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「大東亜戦争」の版間の差分

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大日本帝国[[逓信省]](現在の[[日本郵便]])および日本の勢力下にあった各地で大東亜戦争を記念する切手や葉書が発行されている。日本では[[1942年]](昭和17年)12月8日に記念切手を発行しており、[[寄附金付切手|寄附金付]][[記念切手]]は、[[真珠湾]]と[[バターン半島]]の戦場を描いたものであったが、切手の題名は「大東亜戦争第一周年記念」と表記されており、開戦1周年目としていた。また[[1943年]](昭和18年)12月8日には二周年記念葉書として「大東亜戦争記念報国葉書第1集」を発行しており、埴輪の武人の額面つきの官製はがきの裏面にハワイ、香港、シンガポールの戦場を描いた図案で10銭の国防献金を含む30銭で販売した<ref>島田建造著、友岡正孝編「カラー復刻版日本記念葉書総図鑑」、2009年、50頁</ref>。また10銭の普通切手として大東亜共栄圏の地図を描く図案のものを発行している。
大日本帝国[[逓信省]](現在の[[日本郵便]])および日本の勢力下にあった各地で大東亜戦争を記念する切手や葉書が発行されている。日本では[[1942年]](昭和17年)12月8日に記念切手を発行しており、[[寄附金付切手|寄附金付]][[記念切手]]は、[[真珠湾]]と[[バターン半島]]の戦場を描いたものであったが、切手の題名は「大東亜戦争第一周年記念」と表記されており、開戦1周年目としていた。また[[1943年]](昭和18年)12月8日には二周年記念葉書として「大東亜戦争記念報国葉書第1集」を発行しており、埴輪の武人の額面つきの官製はがきの裏面にハワイ、香港、シンガポールの戦場を描いた図案で10銭の国防献金を含む30銭で販売した<ref>島田建造著、友岡正孝編「カラー復刻版日本記念葉書総図鑑」、2009年、50頁</ref>。また10銭の普通切手として大東亜共栄圏の地図を描く図案のものを発行している。


また、日本の勢力にあった[[満州国]]では1942年に中国語で「興亜はこの日より/興亜自期日」との加刷切手を発行<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」87頁</ref>したほか、フィリピンでも同様に発行された<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」204頁</ref>。また1943年には[[蒙古聯合自治政府]]が日本製の大東亜戦争二周年記念切手2種を発行している<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」126頁</ref>。
また、日本の勢力にあった[[満州国]]では1942年に中国語で「興亜はこの日より/興亜自期日」との加刷切手を発行<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」87頁</ref>したほか、フィリピンでも同様に発行された<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」204頁</ref>。また1943年には[[蒙古聯合自治政府]]が日本製の大東亜戦争二周年記念切手2種を発行している<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」126頁</ref>。


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2013年4月3日 (水) 10:56時点における版

「大東亜戦争第一周年記念」として日本勧業銀行が販売した「戦時報国債券」

大東亜戦争(だいとうあせんそう、旧字体大東亞戰爭: Greater East Asia War)は、日本大日本帝国)がアメリカ合衆国イギリス中華民国などの連合国と行った戦争。本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。

概要

1941年昭和16年)12月8日マレー作戦及び真珠湾攻撃後、同年12月12日東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称定義が定められた。日本政府の宣戦布告は当初2国に対して行われたが、閣議決定では「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭」を「支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱」するとなっているため、支那事変日中戦争)、対戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含む[1]。なお、1942年(昭和17年)2月28日の大本営政府連絡会議に於いて「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スヘキ大東亜ノ地域」を決定し、大東亜の地域を「日満支及東経九十度ヨリ東経百八十度迄ノ間ニ於ケル南緯十度以北ノ南方諸地域、其他ノ諸地域ニ関シテハ情勢ノ推移ニ応シ決定ス」と規定した[2]

一方で、大東亜戦争は太平洋戦争と同義であると認識されることも多い。これは、閣議決定にある「支那事變ヲモ含メ」という文言をいかに解釈するかという問題で、大東亜戦争の中に、1937年(昭和12年)7月7日からの支那事変の全期間を含むと考えるのか、1941年(昭和16年)12月8日以降の中国大陸における戦闘のみを含むと考えるかの違いによって生起している。

戦時中の呼称

日本の呼称

第二次世界大戦中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を「大東亜戦争」と呼称していた。この呼称は1941年(昭和16年)12月10日の大本営政府連絡会議によって決定され、同年12月12日に閣議決定された。閣議決定「今次戰爭ノ呼稱並ニ平戰時ノ分界時期等ニ付テ」[3]は、その第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。同日情報局より「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、この戦争はアジア諸国における欧米植民地支配の打倒を目指すものであると規定した[4]。この方針は1943年(昭和18年)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。

「大東亜戦争」の呼称はもともとは陸軍案として1941年(昭和16年)12月10日の大本営政府連絡会議に提出されたものである。海軍は呼称を決定する大本営政府連絡会議の席上で「太平洋戦争あるいは対米英戦争等」の呼称案を提出したが、陸軍側が「支那事変を含めるとなると適当ではない」と主張したため、採用されなかった[5]

対米英宣戦布告前から、日本の中央部では将来発生する可能性の高い戦争を「対米英蘭戦争」、「対米英蘭戦争」、「対英米蘭戦争」などと呼んでいた。ただし、対オランダに関しては、1941年(昭和16年)12月1日の御前会議で開戦を決定したものの、同年12月8日の「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告までは正式には「対米英蘭戦争」とは呼んでいない。

連合国における呼称

米英などの連合国においては、戦時中から「第二次世界大戦太平洋戦線」と呼称されていた。

戦後の呼称

GHQによる「大東亜戦争」使用の禁止

1945年(昭和20年)8月の日本進駐後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、軍国主義全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行った。その一つが1945年(昭和20年)12月15日付けの日本政府に対する覚書「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ關スル件」(「神道指令」)[6]である。これにより、「大東亜戦争」は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、「八紘一宇」などとともに公文書で使用することが禁止された。

同年12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「太平洋戰爭史」の掲載を開始、さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていった[7][8]

占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策[9]について、文藝評論家の江藤淳はその著書でウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)としている[7]

呼称に対するGHQの検閲

GHQは出版物についても検閲をおこない、「大東亜戦争」表記の排除を図った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられた[10]

占領政策後期に入ると「事前検閲」は「事後検閲」へ変更された。印刷製本済みの出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に不都合な記述(GHQへの批判等)があれば、発禁処分をおこなった。出版社は莫大な損害を蒙ることになるため、自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版しなくなった。江藤淳は、これを「日本人の自己検閲」と呼び、この構造が言論機関に定着するに従い検閲は占領軍によってではなく、日本人自身の手によって行われるようになったと主張している[7]

戦後の法令にみる呼称

GHQの神道指令により、「大東亜戦争」という用語を公文書で使用することは禁止された。しかし、神道指令が講和独立によって失効した後に制定された法令の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。

「今次の戦争」という表現は、「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。

また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である土地のうち太平洋戦争の開始の日から復帰協定の効力発生の日の前日までに築造された道の敷地であったもの…」というくだりが見られるが、その開始日をはじめ「太平洋戦争」に関する定義を欠いている。他の法令も同様である。

なお、「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)等により、法律勅令の文中に「大東亜戦争」の呼称を使用していた物は「今次ノ戦争」と改められている。

呼称を巡る状況

1952年(昭和27年)の講和独立以降も、日本の公教育、公文書作製、言論出版界は「大東亜戦争」はほとんど使用せず、現在「大東亜戦争」を使用している、保守右翼系の作家評論家、雑誌・新聞も、この頃は洩れなく「太平洋戦争」と記述していた(一方、戦中派の一般国民には「大東亜戦争」を用いていた者も多かった)。

このような風潮に対し反抗する著述が、1964年(昭和39年)に出された林房雄『大東亜戦争肯定論』と1967年(昭和42年)に出された名越二荒之助大東亜戦争を見直そう』であった。この2冊の出版に対して、左右両派から賛否の声が挙がり、論議を呼んだ。この2冊はその後も版を重ね、社会主義思想の退潮等の他の要因とも相まって、日本人の先の大戦に関する考え方に少しずつ変化をもたらしていった。現在活動中の保守派知識人の多くが、かつてこの2冊を読んだことを述懐している。

1980年代に、作家の山中恒は、辺境社から出版した『ボクラ少国民』シリーズのなかで、戦争の目的を直視してそれに批判的であるためにあえて「大東亜戦争」の呼称を用いるべきだと主張した。また、時代が平成に変わる前後から「大東亜戦争」が右派系の月刊誌で部分的に使われ始め、1990年(平成2年)に中村粲の『大東亜戦争への道』が出された前後から使用頻度が高くなっている(『諸君!』『正論』『文藝春秋』『Voice』など)。一方、『前衛』や『論座』など左派系の月刊誌で「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほぼ皆無である。

日刊紙では「太平洋戦争」が主流であるが、『産経新聞』は比較的「大東亜戦争」を多用している。『読売新聞』は、2006年(平成18年)8月13日の紙面で、満州事変から太平洋戦争終了までを「昭和戦争」と呼称するよう提唱したが、同紙以外で使用することは極めて稀である。

放送局では、日本放送協会が1969年(昭和44年)1月25日に放送した「日本の美 紅型〜沖縄の染物〜沖縄県」のナレーション内で「大東亜戦争」を使用している。

「大東亜戦争」の呼称に否定的な立場からは、「大東亜戦争」の使用を主張する側が大東亜戦争の思想背景でもある大東亜共栄圏の理念を揚げ、「植民地解放戦争だった」、「良い面もあった」といった見解を示す者が多いこと、「大東亜戦争」の使用が「戦争賛美」、「復古的国粋主義の煽動」、「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」として、使用に反対する意見も根強い。保守・右翼はこうした主張を自虐史観と非難している。

なお、旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は(中華民国やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した[11]

他の呼び方として、1931年(昭和6年)の満州事変と1937年(昭和12年)の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、十五年戦争アジア・太平洋戦争[12]と呼称することもあるが、満州事変に関しては塘沽協定1933年)で停戦が成立しており、一続きの戦争とみなすことについて否定的な見解もある。ただし、休戦や講和をはさんだ一連の戦争を一続きのものとしてとらえること自体は決して特異な見解ではない(例えば「百年戦争」や「三十年戦争」などの呼称が歴史学で使われている。これらも十五年戦争と同じく、後世の視点で一連の戦争を総括して呼ぶ呼称として生まれた)。庶民の日常感覚では、1937年以降が「戦争」であったことは、同時代の証言として徳田秋声の『縮図』冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては安岡章太郎の回想がある。

イギリス歴史家クリストファー・ソーンは「極東戦争」という呼称を提唱している。また、中川八洋は自著にて、大東亜戦争を日中戦争+太平洋戦争の8年とした「8年戦争」という呼称を使用している[13]

現在の日本政府による公式見解

現在の日本政府は、以下の立場を取っている。

  • 昭和16年12月12日の閣議決定において、「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされているが、「大東亜戦争」の定義を定める法令はない[14]
  • 昭和20年12月15日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書において「大東亜戦争」という用語を使用していない[14]
  • 「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年法律第173号)等に使用されているが、「太平洋戦争」の定義を定める法令はなく、これに日中間の戦争が含まれるか否かは法令上定められていない[14]
  • 「太平洋戦争」という用語は政府として定義して用いている用語ではなく、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は同一の戦争かについて回答することは困難である[15]

なお、天皇が、この戦争について言及する際には「先の大戦」と表現することが通例となっている。

戦争の始まりと終わりについての諸説

日付はいずれも日本時間である。

始まり

終戦

期間に関する問題

「大東亜戦争の開始は昭和12年(1937年)」と主張する人々がその根拠とするのは、当時の東條内閣が1942年(昭和17年)1月に「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」を帝国議会に提出する際、「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準[1]を添付したことである。その中には、「(イ)今次勃発ノ對米英戰ノミヲ支那事變ト區別シテ大東亞戰爭ト稱スルモノニ非ザルコトヲ示ス。」「(ロ) 更ニ、右決定(注・「今次戰爭ノ呼稱並ニ平戰時ノ分界時期等ニ付テ」[3]のこと)ハ、今後大東亞戰爭ナル呼稱ヲ用フル場合ニハ昭和十六年十二月八日前ノ支那事變ヲモ包含スルモノナルノ意ヲ含ム。」と記されている。

しかし、この文章が意味するところは、「昭和十六年十二月八日前ノ支那事變」自体が大東亜戦争に含まれるということではない。当時の法律の文中から「支那事変」という言葉が一切消え、「大東亜戦争」という言葉だけに変わってしまったが、今後も公債発行や農村負債処理のことなどでこれらの法律を運用していく際は、「昭和十六年十二月八日前ノ支那事變」期間中のことも引き続き適応対象となるというほどの意味である。

もっとも、この「大東亞戰爭呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律」(昭和17年2月18日法律第9号)によって「大東亜戦争」が指す期間の定義については、当時の国民の間にも様々に解釈が生じたことは事実である。例えば貴族院議員の村上恭一は、1945年(昭和20年)11月30日の第89回帝国議会・貴族院「昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会」において、昭和17年法律第9号がある以上「大東亜戦争の開戦は昭和12年ではないか」と質問している。これに対し、松本烝治国務大臣は、この法律によって「法律、勅令の適用の範囲」に付いては「支那事変」と「大東亜戦争」とは「一体を成して区分すべからざる状態」になったとしているが、支那事変と大東亜戦争は「観念に於いて区別がある」と答弁している[16]

1941年(昭和16年)12月12日の閣議決定には「平時、戰時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」とある。 戦没者を祀る靖國神社は、戦死者の数を1941年(昭和16年)12月8日より前の「支那事変」と「大東亜戦争」を分けて集計している。

発行物

大日本帝国逓信省(現在の日本郵便)および日本の勢力下にあった各地で大東亜戦争を記念する切手や葉書が発行されている。日本では1942年(昭和17年)12月8日に記念切手を発行しており、寄附金付記念切手は、真珠湾バターン半島の戦場を描いたものであったが、切手の題名は「大東亜戦争第一周年記念」と表記されており、開戦1周年目としていた。また1943年(昭和18年)12月8日には二周年記念葉書として「大東亜戦争記念報国葉書第1集」を発行しており、埴輪の武人の額面つきの官製はがきの裏面にハワイ、香港、シンガポールの戦場を描いた図案で10銭の国防献金を含む30銭で販売した[17]。また10銭の普通切手として大東亜共栄圏の地図を描く図案のものを発行している。

また、日本の勢力下にあった満州国では1942年に中国語で「興亜はこの日より/興亜自期日」との加刷切手を発行[18]したほか、フィリピンでも同様に発行された[19]。また1943年には蒙古聯合自治政府が日本製の大東亜戦争二周年記念切手2種を発行している[20]


脚注

  1. ^ a b 「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準(1942年1月内閣作成)
  2. ^ 瀬島龍三は「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』P.23)。
  3. ^ a b 「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館
  4. ^ 瀬島龍三は「「大東亜戦争」とは・・・大東亜新秩序を建設するための戦争であるから「大東亜戦争」と呼ぶというわけのものではない・・」「単に大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いに過ぎません」「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』P.23)。
  5. ^ 種村佐孝著『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、1952年)
  6. ^ 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」SCAPIN No.448、1945年12月25日)
  7. ^ a b c 江藤淳著『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、平成元年(1989年))
  8. ^ 勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)
  9. ^ 田中正明パール判事の日本無罪論、小学館文庫、平成13年(2001年)
  10. ^ これらは、米国のメリーランド大学のマッケルデイン図書館にプランゲ文庫として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在、このプランゲ文庫の全ての資料がマイクロフィルム化されており、日本の国立国会図書館で閲覧可能である。また、勝岡寛次は自著『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)の中で、原資料に基づき多くの検閲の実例を挙げて論証をおこなっている。
  11. ^ 佐藤和正著『艦長たちの太平洋戦争』(光人社、1983年)
  12. ^ 岩波書店の書籍などで使用
  13. ^ 中川八洋著『近衛文麿の戦争責任 大東亜戦争のたった一つの真実』(PHP研究所, 2010年,『近衛文麿とルーズヴェルト』,『大東亜戦争と「開戦責任」』改版)第一章
  14. ^ a b c 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書(第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日)
  15. ^ 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書(第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)
    ※この質問を行った鈴木宗男衆議院議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している(太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書(第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。
  16. ^ 第89回帝国議会・貴族院「昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会」、1945年(昭和20年)11月30日、発言番号22,23参照、帝国議会会議録検索システム
  17. ^ 島田建造著、友岡正孝編「カラー復刻版日本記念葉書総図鑑」、2009年、50頁
  18. ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」87頁
  19. ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」204頁
  20. ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」126頁

文献情報

  • 江藤淳 『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』 文藝春秋、のち文春文庫、1994年、ISBN 4167366088
  • 勝岡寛次 『抹殺された大東亜戦争―米軍占領下の検閲が歪めたもの』 明成社、2005年8月、ISBN 4944219377
  • ジョン・トーランド、毎日新聞社訳 『大日本帝国の興亡』全5巻、毎日新聞社、のちハヤカワ文庫、1984年、※訳者は徳岡孝夫ほか。
  • 「日本における戦争呼称に関する問題の一考察」庄治潤一郎(防衛研究所紀要第13巻第3号2011.3)[1]

関連書籍

関連項目

外部リンク