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[[ベシクタシュJK]]の熱烈なサポーターでもある。
[[ベシクタシュJK]]の熱烈なサポーターでもある。

== 著作 ==
*[[アブドゥラー・ギュル]]、[[ビル・ゲイツ]]、[[マイケル・サンデル]]ほか『世界は、考える』([[野中邦子]]訳、土曜社、2013年)



== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
澤江史子 『現代トルコの民主政治とイスラーム』 ナカニシヤ出版 2005年 (ISBN 4-88848-987-4)
*澤江史子 『現代トルコの民主政治とイスラーム』 ナカニシヤ出版 2005年 (ISBN 4-88848-987-4)


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2012年12月21日 (金) 04:52時点における版

アブドゥラー・ギュル
Abdullah Gül


トルコの旗 トルコ共和国
第58代 首相
任期 2002年11月18日2003年3月14日

トルコの旗 トルコ共和国
第11代 大統領
任期 2007年8月28日

出生 1950年10月29日
カイセリ
政党 公正発展党
配偶者 ハイリュンニサ・ギュル

アブドゥラー・ギュルAbdullah Gül, 1950年10月29日 - )は、公正発展党所属のトルコ共和国の政治家。カイセリ出身。首相2002年11月18日-2003年3月14日)、外相(2003年3月14日-2007年8月28日)、大統領2007年8月28日-)。

政歴

イスタンブル大学経済学部を卒業。同大学にて博士号取得後、サカリア大学工業技術学部にて経済学の教員として勤務。1983年から、サウジアラビアジッダに拠点を置くイスラーム開発銀行にて経済専門家として勤務。

イスラーム復興勢力である福祉党からのリクルートを受けて、1991年の総選挙にカイセリ選挙区から出馬し、トルコ大国民議会議員に当選。福祉党では党首のエルバカンに重用され、1993年には外交問題担当副党首として党幹部会のメンバーとなった。

1995年の総選挙で福祉党が議会第1党となり、エルバカン政権が発足すると、キプロス中央アジア担当の国務大臣として入閣。首相側近として同政権の外交政策を主導した[1]

1997年6月に軍部の圧力でエルバカン首相が退陣し、翌1998年2月に福祉党が非合法化されると、後継政党である美徳党に移籍。各種メディアに積極的に出演し、福祉党政権時代の急進的なイスラーム復興政策を自己批判し、世俗主義派を含む国民全体からの信頼回復を訴えた。2001年に美徳党が非合法化されると、前イスタンブル市長のエルドアンと共に公正発展党を旗揚げし、副党首となった[2]

2002年の総選挙で公正発展党が議会第1党になると、トルコ憲政史上初のイスラーム政党による単独政権が発足した。党首のエルドアンが被選挙権を剥奪されていたため、公正発展党政権の初代首班として同年から首相を務めた。翌2003年に、エルドアンが被選挙権を回復し、補欠選挙で当選すると、首相職をエルドアンに譲り、自らは外相に就いた。

外交政策では、イラク戦争でのアメリカの立場を支持し、対米関係の維持に努めたほか、周辺の中東諸国との関係を重視し関係改善に努めた。

2007年5月の大統領選挙では、公正発展党の大統領候補として出馬したが、イスラーム系政党である公正発展党が大統領ポストを握ることに、共和人民党をはじめとする野党勢力や、軍部などの世俗主義勢力が反発し、政局の混乱を招いた。7月に行われた解散総選挙の結果、公正発展党が再び議会の過半数を獲得したため、8月の大統領選挙にて大統領に選出された。

2008年にクルド人武装組織クルド労働者党(PKK)の掃討では空爆を支持した[3]

2008年6月に来日し、同国大統領として初めてエルトゥールル号遭難慰霊碑で行われる追悼式典に出席し献花を行った。

大統領選挙

公正発展党が欧州連合加盟に向けて国内改革を推し進め、経済政策でも実績をあげる中で、イスラーム主義を基調とする政策は世俗主義者の警戒を呼ぶことになった。

2007年セゼル大統領の任期満了に伴う大統領選挙では当初、エルドアン首相が出馬の意欲を示していたが、世俗主義を脅かしたとして実刑判決を受けた経験を持つエルドアン首相が大統領となることには世俗主義者が猛反発し、4月15日にはアンカラで35万人規模のデモが起こった。これを受け公正発展党では「穏健」と言われるギュル外相が大統領候補に擁立されることになった。

しかし、ギュルの擁立に対しても世俗主義者の反発は収まらず、4月27日に行われた大統領選の第一回投票では野党で議会第2党の共和人民党が投票をボイコットし、憲法裁判所に出席者不足による投票の無効を訴えた。同日深夜には、かつてエルバカン首相を退陣に追いやった軍が大統領選について世俗主義に関する懸念があるとの表明を発表、4月29日にはイスタンブルで世俗主義者による大規模なデモが行われた。

5月1日には共和人民党の訴えに対し、憲法裁判所が第一回投票を無効との判決を下した。公正発展党はこれに対して11月に予定されていた総選挙の7月に前倒しして民意を問うことを決めるとともに、憲法を改正して大統領の選出方法を議会による間接選挙から国民による直接選挙に改め、総選挙と同時に大統領選挙を行うことを目指すことを明らかにした。

5月6日、大統領選の仕切り直しの第一回投票でも野党のボイコットにより出席者が憲法裁判所の認定した定足数3分の2に満たなかったため、ギュルは大統領選への立候補を取り下げた。

しかし7月の議会選挙で公正発展党が勝利。これうけ公正発展党は「正統性は得られた」としてギュルを大統領候補に再び擁立した。これに対し野党は大統領選挙へのボイコットはしないことを表明。ギュルの大統領選出の可能性が濃厚になってきた。「トルコにイスラーム政党の大統領誕生か」の報に国際市場は反応し一時、為替相場が混乱する事態が発生した。

大統領選挙は8月20日、同月24日、同月28日と行われたが、当選に必要な得票数は、前2回が議会の3分に2、第3回からが過半数となっており、8月20日8月24日の選挙では与野党ともに3分の2の得票の候補者が出ず次に持ち越された。そのため28日に3回目の投票が行われ、550票中339票の票を得たギュルが、正式に大統領に選出されることになった。

人物

イスラーム復興を標榜し、トルコ政界では宗教的保守勢力として位置付けられる公正発展党において「より穏健でバランスが取れている人物」とみなされている。

ハイリュンニサ夫人と2男1女の子供を家族にもつ[4]

夫人はイスラームの慣習に従いスカーフを着用している。イスラーム教徒女性のスカーフは宗教的なシンボルとみなされており、トルコではこれまで世俗主義の原則から学校などの公的な場でのスカーフ着用が禁じられてきたので、彼女が大統領夫人になった場合には、スカーフをつけるのかはずすのかが世間の関心を呼んでいる[5]。また、長女も留学先の大学の卒業式にスカーフを着用して出席していたことが話題となった。

ベシクタシュJKの熱烈なサポーターでもある。

著作


参考文献

  • 澤江史子 『現代トルコの民主政治とイスラーム』 ナカニシヤ出版 2005年 (ISBN 4-88848-987-4)

脚注

  1. ^ 澤江 pp.144-146.
  2. ^ 澤江 pp.179-189.
  3. ^ http://www2.asahi.com/special/iraq/TKY200801050186.html]
  4. ^ 外務省ホームページ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkey/cv/r_abdullah.html
  5. ^ 2008年の日本訪問時にはスカーフを着用する姿が見られた。

外部リンク