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「大塚・歳勝土遺跡」の版間の差分

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'''大塚・歳勝土遺跡'''(おおつか・さいかちどいせき)は[[神奈川県]][[横浜市]][[都筑区]]([[港北ニュータウン]]内)にある[[弥生時代]]中期の[[遺跡]]。
'''大塚・歳勝土遺跡'''(おおつか・さいかちどいせき)は[[神奈川県]][[横浜市]][[都筑区]]([[港北ニュータウン]]内)にある[[弥生時代]]中期の[[遺跡]]。


[[1972年]]の発掘調査で存在が明らかとなる。大塚遺跡は、弥生時代中期の[[環集落]]であることが確認され、また歳勝土遺跡は、弥生時代から[[古墳時代]]にかけての墓である[[方形周溝墓]]群が発見され、墓地であることが明らかになった。このように集落とお墓が一体となって完全な形で発見されることは稀である。
[[1972年]]の発掘調査で存在が明らかとなる。大塚遺跡は、弥生時代中期の[[環集落]]であることが確認され、また歳勝土遺跡は、弥生時代から[[古墳時代]]にかけての墓である[[方形周溝墓]]群が発見され、墓地であることが明らかになった。このように集落とお墓が一体となって完全な形で発見されることは稀である。


この二つの遺跡の全体像が明らかになった後、[[1986年]]に国指定の遺跡に指定された。現在、歳勝土遺跡と大塚遺跡の3分の1の面積にあたる約33000平方メートルが保存され、発見された遺構のうち[[竪穴住居]]址27軒を保存(うち7軒を復元)し、[[高床式倉庫]]と考えられる[[掘立柱建物]]は検出された10棟のうち1棟を復元し、環濠250メートルを復元し保存している。歳勝土遺跡は、発見された遺構25基の方形周溝墓を保存し、うち5基を復元して保存している。
この二つの遺跡の全体像が明らかになった後、[[1986年]]に国指定の遺跡に指定された。現在、歳勝土遺跡と大塚遺跡の3分の1の面積にあたる約33000平方メートルが保存され、発見された遺構のうち[[竪穴住居]]址27軒を保存(うち7軒を復元)し、[[高床式倉庫]]と考えられる[[掘立柱建物]]は検出された10棟のうち1棟を復元し、環濠250メートルを復元し保存している。歳勝土遺跡は、発見された遺構25基の方形周溝墓を保存し、うち5基を復元して保存している。

2006年2月14日 (火) 12:29時点における版

大塚・歳勝土遺跡(おおつか・さいかちどいせき)は神奈川県横浜市都筑区港北ニュータウン内)にある弥生時代中期の遺跡

1972年の発掘調査で存在が明らかとなる。大塚遺跡は、弥生時代中期の環壕集落であることが確認され、また歳勝土遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての墓である方形周溝墓群が発見され、墓地であることが明らかになった。このように集落とお墓が一体となって完全な形で発見されることは稀である。

この二つの遺跡の全体像が明らかになった後、1986年に国指定の遺跡に指定された。現在、歳勝土遺跡と大塚遺跡の3分の1の面積にあたる約33000平方メートルが保存され、発見された遺構のうち竪穴住居址27軒を保存(うち7軒を復元)し、高床式倉庫と考えられる掘立柱建物は検出された10棟のうち1棟を復元し、環濠250メートルを復元し保存している。歳勝土遺跡は、発見された遺構25基の方形周溝墓を保存し、うち5基を復元して保存している。

現在は、周辺を整備して横浜市歴史博物館と一体化し、歴史を体験できるよう「大塚・歳勝土遺跡公園」として整備されている。