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「コストシン・ナド・オドロン」の版間の差分

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'''コストシン・ナド・オドロン'''('''{{lang-pl|Kostrzyn nad Odrą}}''')は、[[ポーランド]]西部の[[ルブシュ県]]{{仮リンク|ゴジュフ郡|en|Gorzów County}}で[[オーデル川]]と[[ヴァルタ川]]の合流点にある、[[ドイツ]]との国境に接する町である。2007年の住民数19,952名。
'''コストシン・ナド・オドロン'''({{lang-pl|Kostrzyn nad Odrą}})は、[[ポーランド]]西部の[[ルブシュ県]]{{仮リンク|ゴジュフ郡|en|Gorzów County}}で[[オーデル川]]と[[ヴァルタ川]]の合流点にある、[[ドイツ]]との国境に接する町である。2007年の住民数19,952名。


[[第二次世界大戦]]終結までは、以前の[[プロイセン王国]]{{仮リンク|ブランデンブルク州 (プロイセン)|en|Province of Brandenburg}}にあったドイツの町で、'''キュストリン'''('''{{lang-de|Küstrin}}'''または'''Cüstrin''')と呼ばれていた。
[[第二次世界大戦]]終結までは、以前の[[プロイセン王国]]{{仮リンク|ブランデンブルク州 (プロイセン)|en|Province of Brandenburg|label=ブランデンブルク州}}にあったドイツの町で、'''キュストリン'''({{lang-de|Küstrin}}またはCüstrin)と呼ばれていた。[[ベルリン]]から約65km東方に位置していて、16世紀以降その戦略的重要性から町の内外に要塞が構築されていった。[[独ソ戦]]末期の[[1945年]]に壮絶な戦闘が行われた結果、城壁で囲まれていた旧市街は完全に破壊され、未だに再建されていない。戦後、[[連合国 (第二次世界大戦)]]は[[ポツダム協定]]に基づき[[オーデル・ナイセ線]]に沿った新しい国境線を引いたので、キュストリンならびに{{仮リンク|東ブランデンブルク|en|Neumark}}地方は、[[ドイツ民主共和国]]と[[ポーランド人民共和国]]の間で分割された。
[[ベルリン]]から約65km東方に位置していて、16世紀以降その戦略的重要性から町の内外に要塞が構築されていった。
[[独ソ戦]]末期の[[1945年]]に壮絶な戦闘が行われた結果、城壁で囲まれていた旧市街は完全に破壊され、未だに再建されていない。
戦後、[[連合国 (第二次世界大戦)]]は[[ポツダム協定]]に基づき[[オーデル・ナイセ線]]に沿った新しい国境線を引いたので、キュストリンならび{{仮リンク|東ブランデンブルク|en|Neumark}}地方は、[[ドイツ民主共和国]]と[[ポーランド人民共和国]]の間で分割された。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
おおよそ960年から1200年まで、代々のポーランド公はこの地に城を築いて領地として治めていた。
おおよそ960年から1200年まで、代々の[[ポーランド公]]はこの地に城を築いて領地として治めていた。ポーランド公[[ミェシュコ1世]]は{{仮リンク|ツェディニャ|en|Cedynia}}への遠征({{仮リンク|ツェディニャの戦い|en|Battle of Cedynia}})の際に、戦略的重要な拠点としてこの地を活用した。子の[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]も、この地で[[バウツェン]]を征服する戦争の準備をした。12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。
ポーランド公[[ミェシュコ1世]]は{{仮リンク|ツェディニャ|en|Cedynia}}への遠征({{仮リンク|ツェディニャの戦い|en|Battle of Cedynia}} )の際に、戦略的重要な拠点としてこの地を活用した。
子の[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)]]も、この地で[[バウツェン]]を征服する戦争の準備をした。
12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。


[[1223年]]に[[ヴワディスワフ・オドニツ]]王子からドイツ[[テンプル騎士団]]へこの地は与えられたが、[[1261年]]に[[ブランデンブルク辺境伯]]に奪われてしまった。
[[1223年]]に[[ヴワディスワフ・オドニツ]]王子から[[テンプル騎士団]]へこの地は与えられたが、[[1261年]]に[[ブランデンブルク辺境伯]]に奪われた。ちなみに[[1232年]]の[[ドイツ騎士団|チュートン騎士団]]へのポーランド語の手紙に、古い[[スラヴ語派|スラヴ語]]で ''Cozsterine'' と明記されており、これが キュストリン/コストシン という地名が記録に残されている最古のものである
ちなみに[[1232年]]の[[ドイツ騎士団|チュートン騎士団]]へのポーランド語の手紙に、古い[[スラヴ語派|スラヴ語]]で ''Cozsterine'' と明記されており、これが キュストリン/コストシン という地名が記録に残されている最古のものである。


[[Image:Kostrzyn Merian 1652.jpg|left|thumb|200px|キュストリン遠景 [[マテウス・メーリアン]]画 1652年]]
[[Image:Kostrzyn Merian 1652.jpg|left|thumb|200px|キュストリン遠景 [[マテウス・メーリアン]]画 1652年]]
ブランデンブルク{{仮リンク|アルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯)|en|Albert III, Margrave of Brandenburg-Salzwedel}}によって、キュストリンへ1300年には既に[[マクデブルク法]]が適用されており、河川を使った貿易が大規模に行われるようになって町は急速に発展した。
ブランデンブルク辺境伯{{仮リンク|アルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯)|en|Albert III, Margrave of Brandenburg-Salzwedel|label=アルブレヒト3世}}によって、キュストリンへ1300年には既に[[マクデブルク法]]が適用されており、河川を使った貿易が大規模に行われるようになって町は急速に発展した。

[[ヨハン (ブランデンブルク=キュストリン辺境伯)]]は城を築いて居城にし、[[1535年]]から死去する[[1571年]]まで{{仮リンク|東ブランデンブルク|en|Neumark}}地方の都となっていた。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。


ブランデンブルク=キュストリン辺境伯[[ヨハン (ブランデンブルク=キュストリン辺境伯)|ヨハン]]は城を築いて居城にし、[[1535年]]から死去する[[1571年]]まで{{仮リンク|東ブランデンブルク|en|Neumark}}地方の都となっていた。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。


[[ファイル:Kattes Hinrichtung 1730.jpg|left|thumb|150px|塔の窓からカッテの処刑を止めさせようとするフリードリヒ王子]]
[[ファイル:Kattes Hinrichtung 1730.jpg|left|thumb|150px|塔の窓からカッテの処刑を止めさせようとするフリードリヒ王子]]
後に[[プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世(フリードリッヒ大王)]]として即位することになるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近である[[ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ]]と、プロイセン王国からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、彼の父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)]]によって[[1730年]]9月にこの城塞内の塔に監禁されている。
後に[[プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](大王)として即位することになるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近である[[ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ]]と、プロイセン王国からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]によって[[1730年]]9月にこの城塞内の塔に監禁されている。同年[[11月6日]]、王子が閉じ込められていた塔の傍でカッテは処刑され、王子はその刑の執行を房の窓から見ているよう言いつけられていた。王子は父王から、牢から出されてもキュストリンに留められて、そこの役人から地方と都市の行政について学ぶよう命じられた。それから28年後、[[七年戦争]]中の[[1758年]][[8月25日]]にフリードリヒ大王は自ら軍を率いて、ベルリンに迫りつつある[[ロシア帝国]]軍をキュストリンの北東10kmで迎撃し、[[ツォルンドルフの戦い]]が行われた
同年[[11月6日]]、王子が閉じ込められていた塔の傍でカッテは処刑され、王子はその刑の執行を房の窓から見ているよう言いつけられていた。
王子は父王から、牢から出されてもキュストリンに留められて、そこの役人から地方と都市の行政について学ぶよう命じられた。
そしてそれから28年後、[[七年戦争]]中の[[1758年]][[8月25日]]にフリードリッヒ大王が自ら軍を率いて、ベルリンに迫りつつある[[ロシア帝国]]軍をキュストリンの北東10kmで迎撃し[[ツォルンドルフの戦い]]が行われた。


[[ナポレオン戦争]]中の[[1806年]]にフランスに占領され、フランス軍の支配下に置かれた。フランス軍が[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]している[[1814年]]に大火に見舞われたが、その後に復興し、プロイセン王国ならび[[ドイツ帝国]]の鉄道網の重要な集積拠点の一つとなった。鉄道は[[1857年]][[ベルリン]]と[[フランクフルト・アン・デア・オーダー]]に接続し、[[1875年]]には[[ポメラニア]]の沿岸都市[[シュチェチン]]につながった。[[1900年]]、住民数は駐屯兵を含めて16,473人に達した。
[[ナポレオン戦争]]で[[1806年]]フランスに占領され、フランス軍の支配下に置かれた。
フランス軍が[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]している[[1814年]]に大火に見舞われたが、その後に復興しプロイセン王国ならび[[ドイツ帝国]]の鉄道網の重要な集積拠点の一つとなった。
鉄道は[[1857年]][[ベルリン]]と[[フランクフルト・アン・デア・オーダー]]に接続し、[[1875年]]には[[ポメラニア]]の沿岸都市[[シュチェチン]]につながった。
[[1900年]]住民数は、駐屯兵含め16,473名に達した。


[[Image:LuftbildKuestrin.jpg|left|thumb|200px|キュストリンの俯瞰 1930年]]
[[Image:LuftbildKuestrin.jpg|left|thumb|200px|キュストリンの俯瞰 1930年]]
[[第二次世界大戦]]勃発時、住民数は24,000だった。
郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区のつである{{仮リンク|ドジェビツェ|en|Drzewice}})には、主に[[フランス人]]、[[イタリア人]]と[[ソビエト連邦]]の捕虜が収容された、[[ナチズム|ナチス]]の[[ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為#捕虜収容所の一部|捕虜収容所]]{{仮リンク|Stalag III-C|en|Stalag III-C Alt-Drewitz}}があった。[[1943年]]から[[1945年]]には、いくつかの強制労働収容所と[[ザクセンハウゼン強制収容所]]の施設の一部が置かれていた。鉄道網が集積し、32の工場があったことから、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の空爆を受けた。また[[オーデル・ナイセの戦い]]と[[ゼーロウ高地の戦い]]において、ドイツ軍がオーデル川東岸部の橋頭保にしたことで、1945年3月11日に[[赤軍]]に制圧された時には建物の約95%と32工場全てが破壊され、完全に瓦礫の山と化した。


荒廃したキュストリンは、[[ポツダム会談]]の決定によりオーデル川で分断され、町の大部分であるオーデル川より東側の地区は戦後、ポーランドの統治下に置かれ、ポーランド語名でコストシンと呼ばれるようになった。コストシンにまだ残っていたドイツ人は追いやられ([[ドイツ人追放]])、代わりに{{仮リンク|ソビエト連邦領から追い出されたポーランド人(1944-1946)|en|Polish population transfers (1944–1946)}}が移り住んだ。若き日のフリードリヒ大王が監禁された城塞を含む旧市街は崩れ落ち、そこの煉瓦はポーランドの他の街などの建設に再利用された。近年、旧キュストリンの姿で町の一部を史実に基づいて再建する計画が討論されているが、まだ具体化されていない。
[[第二次世界大戦]]勃発時、住民数は24,000だった。
郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区のつである{{仮リンク|ドジェビツェ|en|Drzewice}})には、主に[[フランス人]]、[[イタリア人]]と[[ソビエト連邦]]の捕虜が収容された、[[ナチズム|ナチス]]の[[ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為#捕虜収容所の一部|捕虜収容所]]{{仮リンク|Stalag III-C|en|Stalag III-C Alt-Drewitz}}があった。
[[1943年]]から[[1945年]]には、いくつかの強制労働収容所と[[ザクセンハウゼン強制収容所]]の施設の一部が置かれていた。
鉄道網が集積し32の工場があったことから、[[連合国 (第二次世界大戦)]]から空爆された。
また[[オーデル・ナイセの戦い]]と[[ゼーロウ高地の戦い]]においてドイツ軍がオーデル川東岸部の橋頭保にしたことで、1945年3月11日[[赤軍]]に制圧された時には建物の約95%と32工場全ては破壊されていて完全に瓦礫の山と化していた。



荒廃したキュストリンは[[ポツダム会談]]の決定によりオーデル川で分断されて、町の大部分であるオーデル川より東側の地区は戦後、ポーランドの統治下におかれてポーランド語名のコストシンと呼ばれるようになった。
コストシンにまだ残っていたドイツ人は追いやられて([[ドイツ人追放]])、代わりに{{仮リンク|ソビエト連邦領から追い出されたポーランド人(1944-1946)|en|Polish population transfers (1944–1946)}}が移り住んだ。
若き日のフリードリッヒ大王が監禁された城塞を含む旧市街は崩れ落ち、そこのレンガはポーランドのどこか他の街などの建設に再利用された。
近年、旧キュストリンの姿で町の一部を史実に基づいて再建する計画が討論されているが、まだ具体化されていない。
[[File:2011-08 Woodstock 59.jpg|left|thumb|150px|プレジィスタネク・ウッドストック 2011年]]
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[[2004年]]からコストシンでは年に一度、ヨーロッパ最大で、世界的にも最大レベルの野外音楽フェスティバルである{{仮リンク|プレジィスタネク・ウッドストック|en|Przystanek Woodstock}}が、夏季に開催されている。
[[2004年]]からコストシンでは年に一度、ヨーロッパ最大で、世界的にも最大レベルの野外音楽フェスティバルである{{仮リンク|プレジィスタネク・ウッドストック|en|Przystanek Woodstock}}が、夏季に開催されている。


なお旧キュストリンの一部だったオーデル川より西側の地区はドイツ領に残り、郊外の村落だった{{仮リンク|キュストリンキーツ|en|Küstrin-Kietz}}を合併して現在{{仮リンク|キュストリーナー・フォルラント|en|Küstriner Vorland}}と呼ばれる。[[2005年]]の住民数は2,953である。








なお旧キュストリンの一部だったオーデル川より西側の地区はドイツ領に残り、郊外の村落だった{{仮リンク|キュストリンキーツ|en|Küstrin-Kietz}}を合併して現在'''{{仮リンク|キュストリーナー・フォルラント|en|Küstriner Vorland}}'''と呼ばれ[[2005年]]の住民数は2,953である。


=== 年代別の住民数 ===
=== 年代別の住民数 ===
* 1900年: 駐屯兵含めて16,473、その[[カトリック教会|ローマカトリック教徒]] 1,095、[[ユダヤ人]] 143
* 1900年: 駐屯兵含めて16,473、そのうち[[カトリック教会|カトリック教徒]]1,095、[[ユダヤ人]]143
* 1925年: 約19,500、その内ローマカトリック教徒 おおよそ1,800、ユダヤ人 120
* 1925年: 約19,500、そのうちカトリック教徒おおよそ1,800、ユダヤ人120
* 1939年: 約24,000
* 1939年: 約24,000
* 1971年: 約11,000
* 1971年: 約11,000


== 有名な出身者 ==
== 有名な出身者 ==
*{{仮リンク|カスパー・フォン・バース|en|Kaspar von Barth}} (1587年-1658年) [[ブランデンブルク=プロイセン]]の言語学者
*{{仮リンク|カスパー・フォン・バース|en|Kaspar von Barth}}(1587 - 1658年) - [[ブランデンブルク=プロイセン]]の言語学者
*{{仮リンク|フィリップ・フォン・ストッシュ|en|Philipp von Stosch}} (1691年-1757年) [[プロイセン王国]]の古物商
*{{仮リンク|フィリップ・フォン・ストッシュ|en|Philipp von Stosch}}(1691 - 1757年[[プロイセン王国]]の古物商
*[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]] (1849年-1930年) [[ドイツ帝国]]の[[元帥 (ドイツ)#海軍元帥|海軍元帥]]
*[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]](1849 - 1930年) - [[ドイツ帝国]]の[[元帥 (ドイツ)#海軍元帥|海軍元帥]]
*[[フェードア・フォン・ボック]] (1880年-1945年) [[ドイツ陸軍 (国防軍)]]の[[元帥 (ドイツ)]]
*[[フェードア・フォン・ボック]](1880 - 1945年) - [[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ国防陸軍]]の[[元帥 (ドイツ)|元帥]]
*{{仮リンク|ゲルハルト・マッキィ|en|Gerhard Matzky}} (1894–1983年) [[ドイツ陸軍 (ドイツ連邦軍)]]の[[大将]]
*{{仮リンク|ゲルハルト・マッキィ|en|Gerhard Matzky}}(1894年 – 1983) - [[ドイツ陸軍 (ドイツ連邦軍)|ドイツ連邦陸軍]]の[[大将]]
*ポーランド代表サッカー選手

**[[ダリウシュ・ドゥドゥカ]](1983 - ) - [[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]、主な在籍クラブチーム:[[AJオル]]
ポーランド代表サッカー選手
*[[ダウシュドゥドゥカ]] (1983生まれ) [[ディフェンダー (サッカー)]]、主な在籍クラブチーム:[[AJオセール]]
**{{仮ンク|グレゼゴルツボジュコビァク|en|Grzegorz Wojtkowiak}}(1984- ) - ディフェンダー、主な在籍クラブチーム:[[レフ・ポズナン]]
*{{仮リンク|グレゼゴルツ・ボジコビク|en|Grzegorz Wojtkowiak}} (1984年生まれ) [[ディフェンダー (サッカー)]]、主な在籍クラブチーム:[[レフ・ポズ]]
**[[ウカシ・フビアンスキ]](1985年 - ) - [[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]、主な在籍クラブチーム:[[アーセルFC]]
*[[ウシュ・ファビアンスキ]] (1985生まれ) [[ゴールキーパー (サッカー) ]]、主な在籍クラブチーム:[[アーFC]]


== 姉妹都市 ==
== 姉妹都市 ==
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2013年1月24日 (木) 10:57時点における版

コストシン・ナド・オドロン

Kostrzyn nad Odrą
コストシン・ナド・オドロンの旗
コストシン・ナド・オドロンの紋章
紋章
コストシン・ナド・オドロンの位置(ポーランド内)
コストシン・ナド・オドロン
コストシン・ナド・オドロン
北緯52度35分18秒 東経14度40分0秒 / 北緯52.58833度 東経14.66667度 / 52.58833; 14.66667
Country ポーランドの旗 ポーランド
Voivodeship Lubusz
County Gorzów
Gmina Kostrzyn nad Odrą (urban gmina)
Established 13th century
Town rights 1300
政府
 • Mayor Andrzej Kunt
面積
 • 合計 46.17 km2
人口
(2007)
 • 合計 19,952人
 • 密度 430人/km2
等時帯 UTC+1 (CET)
 • 夏時間 UTC+2 (CEST)
Postal code
66-470
市外局番 +48 95
Car plates FGW
ウェブサイト 公式ウェブサイト

コストシン・ナド・オドロンポーランド語: Kostrzyn nad Odrą)は、ポーランド西部のルブシュ県ゴジュフ郡英語版オーデル川ヴァルタ川の合流点にある、ドイツとの国境に接する町である。2007年の住民数19,952名。

第二次世界大戦終結までは、以前のプロイセン王国ブランデンブルク州英語版にあったドイツの町で、キュストリンドイツ語: KüstrinまたはCüstrin)と呼ばれていた。ベルリンから約65km東方に位置していて、16世紀以降その戦略的重要性から町の内外に要塞が構築されていった。独ソ戦末期の1945年に壮絶な戦闘が行われた結果、城壁で囲まれていた旧市街は完全に破壊され、未だに再建されていない。戦後、連合国 (第二次世界大戦)ポツダム協定に基づきオーデル・ナイセ線に沿った新しい国境線を引いたので、キュストリンならびに東ブランデンブルク英語版地方は、ドイツ民主共和国ポーランド人民共和国の間で分割された。

歴史

おおよそ960年から1200年まで、代々のポーランド公はこの地に城を築いて領地として治めていた。ポーランド公ミェシュコ1世ツェディニャ英語版への遠征(ツェディニャの戦い英語版)の際に、戦略的重要な拠点としてこの地を活用した。子のボレスワフ1世も、この地でバウツェンを征服する戦争の準備をした。12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。

1223年ヴワディスワフ・オドニツ王子からテンプル騎士団へこの地は与えられたが、1261年ブランデンブルク辺境伯に奪われた。ちなみに1232年チュートン騎士団へのポーランド語の手紙に、古いスラヴ語Cozsterine と明記されており、これが キュストリン/コストシン という地名が記録に残されている最古のものである。

キュストリン遠景 マテウス・メーリアン画 1652年

ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト3世英語版によって、キュストリンへ1300年には既にマクデブルク法が適用されており、河川を使った貿易が大規模に行われるようになって町は急速に発展した。

ブランデンブルク=キュストリン辺境伯ヨハンは城を築いて居城にし、1535年から死去する1571年まで東ブランデンブルク英語版地方の都となっていた。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。

塔の窓からカッテの処刑を止めさせようとするフリードリヒ王子

後にプロイセン国王フリードリヒ2世(大王)として即位することになるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近であるハンス・ヘルマン・フォン・カッテと、プロイセン王国からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって1730年9月にこの城塞内の塔に監禁されている。同年11月6日、王子が閉じ込められていた塔の傍でカッテは処刑され、王子はその刑の執行を房の窓から見ているよう言いつけられていた。王子は父王から、牢から出されてもキュストリンに留められて、そこの役人から地方と都市の行政について学ぶよう命じられた。それから28年後、七年戦争中の1758年8月25日にフリードリヒ大王は自ら軍を率いて、ベルリンに迫りつつあるロシア帝国軍をキュストリンの北東10kmで迎撃し、ツォルンドルフの戦いが行われた。

ナポレオン戦争中の1806年にフランスに占領され、フランス軍の支配下に置かれた。フランス軍がロシア遠征している1814年に大火に見舞われたが、その後に復興し、プロイセン王国ならびドイツ帝国の鉄道網の重要な集積拠点の一つとなった。鉄道は1857年ベルリンフランクフルト・アン・デア・オーダーに接続し、1875年にはポメラニアの沿岸都市シュチェチンにつながった。1900年、住民数は駐屯兵を含めて16,473人に達した。

ファイル:LuftbildKuestrin.jpg
キュストリンの俯瞰 1930年

第二次世界大戦勃発時、住民数は24,000人だった。 郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区の一つであるドジェビツェ英語版)には、主にフランス人イタリア人ソビエト連邦の捕虜が収容された、ナチス捕虜収容所Stalag III-C英語版があった。1943年から1945年には、いくつかの強制労働収容所とザクセンハウゼン強制収容所の施設の一部が置かれていた。鉄道網が集積し、32の工場があったことから、連合軍の空爆を受けた。またオーデル・ナイセの戦いゼーロウ高地の戦いにおいて、ドイツ軍がオーデル川東岸部の橋頭保にしたことで、1945年3月11日に赤軍に制圧された時には建物の約95%と32工場全てが破壊され、完全に瓦礫の山と化した。

荒廃したキュストリンは、ポツダム会談の決定によりオーデル川で分断され、町の大部分であるオーデル川より東側の地区は戦後、ポーランドの統治下に置かれ、ポーランド語名でコストシンと呼ばれるようになった。コストシンにまだ残っていたドイツ人は追いやられ(ドイツ人追放)、代わりにソビエト連邦領から追い出されたポーランド人(1944-1946)英語版が移り住んだ。若き日のフリードリヒ大王が監禁された城塞を含む旧市街は崩れ落ち、そこの煉瓦はポーランドの他の街などの建設に再利用された。近年、旧キュストリンの姿で町の一部を史実に基づいて再建する計画が討論されているが、まだ具体化されていない。

プレジィスタネク・ウッドストック 2011年
sealing stamp
破壊されたままの旧街路 2006年

2004年からコストシンでは年に一度、ヨーロッパ最大で、世界的にも最大レベルの野外音楽フェスティバルであるプレジィスタネク・ウッドストック英語版が、夏季に開催されている。

なお、旧キュストリンの一部だったオーデル川より西側の地区はドイツ領に残り、郊外の村落だったキュストリンキーツ英語版を合併して、現在キュストリーナー・フォルラント英語版と呼ばれる。2005年の住民数は2,953人である。

年代別の住民数

  • 1900年: 駐屯兵含めて16,473人、そのうちカトリック教徒1,095人、ユダヤ人143人。
  • 1925年: 約19,500人、そのうちカトリック教徒おおよそ1,800人、ユダヤ人120人。
  • 1939年: 約24,000人。
  • 1971年: 約11,000人。

有名な出身者

姉妹都市

座標: 北緯52度35分18秒 東経14度39分00秒 / 北緯52.58833度 東経14.65000度 / 52.58833; 14.65000