードリッヒ大王)]]となるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近である[[ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ]]と、[[プロイセン王国]]からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、彼の父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)]]によって[[1730年]]9月にこの城塞内の塔に監禁される。
後に即位し[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世(フリードリッヒ大王)]]となるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近である[[ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ]]と、[[プロイセン王国]]からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、彼の父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)]]によって[[1730年]]9月にこの城塞内の塔に監禁される。
68行目: 68行目:


[[第二次世界大戦]]勃発時、住民数は24,000名だった。
[[第二次世界大戦]]勃発時、住民数は24,000名だった。
郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区の1つである{{仮リンク|ドジェビツェ|en|Drzewice}})には、主に[[フランス人]]、[[イタリア人]]と[[ソビエト連邦]]捕虜が収容されていた、[[ナチズム|ナチス]]の[[ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為#捕虜収容所の一部|捕虜収容所]]{{仮リンク|Stalag III-C|en|Stalag III-C Alt-Drewitz}}があった。
郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区の1つである{{仮リンク|ドジェビツェ|en|Drzewice}})には、主に[[フランス人]]、[[イタリア人]]と[[ソビエト連邦]]捕虜が収容された、[[ナチズム|ナチス]]の[[ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為#捕虜収容所の一部|捕虜収容所]]{{仮リンク|Stalag III-C|en|Stalag III-C Alt-Drewitz}}があった。
[[1943年]]から[[1945年]]には、いくつかの強制労働収容所と[[ザクセンハウゼン強制収容所]]の施設の一部が置かれていた。
[[1943年]]から[[1945年]]には、いくつかの強制労働収容所と[[ザクセンハウゼン強制収容所]]の施設の一部が置かれていた。



2012年12月17日 (月) 04:55時点における版

コストシン・ナド・オドロン
歴史的な街路
歴史的な街路
コストシン・ナド・オドロンの旗
コストシン・ナド・オドロンの紋章
紋章
コストシン・ナド・オドロンの位置(ポーランド内)
コストシン・ナド・オドロン
コストシン・ナド・オドロン
北緯52度35分18秒 東経14度40分0秒 / 北緯52.58833度 東経14.66667度 / 52.58833; 14.66667
Country ポーランドの旗 ポーランド
Voivodeship Lubusz
County Gorzów
Gmina Kostrzyn nad Odrą (urban gmina)
Established 13th century
Town rights 1300
政府
 • Mayor Andrzej Kunt
面積
 • 合計 46.17 km2
人口
(2007)
 • 合計 19,952人
 • 密度 430人/km2
等時帯 UTC+1 (CET)
 • 夏時間 UTC+2 (CEST)
Postal code
66-470
市外局番 +48 95
Car plates FGW
ウェブサイト 公式ウェブサイト
sealing stamp

コストシン・ナド・オドロンポーランド語: Kostrzyn nad Odrą)は、ポーランド西部のルブシュ県 ゴジュフ郡英語版オーデル川ヴァルタ川の合流点にある、ドイツとの国境に接する町である。2007年の住民数19,952名。

第二次世界大戦終結まではドイツのブランデンブルク州における元プロイセン州の町で、キュストリンドイツ語: KüstrinまたはCüstrin)と呼ばれていた。 ベルリンから約65km東方に位置していて、16世紀以降その戦略的重要性から町の内外に要塞が構築されていった。 独ソ戦末期の1945年に壮絶な戦闘が行われた結果、城壁で囲まれていた旧市街は完全に破壊され、未だに再建されていない。 戦後、連合国 (第二次世界大戦)ポツダム協定に基づきオーデル・ナイセ線に沿った新しい国境線を引いたので、キュストリンならび東ブランデンブルク英語版地方は、ドイツ民主共和国ポーランド人民共和国の間で分割された。

歴史

おおよそ960年から1200年まで、代々のポーランド公は城を築いて領地として治めていた。 ポーランド公ミェシュコ1世ツェディニャ英語版への遠征(ツェディニャの戦い英語版 )の際に拠点として、この地の戦略的重要性を活用した。ボレスワフ1世 (ポーランド王)もこの地でバウツェンを征服する戦争の準備をした。

1232年ドイツ騎士団へのポーランド語の手紙に古いスラヴ語Cozsterine と明記され、これが キュストリン/コストシン という名が記録に残されている最古のものである。 12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。 1223年ヴワディスワフ・オドニツ王子からドイツテンプル騎士団へ与えられたが、1261年ブランデンブルク辺境伯に奪われてしまった。 1300年までにブランデンブルクのアルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯)英語版が、マクデブルク法を適用して河川を使った貿易が大規模に行われるようになり町は急速に発展した。

ヨハン (ブランデンブルク=キュストリン辺境伯)は城を築いて居城にし、1535年から1571年まで東ブランデンブルク英語版地方の都とした。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。

後に即位しフリードリヒ2世(フリードリッヒ大王)となるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近であるハンス・ヘルマン・フォン・カッテと、プロイセン王国からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、彼の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)によって1730年9月にこの城塞内の塔に監禁される。 同年11月6日、王子が閉じ込められていた塔の傍でハンス・ヘルマン・フォン・カッテは処刑され、王子はその刑の執行を房の窓から見ているよう言いつけられていた。 王子は父王から、牢から出されてもキュストリンに留められて、そこの役人から地方と都市の行政について学ぶよう命じられた。

ナポレオン戦争1806年フランスに占領され、フランス軍に支配された。 フランス軍がロシア遠征している1814年大火に見舞われたが、その後に復興しプロイセン王国ならびドイツ帝国の鉄道網の重要な集積拠点の一つとなった。 鉄道は、1857年ベルリンフランクフルト・アン・デア・オーダーに接続し、1875年にはポメラニアの沿岸都市シュチェチンにつながった。 1900年住民数は、駐屯兵含め16,473名に達した。

第二次世界大戦勃発時、住民数は24,000名だった。 郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区の1つであるドジェビツェ英語版)には、主にフランス人イタリア人ソビエト連邦捕虜が収容された、ナチス捕虜収容所Stalag III-C英語版があった。 1943年から1945年には、いくつかの強制労働収容所とザクセンハウゼン強制収容所の施設の一部が置かれていた。

鉄道網が集積し32の工場があったことから、連合国 (第二次世界大戦)の空爆を受けた。またオーデル・ナイセの戦いゼーロウ高地の戦いにおいてオーデル川東岸部のドイツ軍橋頭保になっていたことで、1945年3月11日に赤軍に占領された時には建物の約95%と32工場全てが破壊されて、完全に瓦礫の山と化していた。

荒廃したキュストリンはポツダム会談の決定によりオーデル川で分断され、町のほとんどの地区があるオーデル川東岸部は戦後、ポーランドの統治下におかれてポーランド語名のコストシンと呼ばれるようになった。 コストシンにまだ残っていたドイツ人は追いやられて(ドイツ人追放)、代わりにソビエト連邦領から追い出されたポーランド人(1944-1946)英語版が移り住んだ。 若き日のフリードリッヒ大王が監禁された城塞を含む旧市街は崩れ落ち、そこのレンガはポーランドのどこか他の街などの建設に再利用された。 近年、旧キュストリンの姿で町の一部を史実に基づいて再建する計画が討論されているが、まだ具体化されていない。

2004年からコストシンでは年に一度、ヨーロッパ最大で、世界的にも最大レベルの野外音楽フェスティバルであるプレジィスタネク・ウッドストック英語版が、夏季に開催されている。

なお旧キュストリンの一部だったオーデル川西岸部はドイツ領に残り、郊外の村落だったキュストリンキーツ英語版を含んで、現在キュストリーナー・フォルラント英語版と呼ばれ、2005年の住民数は2,953名である。

年代別の住民数

  • 1900年: 駐屯兵含めて16,473名、その内ローマカトリック教徒 1,095名、ユダヤ人 143名。
  • 1925年: 約19,500名、その内ローマカトリック教徒 おおよそ1,800名、ユダヤ人 120名。
  • 1939年: 約24,000名。
  • 1971年: 約11,000名。

有名な出身者

ポーランド代表サッカー選手

座標: 北緯52度35分18秒 東経14度39分00秒 / 北緯52.58833度 東経14.65000度 / 52.58833; 14.65000