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「寧夏省」の版間の差分

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この地が[[寧夏]]と呼ばれるようになったのは[[1227年]][[元 (王朝)|元朝]]により[[西夏]]が滅ぼされ、「西夏平定、永遠の安寧」の願いを込め[[寧夏行省]]が設置されたことに始まる。[[明|明代]]には[[寧夏衛]]が設置されたが、[[清|清代]]には[[甘粛省]]の一部分とされた。
この地が[[寧夏]]と呼ばれるようになったのは[[1227年]][[元 (王朝)|元朝]]により[[西夏]]が滅ぼされ、「西夏平定、永遠の安寧」の願いを込め[[寧夏行省]]が設置されたことに始まる。[[明|明代]]には[[寧夏衛]]が設置されたが、[[清|清代]]には[[甘粛省]]の一部分とされた。


[[辛亥革命]]により[[中華民国臨時政府 (南京)|南京国民政府]]が成立した後も寧夏地区は[[甘粛省 (中華民国)|甘粛省]]寧夏道が設置され[[馮玉祥]]の勢力に置かれていた。寧夏省の設置は[[1928年]]([[中華民国暦|民国]]17年)、当時[[中華民国内政部|内政部長]]に就任していた馮系の[[薛篤弼]]により甘粛省より寧夏及び[[青海省 (中華民国)|青海省]]を分割設置する案が提出されたことに始まる。内政部は甘粛省の面積が広大かつ漢蒙が雑居する状態であり統治が困難であり、また開発を推進することを目的とするとその分割設置案の理由を述べている<ref>『内政年鑑』第B 48ページ</ref>。同年10月17日、国民党中央政治会議159次会議で寧夏省の設置が正式に決定、行政区域は甘粛省寧夏道が管轄する8県及び寧夏軍使管轄地とされ<ref>『国民政府公報』第2号 1928年10月27日</ref>、[[1929年]](民国18年)1月1日、寧夏省が成立<ref>『国民政府公報』第80号 1929年1月31日</ref>、省会は[[寧夏県]]に設置された。
[[辛亥革命]]により[[中華民国臨時政府 (南京)|南京国民政府]]が成立した後も寧夏地区は[[甘粛省 (中華民国)|甘粛省]]寧夏道が設置され[[馮玉祥]]の勢力に置かれていた。寧夏省の設置は[[1928年]]([[中華民国暦|民国]]17年)、当時[[中華民国内政部|内政部長]]に就任していた馮系の[[薛篤弼]]により甘粛省より寧夏及び[[青海省 (中華民国)|青海省]]を分割設置する案が提出されたことに始まる。内政部は甘粛省の面積が広大かつ漢蒙が雑居する状態であり統治が困難であり、また開発を推進することを目的とするとその分割設置案の理由を述べている<ref>『内政年鑑』第B 48ページ</ref>。同年10月17日、国民党中央政治会議159次会議で寧夏省の設置が正式に決定、行政区域は甘粛省寧夏道が管轄する8県及び寧夏軍使管轄地とされ<ref>『国民政府公報』第2号 1928年10月27日</ref>、[[1929年]](民国18年)1月1日、寧夏省が成立<ref>『国民政府公報』第80号 1929年1月31日</ref>、省会は[[寧夏県]]に設置された。


[[1945年]]8月、省会は[[銀川市]]に移転<ref>『国民政府公報』渝字第843号 1945年8月29日</ref>、1市13県2設治局を管轄し、また管轄区域にはモンゴル2旗が設置されていた。
[[1945年]]8月、省会は[[銀川市]]に移転<ref>『国民政府公報』渝字第843号 1945年8月29日</ref>、1市13県2設治局を管轄し、また管轄区域にはモンゴル2旗が設置されていた。

2013年4月3日 (水) 10:53時点における版

中華民国 寧夏省
1928年 - 1949年
簡称:


寧夏省の位置
寧夏省の位置
寧夏省の位置
簡体字 宁夏
繁体字 寧夏
拼音 Níngxiān
カタカナ転記 ニンシャー
国家 中華民国
行政級別
政府所在地 銀川市
建置 1227年
廃止 1249年 
面積
- 総面積 233,320 km²
人口

寧夏省(ねいか-しょう)は中華民国でかつて設置された省級行政区画。現在の寧夏回族自治区全域及び内モンゴル自治区一部の区域に設置されていた。

歴史

この地が寧夏と呼ばれるようになったのは1227年元朝により西夏が滅ぼされ、「西夏平定、永遠の安寧」の願いを込め寧夏行省が設置されたことに始まる。明代には寧夏衛が設置されたが、清代には甘粛省の一部分とされた。

辛亥革命により南京国民政府が成立した後も寧夏地区は甘粛省寧夏道が設置され馮玉祥の勢力下に置かれていた。寧夏省の設置は1928年民国17年)、当時内政部長に就任していた馮系の薛篤弼により甘粛省より寧夏及び青海省を分割設置する案が提出されたことに始まる。内政部は甘粛省の面積が広大かつ漢蒙が雑居する状態であり統治が困難であり、また開発を推進することを目的とするとその分割設置案の理由を述べている[1]。同年10月17日、国民党中央政治会議159次会議で寧夏省の設置が正式に決定、行政区域は甘粛省寧夏道が管轄する8県及び寧夏軍使管轄地とされ[2]1929年(民国18年)1月1日、寧夏省が成立[3]、省会は寧夏県に設置された。

1945年8月、省会は銀川市に移転[4]、1市13県2設治局を管轄し、また管轄区域にはモンゴル2旗が設置されていた。

1949年9月23日、共産党軍は銀川市を「解放」、中華人民共和国が成立すると寧夏省は廃止され甘粛省の所管とされたが、1958年旧寧夏省南部20%の地域に寧夏回族自治区が、北部80%は内モンゴル自治区阿拉善和碩特特別旗額済納旧土爾扈特特別旗(現在のアラシャン盟)が設置された。

行政区画

下部行政区画は下記の通り

脚注

  1. ^ 『内政年鑑』第B 48ページ
  2. ^ 『国民政府公報』第2号 1928年10月27日
  3. ^ 『国民政府公報』第80号 1929年1月31日
  4. ^ 『国民政府公報』渝字第843号 1945年8月29日