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「越後北条氏」の版間の差分

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2006年2月25日 (土) 04:17時点における版

越後北条氏(きたじょうし)は、大江系毛利氏の系統を受け継ぐ日本の氏族。

大江広元の息子である相模国の毛利季光が、宝治合戦で反鎌倉幕府軍に加わり討ち死にした。だが季光の息子の毛利経光は乱に加わっていなかったので、越後国佐橋庄と安芸国吉田庄を安堵された。

経光の息子の毛利時親は、南北朝の争いが起きると子や孫を引き連れ安芸吉田に移り、時親の次男の毛利道幸が越後に残った。道幸のあとは一族である経高が継いだと言われている。この頃に本拠を北条に移し、北条氏を名乗ったようだ。

略系図

北条経高北条円阿北条長広北条朝阿北条広栄北条重広北条広栄北条輔広北条広春北条高広北条景広