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2013年1月12日 (土) 00:36時点における版

宮崎 勤
個人情報
生誕 1962年8月21日
日本の旗 日本東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市
死没 (2008-06-17) 2008年6月17日(45歳没)
東京拘置所
死因 絞首刑
犠牲者数 4人
犯行期間 1988年–1989年
逮捕日 1989年8月11日
司法上処分
刑罰 死刑
判決 死刑
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宮崎 勤(みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。

生い立ち

東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生[1]。両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている[2]。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた[3]。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった[4]。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人[4]。祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、可愛がっていた[5]

幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」(りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう)[6]という当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたようだ。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった[7]。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため、非常に辛かった、と供述している[8]

小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった[9]。中学生時代は1、2年生の時には陸上部、3年生の時には将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した[10]。また通信教育空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった[10]。成績は上位であって、小学校の頃から算数数学)が得意と語っており、また宮崎の母が「うちの子は英語が得意なの」と自慢しており、英数の成績は良かった[11]。しかし、その一方で国語社会科を苦手としていた[11]1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが両親は、英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した、と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学[12]。この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった[13]1982年短期大学在学中にNHKのトーク番組『YOU』のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、他の出演者に隠れて、インタビューを受けることはなかった[14]。俳優の川崎麻世は短大の同級生であるが、宮崎の逮捕時のインタビューでは「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」というほど影が薄い存在であった[15]

1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務[16]。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった[17]1986年3月依願退職という形で解雇[18]。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数ヶ月続いた[19]。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった[20]。この頃アニメ同人誌を発行するが、仲間から嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組ビデオダビング交換、コレクションするようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞する事はなかった[21]。ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた[22]。逮捕後の家宅捜索では6000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する[23]1988年5月16日、祖父が死去[24]8月22日に第一の犯行を起こす[25]1989年3月には晴海のコミックマーケット漫画作品を出品している[26]

事件後

1989年7月23日、わいせつ事件を起こそうとしていたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮崎は強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された[27]。8月9日から連続幼女誘拐殺人事件への関与を認め、8月10日にその供述どおりに遺体が発見されたことから、同日の夕刊とニュースで宮崎の実名報道が始まる[28]。翌8月11日に連続幼女誘拐殺人事件の容疑で再逮捕された[29]。以後、次々と事件が明るみに出た後、後藤正夫法務大臣(当時)は、「死刑くらいでは収まらない残酷な出来事だ」と発言した[30]。1989年8月24日東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まるとされ、これを受けて検察は起訴に踏み切った。初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか・・・」と罪状認否で訴えた。

公判開始後の1990年12月より、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される[31]。この鑑定では動物虐待等の異常行動に目が向けられ、祖父の遺骨を食べた事などは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた[32]1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた[31]。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされた事を証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した[33]

1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により再鑑定が始まる[32]1994年12月に鑑定書が提出される[32]。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した[34]

判決後

1997年4月14日東京地方裁判所で死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合に最もうまく説明できる事を理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴。

2001年6月28日東京高等裁判所一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日、上告。2004年には奈良小1女児殺害事件が起こるが、同事件の容疑者が「第二の宮崎勤」の発言を行ったことに対し「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」(『創』2006年1月号)と宮崎の名を使った事に対し痛烈に批判した。2006年1月17日最高裁判所が弁護側の上告を棄却。弁護側は判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却[35]2008年6月17日東京拘置所で死刑が執行された[36]。宮崎は冷静に執行を受け入れ、また宮崎の母親は遺体との面会後に、遺体の措置については拘置所に任せたという[37]

雑誌『創』篠田博之編集長に宛てた手紙には日本の現行の死刑方法における批判がしばしば書かれており、2006年には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判、薬物注射による死刑導入を訴えていた。2007年の書簡には「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、『私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる』」とも記していた[38]。編集部に宛てた手紙はおよそ300通、内容は拘置所内で読んだ漫画本のタイトルを並べただけの物が殆どであった。知人にも合計で2000通近くの手紙を拘置所内から送っていた。また、死刑判決が決定してからは独房でアニメビデオを鑑賞することが許可されていた[39]

動機

事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず・・・幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

家族

稀に見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。人々の宮崎への憎悪はそのまま彼の家族へと波及した。宮崎は両親の他に姉妹二人兄弟二人がいたが、彼らに対して「お前達も死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が大量に殺到した[40]。長女は職を辞め次女は結婚予定であったが自ら婚約を破棄した。二人の兄弟もいずれも辞職した。背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる[41]

家族は宮崎の逮捕から1年後に引越をした。宮崎は父親に対して私選弁護人をつけてくれるよう要請したがこれを拒絶。4年後の1994年に父親は多摩川の高さ30mの橋から飛び降り自殺を遂げた。作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり被害者家族を顧みない行為である」と非難した。佐木は他にも私選弁護士をつけるよう要請して来た宮崎を拒絶したことについても批判している[42]。私選弁護人を選定しなかったことで国選弁護人が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。宮崎の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分備わっており、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。

死刑執行の背景および波紋

2008年6月17日午前に鳩山邦夫法相の命令で宮崎の死刑は執行された[43]。犯行動機は未解明のまま、精神鑑定も継続中という状況だった。(過去10年間における)死刑確定から死刑執行までの平均は約8年であり、死刑確定から2年4ヶ月というスピード執行となる[44][45]。2007年12月以降、死刑執行された死刑囚の氏名を公表しているが、宮崎勤の死刑執行は鳩山法相下での13人への死刑執行の中では最も大きな注目を集めた死刑執行であった。なお、この宮崎の死刑執行については法相である鳩山本人が「(宮崎勤の事件は)最も凶悪な事犯の一つだと思うから、死刑執行すべきと思うが検討しろ」と執行するための手続きを開始させた事案であった事を、2010年末に民放テレビのインタビューに鳩山本人が答えて明らかにした。

2008年6月8日秋葉原無差別殺傷事件が影響を及ぼした可能性も指摘されていたが[46]、鳩山法相の秘書経験があるジャーナリストの上杉隆によると宮崎勤死刑執行は秋葉原事件とは関係ないとしている。アムネスティ・インターナショナル日本や「死刑廃止を推進する議員連盟」(会長・亀井静香衆院議員)など人権団体が同日、相次いで抗議を表明した[47][48]

また、日本弁護士連合会宮崎誠会長名で「半年余りで13人の大量の死刑執行が行なわれた。政府に対し、死刑制度の存廃を含む抜本的な検討と見直しを行なうまでの一定期間、執行を停止するよう重ねて強く要請する」との声明を出した[49]。宮崎刑死者の弁護人を務めた田鎖麻衣子弁護士は同日、「数ヶ月前から再審請求の準備を進めていた。こうした事情を知りながら、死刑を執行したことに強く抗議する」との声明を発表した[50]。5月末には鳩山邦夫法相に死刑を執行しないよう文書にて要請していたという[50]

著作

雑誌『創』編集部との往復書簡を掲載したものが出版されている。

  • 夢のなか - 連続幼女殺害事件被告の告白 -1998年12月 創出版 ISBN 9784924718302
  • 夢のなか、いまも - 連続幼女殺害事件元被告の告白 - 2006年2月 創出版 ISBN 9784924718722

脚注・出典

  1. ^ 一橋(2003)、pp.61-62
  2. ^ 一橋(2003)、p.164
  3. ^ 一橋(2003)、p.166
  4. ^ a b 一橋(2003)、p.62
  5. ^ 一橋(2003)、pp.130-131
  6. ^ 肩・肘の外傷と疾患 先天性橈尺骨癒合症
  7. ^ 一橋(2003)、pp.64, 87-88
  8. ^ 一橋(2003)、pp.66-68
  9. ^ 一橋(2003)、p.70
  10. ^ a b 一橋(2003)、p.75
  11. ^ a b 一橋(2003)、p.76
  12. ^ 一橋(2003)、p.100
  13. ^ 一橋(2003)、p.101
  14. ^ 一橋(2003)、p.102
  15. ^ 一橋(2003)、pp.100-101
  16. ^ 一橋(2003)、pp.109-110
  17. ^ 一橋(2003)、p.110
  18. ^ 一橋(2003)、p.112
  19. ^ 一橋(2003)、pp.112-113
  20. ^ 一橋(2003)、p.113
  21. ^ 一橋(2003)、pp.119,340
  22. ^ 一橋(2003)、pp.345-346
  23. ^ 一橋(2003)、p.331
  24. ^ 一橋(2003)、p.175
  25. ^ 一橋(2003)、p.9
  26. ^ 一橋(2003)、p.348
  27. ^ 一橋(2003)、p.12
  28. ^ 中日新聞』1989年8月10日付夕刊
  29. ^ 『中日新聞』1989年8月11日付夕刊
  30. ^ 一橋(2003)、p.34
  31. ^ a b 一橋(2003)、p.41
  32. ^ a b c 一橋(2003)、p.42
  33. ^ 一橋(2003)、pp.54-55
  34. ^ 一橋(2003)、pp.43-44
  35. ^ 共同通信 2008年2月2日
  36. ^ 幼女連続誘拐殺害の宮崎勤死刑囚に死刑執行産経新聞 2008年6月17日。
  37. ^ 読売新聞2008年10月3日
  38. ^ 連続幼女誘拐殺人:宮崎死刑囚・刑執行(その1)最後まで謝罪なく◇絞首刑を再三批判「薬物注射」導入を主張2008年6月17日 毎日新聞
  39. ^ 宮崎勤「死刑回避」意思に感じた・・・月刊誌「創」編集長ZAKZAK 2008年6月18日
  40. ^ 鈴木(2010)、p.62
  41. ^ 鈴木(2010)、pp.63,64
  42. ^ 鈴木(2010)、pp.66-67
  43. ^ 法相が適切判断 官房長官 産経新聞 2008年6月17日
  44. ^ たけし激白!日中関係は矛盾だらけ 『ビートたけしのガチバトル』(ウェブ魚拓)、鳩山邦夫元法相の積極的な指示だったことを証言している
  45. ^ 付属池田小事件の犯人である宅間守は、死刑確定から1年で執行されている。宮崎と同様、遺族への謝罪は一切ないまま執行された。
  46. ^ 宮崎死刑囚に「スピード」死刑執行 囁かれる「秋葉原事件」の影響? J-CASTニュース 2008年6月17日
  47. ^ 死刑:3人執行、廃止議連や人権団体の抗議表明相次ぐ 毎日新聞 2008年6月17日
  48. ^ 日本支部声明 : 死刑の執行に抗議する 社団法人アムネスティ・インターナショナル日本 2008年6月17日
  49. ^ 死刑執行に関する会長声明 日本弁護士連合会 2008年6月17日
  50. ^ a b 連続幼女誘拐殺人:「再審準備中」の執行に抗議 弁護士 毎日新聞 2008年6月17日 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Bengonin"が異なる内容で複数回定義されています

参考文献

  • 鈴木伸元『加害者家族』幻冬舎新書、2010年11月27日。ISBN 978-4-344-98194-2 
  • 一橋文哉『宮﨑勤事件—塗り潰されたシナリオ—』新潮文庫、2003年9月1日。ISBN 978-4-10-142624-2 

関連項目