コンテンツにスキップ

「真鍋儀十」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
一部を加筆・修正。
41行目: 41行目:
'''真鍋 儀十'''(まなべ ぎじゅう、[[1891年]](明治24年)[[9月16日]] - [[1982年]](昭和57年)[[4月29日]])は[[日本]]の[[政治家]]、[[俳句|俳人]]、文学研究家。[[松尾芭蕉]]の研究家として知られ、そのコレクションは[[江東区]]芭蕉記念館に寄付された。[[高浜虚子]]に師事、「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」同人。俳号は蟻十。
'''真鍋 儀十'''(まなべ ぎじゅう、[[1891年]](明治24年)[[9月16日]] - [[1982年]](昭和57年)[[4月29日]])は[[日本]]の[[政治家]]、[[俳句|俳人]]、文学研究家。[[松尾芭蕉]]の研究家として知られ、そのコレクションは[[江東区]]芭蕉記念館に寄付された。[[高浜虚子]]に師事、「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」同人。俳号は蟻十。


== 歴 ==
== ・人物 ==
[[長崎県]][[壱岐郡]]箱崎村(現[[壱岐市]][[芦辺町]])生まれた。長崎師範学校(現・[[長崎大学]][[教育学部]])卒業後[[明治大学]][[法学部]]に入学。大学在学中から[[普選運動]]にかかわり、[[1920年]](大正9年)[[憲政会]]に入党。六十数回の拘禁を受けながら[[1930年]](昭和5年)旧東京4区から[[立憲民政党]]公認で[[第17回衆議院議員総選挙]]に立候補し初当選、戦前に5回の当選を果たす。政党解消後の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]では[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]の推薦候補として当選。戦後は[[日本進歩党]]の結成に参加するものの[[公職追放]]される。
[[長崎県]][[壱岐郡]]箱崎村(現[[壱岐市]][[芦辺町]])生まれた。長崎師範学校(現・[[長崎大学]][[教育学部]])卒業後[[明治大学]][[法学部]]に入学。大学在学中から[[普選運動]]にかかわり、[[1920年]](大正9年)[[憲政会]]に入党。六十数回の拘禁を受けながら[[1930年]](昭和5年)旧東京4区から[[立憲民政党]]公認で[[第17回衆議院議員総選挙]]に立候補し初当選、戦前に5回の当選を果たす。政党解消後の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]では[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]の推薦候補として当選。戦後は[[日本進歩党]]の結成に参加するものの[[公職追放]]される。


追放解除後は[[改進党]]公認で[[1952年]](昭和27年)の[[第25回衆議院議員総選挙]]とその翌年の[[第26回衆議院議員総選挙]]に[[東京都第6区 (中選挙区)|東京都第6区]]から出馬して落選するが、[[1955年]](昭和30年)の[[第27回衆議院議員総選挙]]では[[日本民主党]]公認で当選し政界に返り咲く。民主党内では[[大麻唯男]]・[[宮沢胤勇]]・[[野田武夫]]・[[小泉純也]]・[[浜野清吾]]・[[山本粂吉]]・[[中村庸一郎]]ら旧民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、[[保守合同]]ののち内閣売春対策審議委員となる。大麻の死後、他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。[[1957年]](昭和32年)[[10月30日]]、[[特別捜査部#東京地方検察庁特別捜査部|東京地検特捜部]]に[[売春汚職事件]]の容疑者として逮捕される。翌[[1958年]](昭和33年)[[9月9日]]に[[東京地方裁判所|東京地裁]]で有罪の判決。1958年(昭和33年)の[[第28回衆議院議員総選挙]]と[[1960年]](昭和35年)の[[第29回衆議院議員総選挙]]にも立候補するが落選、政界から引退。
追放解除後は[[改進党]]公認で[[1952年]](昭和27年)の[[第25回衆議院議員総選挙]]とその翌年の[[第26回衆議院議員総選挙]]に[[東京都第6区 (中選挙区)|東京都第6区]]から出馬して落選するが、[[1955年]](昭和30年)の[[第27回衆議院議員総選挙]]では[[日本民主党]]公認で当選し政界に返り咲く。民主党内では[[大麻唯男]]・[[宮沢胤勇]]・[[野田武夫]]・[[小泉純也]]・[[浜野清吾]]・[[山本粂吉]]・[[中村庸一郎]]ら旧民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、[[保守合同]]ののち内閣売春対策審議委員となる。大麻の死後、他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。[[1957年]](昭和32年)[[10月30日]]、[[特別捜査部|東京地検特捜部]]に[[売春汚職事件]]の容疑者として逮捕される。翌[[1958年]](昭和33年)[[9月9日]]に[[東京地方裁判所|東京地裁]]で有罪の判決。1958年(昭和33年)の[[第28回衆議院議員総選挙]]と[[1960年]](昭和35年)の[[第29回衆議院議員総選挙]]にも立候補するが落選、政界から引退。


一方、戦後自宅の庭で[[幼稚園]]経営を始める。園の前には銅像が建ち、そこには「[[ビリヤード|撞球]]純正スポーツ化の父」との[[岸信介]]による揮毫がある。これは1955年(昭和30年)にビリヤードを[[風俗営業法]]適用対象外とし、健全なスポーツへ転化することに尽力した功績を讃えたものである。なお、生地壱岐市芦辺町瀬戸浦の少弐公園にも銅像がある。
一方、戦後自宅の庭で[[幼稚園]]経営を始める。園の前には銅像が建ち、そこには「[[ビリヤード|撞球]]純正スポーツ化の父」との[[岸信介]]による揮毫がある。これは1955年(昭和30年)にビリヤードを[[風俗営業法]]適用対象外とし、健全なスポーツへ転化することに尽力した功績を讃えたものである。なお、生地壱岐市芦辺町瀬戸浦の少弐公園にも銅像がある。

1982年(昭和57年)4月29日死去。[[享年]]90。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2013年2月3日 (日) 02:12時点における版

真鍋 儀十
まなべ ぎじゅう
生年月日 1891年9月16日
出生地 長崎県壱岐市
没年月日 (1982-04-29) 1982年4月29日(90歳没)
死没地 東京都江東区
出身校 長崎師範学校
明治大学
所属政党憲政会→)
立憲民政党→)
翼賛政治会→)
日本進歩党→)
(無所属→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党

選挙区 東京都第6区
当選回数 1回
在任期間 1955年2月28日 - 1958年9月9日

選挙区 東京府第4区
当選回数 5回
在任期間 1930年2月21日 - 1945年12月18日
テンプレートを表示

真鍋 儀十(まなべ ぎじゅう、1891年(明治24年)9月16日 - 1982年(昭和57年)4月29日)は日本政治家俳人、文学研究家。松尾芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付された。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。

来歴・人物

長崎県壱岐郡箱崎村(現壱岐市芦辺町)生まれた。長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)卒業後明治大学法学部に入学。大学在学中から普選運動にかかわり、1920年(大正9年)憲政会に入党。六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)旧東京4区から立憲民政党公認で第17回衆議院議員総選挙に立候補し初当選、戦前に5回の当選を果たす。政党解消後の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。戦後は日本進歩党の結成に参加するものの公職追放される。

追放解除後は改進党公認で1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙とその翌年の第26回衆議院議員総選挙東京都第6区から出馬して落選するが、1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙では日本民主党公認で当選し政界に返り咲く。民主党内では大麻唯男宮沢胤勇野田武夫小泉純也浜野清吾山本粂吉中村庸一郎ら旧民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、保守合同ののち内閣売春対策審議委員となる。大麻の死後、他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。1957年(昭和32年)10月30日東京地検特捜部売春汚職事件の容疑者として逮捕される。翌1958年(昭和33年)9月9日東京地裁で有罪の判決。1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙にも立候補するが落選、政界から引退。

一方、戦後自宅の庭で幼稚園経営を始める。園の前には銅像が建ち、そこには「撞球純正スポーツ化の父」との岸信介による揮毫がある。これは1955年(昭和30年)にビリヤードを風俗営業法適用対象外とし、健全なスポーツへ転化することに尽力した功績を讃えたものである。なお、生地壱岐市芦辺町瀬戸浦の少弐公園にも銅像がある。

1982年(昭和57年)4月29日死去。享年90。

外部リンク