「ニコライ・ネフスキー」の版間の差分
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*加藤九祚「ネフスキー」、『[[国史大辞典]] 15巻』に収録([[吉川弘文館]]、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9 |
*加藤九祚「ネフスキー」、『[[国史大辞典]] 15巻』に収録([[吉川弘文館]]、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9 |
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2013年3月15日 (金) 03:25時点における版
ニコライ・ネフスキー(Nikolai Aleksandrovich Nevsky, ロシア語 : Николай Александрович Невский, 1892年3月2日(ロシア暦:2月18日) - 1937年11月24日)は、ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。夫人は日本人。
経歴
ヤロスラヴリ出身。1914年、ペテルブルク大学東洋学部中国・日本学科卒業後、日本に留学するが、ロシア革命によって帰国を断念して小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)・大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)で教鞭を執る。その間、柳田国男・折口信夫・中山太郎・石浜純太郎らと親交を結び、日本民俗学・アイヌ語・宮古島方言・ツォウ語・西夏語などの研究を行った。1925年に北海道出身の萬谷イソと結婚する。
1929年、ソビエト連邦共和国となった祖国に帰国し、レニングラード大学(旧ペテルブルク大学)の教授となるが、1937年10月4日、日本のためにスパイ活動を行ったとして妻とともに逮捕され、翌月レニングラードにおいて夫妻は「国家叛逆罪」で粛清(銃殺刑)された(スターリン粛清)。その後のスターリン批判によって1957年11月14日に夫妻の名誉回復がなされ、1962年には生前の業績に対してレーニン賞が授与された。
関連文献
- 加藤九祚 『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』 河出書房新社, 1976/ 完本版 同,2011
初版(大佛次郎賞受賞)では、没年を1945年と記載していたが、その後の関係者の調査で1937年であることが判明した。新版で「死の真相」解明と、遺族(長年の交流がある)や関係者たちのその後を増補した。 - ネフスキー自身による論考集 『月と不死』(平凡社東洋文庫)、編・解説は加藤
- 日本経済新聞、2012年11月13日(火)夕刊、「東洋学者ネフスキー 生誕120年 言語の才人 遺産は多彩」
参考文献
- 加藤九祚「ネフスキー」、『国史大辞典 15巻』に収録(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9