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およそ7年続いた。主戦場となったのは、[[バスク地方|バスク]]、[[アラゴン州|アラゴン]]、[[カタルーニャ]]、[[バレンシア州|バレンシア]]であった。
およそ7年続いた。主戦場となったのは、[[バスク地方|バスク]]、[[アラゴン州|アラゴン]]、[[カタルーニャ]]、[[バレンシア州|バレンシア]]であった。


カルロス5世を支持するカルリスタは独自の統治機関や軍隊を有し、スペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであった。しかし、このカルリスタは統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こした。それが原因して徐々に勢力を減じ、[[1839年]]には降伏して、イサベルの王位が確定した。
カルロス5世を支持するカルリスタは独自の統治機関や軍隊を有し、スペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであった。しかし、このカルリスタは統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こした。それが原因して徐々に勢力を減じ、[[1839年]]には降伏して、イサベルの王位が確定した。


===第二次カルリスタ戦争===
===第二次カルリスタ戦争===

2013年4月3日 (水) 10:49時点における版

カルリスタが掲げたブルゴーニュ十字
カルリスタ戦争

1835年、メンドゴリアの戦い
戦争
年月日1833年から1876年
場所スペイン
結果イサベル2世派の勝利。
交戦勢力
スペイン軍 カルリスタ軍
指導者・指揮官
マリア・クリスティーナ カルロス5世


カルリスタ戦争スペイン語ガリシア語Guerras Carlistasバスク語Gerra Karlistakカタルーニャ語Guerres Carlines)は1833年から1876年まで3次にわたって続いた、スペインの王位継承をめぐる戦争である。だが、王位継承戦争としての形は取りつつも戦争の実態は復古(レジティミスムカトリシズム)か革新(自由主義)か、ナポレオン戦争後のスペインの新しい時代の体制をめぐる戦争でもあった。

背景

ナポレオン戦争後のウィーン体制ではボルボン家フェルナンド7世がスペイン国王に復位した。フェルナンド7世は絶対君主制の復活など反動的な政治を行った。それに対してスペイン立憲革命などの反発が起こったが、神聖同盟の支援で鎮圧した。フェルナンド7世の旧態依然とした支配体制は1833年9月29日に彼が死ぬまで続いた。

王位継承問題

フェルナンド7世には王子がなく、幼いイサベル王女ルイサ・フェルナンダ王女がいるのみであった。サリカ法典を基礎とした「王位継承法」では後継は弟のドン・カルロスに約束されていた。しかしフェルナンドは1830年に1830年国事勅令en)を布告し、サリカ法典を廃止した。ドン・カルロスはポルトガルに追放され、イサベルが王位継承者となった。

1833年9月29日にフェルナンド7世が死ぬと、わずか3歳のイサベルが、摂政皇太后マリア・クリスティーナの補佐のもとイサベル2世(在位:1833年 - 1868年)として即位した。

これを承服しない王弟ドン・カルロスは10月1日に、ポルトガルで国王即位を宣言し、カルロス5世を称した。これを受けてバスク地方ナバーラでカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起き、内戦に突入した。

復古か革新か

カルロス5世は絶対君主制の維持や社会制度、経済構造でも復古を唱えた。一方、イサベル女王を戴くマドリード政府は、先王の主義を改め、自由主義を標榜した。この内戦は王位継承戦争だけではなく、スペインの体制を左右する意味を帯びていた。

戦争

第一次カルリスタ戦争

およそ7年続いた。主戦場となったのは、バスクアラゴンカタルーニャバレンシアであった。

カルロス5世を支持するカルリスタは独自の統治機関や軍隊を有し、スペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力下におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであった。しかし、このカルリスタは統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こした。それが原因して徐々に勢力を減じ、1839年には降伏して、イサベルの王位が確定した。

第二次カルリスタ戦争

1846年から1849年まで続いたカタルーニャの反乱でもあった。暴徒はモンテモリン伯カルロスカルロス6世として王位につけようとした。ガリシアで起きた反乱は、ラモン・マリア・ナルバエス将軍が鎮圧した。

第三次カルリスタ戦争

1868年にイサベル2世が退位しフランスへ亡命すると、コルテスはサヴォイア家アマデオ1世即位を決定した。1872年の選挙で政権側がカルリスタ側の候補に暴力的な妨害を行い、カルリスモに揺さぶりを掛けた。マドリード公カルロスカルロス7世を宣言して戦争が始まり、1876年まで続いた。

戦争の後

この戦争の間、マドリードの政府では自由主義に基づいた改革が行われた。憲法の制定、教会財産の没収と売却。教会の10分の1税の廃止。封建的領主制度の廃止。営業自由の確立などである。この改革にはブルジョワ階級の支持を得ることが目的であるが、同時に復古主義者たちの基盤を突き崩すことにもなった。この結果、スペインは近代国家としての装いを整えることになる。

戦争後も「カルリスタ」たちは反乱を起こし、スペインの保守主義と伝統主義を糾合する軸として、20世紀まで存続する。

関連項目