コンテンツにスキップ

「マーク・ヴィドゥカ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
JackieBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.2) (ロボットによる 追加: he:מארק וידוקה
ヌッキー (会話 | 投稿記録)
32行目: 32行目:
== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[Image:Mark Viduka 2005 WCQ.jpg|thumb|150px|left|オーストラリア代表でのヴィドゥカ]]
[[Image:Mark Viduka 2005 WCQ.jpg|thumb|150px|left|オーストラリア代表でのヴィドゥカ]]
[[1994年]]、地元のクラブチームであるメルボルン・ナイツに入団。翌年には父親の故郷・[[クロアチア]]の[[ディナモ・ザグレブ|クロアチア・ザグレブ]]へ移籍。1996-1997シーズンには18得点を挙げる活躍を見せた。
[[1994年]]、地元のクラブチームであるメルボルン・ナイツに入団。翌年には父親の故郷・[[クロアチア]]の[[ディナモ・ザグレブ|クロアチア・ザグレブ]]へ移籍。1996-97シーズンには18得点を挙げる活躍を見せた。


[[1999年]]に[[セルティックFC]]へ移籍したが、そのシーズンに25得点をマークし、スコットランドリーグの最優秀選手に選ばれた。この年から5年連続で2桁得点をしている。
[[1999年]]に[[セルティックFC]]へ移籍し、そのシーズンに25得点を記録し、スコットランドリーグの最優秀選手に選ばれた。この年から5年連続で2桁得点をしている。


[[2000年]]には[[リーズ・ユナイテッドFC]]へ移籍。同年のオセアニア年間最優秀選手に選ばれた。
[[2000年]][[リーズ・ユナイテッドFC]]へ移籍。同年のオセアニア年間最優秀選手に選ばれた。
2004-2005シーズンからはリーズが2部降格したのに伴い、[[ミドルズブラFC]]へ移籍した。2006-2007シーズンには19ゴール(リーグ戦14ゴール、カップ戦5ゴール)をマークした。
2004-05シーズンからはリーズが2部降格したのに伴い、[[ミドルズブラFC]]へ移籍した。2006-07シーズンには19得点(リーグ戦14得点、カップ戦5得点)を記録した。


2006年、[[フース・ヒディンク]]に率いられ[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア代表]]としてドイツW杯に出場。グループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の全4試合に先発フル出場したものの、長期の怪我明けだったため試合勘が戻らないままノーゴールに終わった。
2006年、[[フース・ヒディンク]]に率いられ[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア代表]]としてドイツW杯に出場。グループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の全4試合に先発フル出場したものの、長期の怪我明けだったため試合勘が戻らないまま無得点に終わった。


2007年6月7日、ミドルズブラのライバルである[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]に移籍した。2年契約で移籍金は発生しない。新監督に就任した[[サム・アラーダイス]]が獲得した最初の選手だった。8月11日の[[ボルトン・ワンダラーズFC]]戦でプレミアリーグデビューし、8月26日の古巣ミドルズブラFC戦で初得点を決めた。9月23日、[[ウェストハム・ユナイテッドFC]]戦では2ゴールを決めた。12月23日、[[ダービー・カウンティFC]]戦で再び2ゴールを挙げた。怪我による離脱の後、新監督に就任した[[ケビン・キーガン]]が採用した4-3-3システムで[[オバフェミ・マルティンス]]や[[マイケル・オーウェン]]とトリオを組み、その新システムのおかげで降格を逃れた。最終節を前にしてアキレス腱を負傷し、半年もの離脱を強いられたが、2008年11月29日のミドルズブラ戦でオバフェミ・マルティンスとの途中交代で復帰し、怪我によりヴィドゥカのキャリアが終わることを心配していた[[ジョー・キニアー]]新監督を安心させた。12月下旬には鼠径部の負傷で再びピッチを離れたが、ビドゥカは現役でプレーすることを強く望んだ。復帰後、[[フラムFC]]戦でシーズン唯一の得点を決めたかに思えたが、主審の[[ハワード・ウェブ]]は[[ケヴィン・ノーラン]]が相手GKの[[マーク・シュワルツァー]]を妨害したとしてヴィドゥカの得点を認めなかった。2008-09シーズンは18位となり、2部リーグ降格が決定した。
2007年6月7日、ミドルズブラのライバルである[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]に移籍した。2年契約で移籍金は発生しない。新監督に就任した[[サム・アラーダイス]]が獲得した最初の選手だった。8月11日の[[ボルトン・ワンダラーズFC]]戦で移籍後初出場し、8月26日の古巣ミドルズブラFC戦で初得点を決めた。9月23日、[[ウェストハム・ユナイテッドFC]]戦では2ゴールを決めた。12月23日、[[ダービー・カウンティFC]]戦で再び2ゴールを挙げた。怪我による離脱の後、新監督に就任した[[ケビン・キーガン]]が採用した4-3-3システムで[[オバフェミ・マルティンス]]や[[マイケル・オーウェン]]とトリオを組み、その新システムのおかげで降格を逃れた。最終節を前にしてアキレス腱を負傷し、半年もの離脱を強いられたが、2008年11月29日のミドルズブラ戦でオバフェミ・マルティンスとの途中交代で復帰し、怪我によりヴィドゥカの選手生活が終わることを心配していた[[ジョー・キニアー]]新監督を安心させた。12月下旬には鼠径部の負傷で再びピッチを離れたが、ビドゥカは現役でプレーすることを強く望んだ。復帰後、[[フラムFC]]戦でシーズン唯一の得点を決めたかに思えたが、主審の[[ハワード・ウェブ]]は[[ケヴィン・ノーラン]]が相手GKの[[マーク・シュワルツァー]]を妨害したとしてヴィドゥカの得点を認めなかった。2008-09シーズンは18位となり、2部降格が決定した。


契約が切れたはオーストラリアに戻り、[[Aリーグ]]で所属先を探したが、2009-10シーズンは無所属で開幕を迎えた。
契約が切れたはオーストラリアに戻り、[[Aリーグ]]で所属先を探したが、2009-10シーズンは無所属で開幕を迎えた。


{{スコットランドPFA年間最優秀選手賞}}
{{スコットランドPFA年間最優秀選手賞}}

2013年1月11日 (金) 09:22時点における版

マーク・ヴィドゥカ
名前
本名 マーク・アンソニー・ヴィドゥカ
Mark Anthony Viduka
ラテン文字 Mark Viduka
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
生年月日 (1975-10-09) 1975年10月9日(48歳)
出身地 オーストラリアの旗メルボルン
身長 188cm
体重 91kg
選手情報
在籍チーム 無所属
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-1995
1995-1998
1998-2000
2000-2004
2004-2007
2007-2009
メルボルン・ナイツ
ディナモ・ザグレブ
セルティック
リーズ・ユナイテッド
ミドルズブラ
ニューカッスル・ユナイテッド
49 (40)
84 (40)
37 (30)
130 (59)
72 (26)
38 0(7)
代表歴2
1993-1995
1994-1996
1994-2009
オーストラリアの旗 オーストラリア U-20
オーストラリアの旗 オーストラリア U-23
オーストラリアの旗 オーストラリア
20 (32)
18 (17)
43 (11)
1. 国内リーグ戦に限る。2009年8月14日現在。
2. 2009年8月14日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マーク・アンソニー・ヴィドゥカ(Mark Anthony Viduka, 1975年10月9日 - )は、オーストラリアメルボルン出身の同国代表サッカー選手。ポジションはFW。現在は無所属である。クロアチアウクライナにルーツを持つ。

経歴

オーストラリア代表でのヴィドゥカ

1994年、地元のクラブチームであるメルボルン・ナイツに入団。翌年には父親の故郷・クロアチアクロアチア・ザグレブへ移籍。1996-97シーズンには18得点を挙げる活躍を見せた。

1999年セルティックFCへ移籍し、そのシーズンに25得点を記録し、スコットランドリーグの最優秀選手に選ばれた。この年から5年連続で2桁得点をしている。

2000年リーズ・ユナイテッドFCへ移籍。同年のオセアニア年間最優秀選手に選ばれた。

2004-05シーズンからはリーズが2部降格したのに伴い、ミドルズブラFCへ移籍した。2006-07シーズンには19得点(リーグ戦14得点、カップ戦5得点)を記録した。

2006年、フース・ヒディンクに率いられオーストラリア代表としてドイツW杯に出場。グループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の全4試合に先発フル出場したものの、長期の怪我明けだったため試合勘が戻らないまま無得点に終わった。

2007年6月7日、ミドルズブラのライバルであるニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍した。2年契約で移籍金は発生しない。新監督に就任したサム・アラーダイスが獲得した最初の選手だった。8月11日のボルトン・ワンダラーズFC戦で移籍後初出場し、8月26日の古巣ミドルズブラFC戦で初得点を決めた。9月23日、ウェストハム・ユナイテッドFC戦では2ゴールを決めた。12月23日、ダービー・カウンティFC戦で再び2ゴールを挙げた。怪我による離脱の後、新監督に就任したケビン・キーガンが採用した4-3-3システムでオバフェミ・マルティンスマイケル・オーウェンとトリオを組み、その新システムのおかげで降格を逃れた。最終節を前にしてアキレス腱を負傷し、半年もの離脱を強いられたが、2008年11月29日のミドルズブラ戦でオバフェミ・マルティンスとの途中交代で復帰し、怪我によりヴィドゥカの選手生活が終わることを心配していたジョー・キニアー新監督を安心させた。12月下旬には鼠径部の負傷で再びピッチを離れたが、ビドゥカは現役でプレーすることを強く望んだ。復帰後、フラムFC戦でシーズン唯一の得点を決めたかに思えたが、主審のハワード・ウェブケヴィン・ノーランが相手GKのマーク・シュワルツァーを妨害したとしてヴィドゥカの得点を認めなかった。2008-09シーズンは18位となり、2部降格が決定した。

契約が切れた後はオーストラリアに戻り、Aリーグで所属先を探したが、2009-10シーズンは無所属で開幕を迎えた。