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「刀伊の入寇」の版間の差分

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== 朝廷の対応 ==
== 朝廷の対応 ==
この非常事態を[[朝廷]]が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であった。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、[[防人]]や[[弩]]を復活して大規模に警護を固めた[[新羅の入寇#弘仁の韓寇|弘仁]]、[[新羅の入寇#貞観の韓寇|貞観]]、[[新羅の入寇#寛平の韓寇|寛平]]の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。

当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、以前に新羅の海賊が九州を襲ったこと([[新羅の入寇]])もあってか、太宰府や朝廷は半信半疑であった。
当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、以前に新羅の海賊が九州を襲ったこと([[新羅の入寇]])もあってか、太宰府や朝廷は半信半疑であった。


結局、賊が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の[[鄭子良]]が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、太宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。
結局、賊が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の[[鄭子良]]が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、太宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。

この非常事態を[[朝廷]]が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であった。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、[[防人]]や[[弩]]を復活して大規模に警護を固めた[[新羅の入寇#弘仁の韓寇|弘仁]]、[[新羅の入寇#貞観の韓寇|貞観]]、[[新羅の入寇#寛平の韓寇|寛平]]の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。


その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これは[[平将門]]の乱、[[藤原純友]]の乱([[承平天慶の乱]])に続き、朝廷の無策と[[武士]]の影響力の増長を示すこととなった。ただし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して[[藤原行成]]・[[藤原公任]]が恩賞不要の意見を述べたが、[[藤原実資]]が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされている。また、後に引退していた[[藤原道長]]の口添えによって恩賞が出されたともされている。
その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これは[[平将門]]の乱、[[藤原純友]]の乱([[承平天慶の乱]])に続き、朝廷の無策と[[武士]]の影響力の増長を示すこととなった。ただし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して[[藤原行成]]・[[藤原公任]]が恩賞不要の意見を述べたが、[[藤原実資]]が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされている。また、後に引退していた[[藤原道長]]の口添えによって恩賞が出されたともされている。

2013年4月6日 (土) 12:54時点における版

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、配下の満洲を中心に分布した女真族(満洲民族)と見られる海賊船団が壱岐対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。


名称

刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字をあてたものである[1]15世紀訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では(そのまま「トイ」)として表れる[2]

史料

この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。

朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。

侵攻の主体

刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た[3]。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[3]などの情報を得た。

このように「刀伊」の主流は満洲民族の前身である女真族であったと考えられている。当時の女真は農耕の習慣を持っておらず、代わりに農耕民族を拉致して自己の勢力圏内で農耕に従事させて食糧を確保していたとも言われている。このため、入寇の目的としては単なる海賊行為の他にこうした農耕民族住民の確保があったとも言われている。

侵攻の主体とされる女真族とは、12世紀を、後の17世紀には満洲族としてを建国する民族である。だが、当時の女真族の一部は高麗朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例が無く、日本側に捕らわれた捕虜がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は賊が高麗人主体か、高麗属民の女真族主体の集団ではと疑問を呈している。しかし、高麗政府は拉致された壱岐・対馬の島民を日本へ返還しており、高麗政府として関与していた可能性は薄いと考えられている。

経緯

対馬への襲撃

寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐への襲撃

賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。

藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。

筑前国怡土郡への襲撃

その後、筑前国怡土の郡に襲来、寛仁3年(1019年)4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。

これに対し、大宰権帥藤原隆家九州豪族武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。

高麗沿岸への襲撃

藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行ったが、ここでも高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人二百数十人が高麗水軍に保護され、日本に送還された。また日本はとの関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。

被害

対馬の被害

有名な対馬銀山も焼損し、被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった[3]

壱岐の被害

壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された[3]。さらに、女性は239人が連行された[3]。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった[3]

なお、この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる[3]

記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。[要出典]

朝廷の対応

当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、以前に新羅の海賊が九州を襲ったこと(新羅の入寇)もあってか、太宰府や朝廷は半信半疑であった。

結局、賊が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、太宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。

この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であった。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人を復活して大規模に警護を固めた弘仁貞観寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。

その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これは平将門の乱、藤原純友の乱(承平天慶の乱)に続き、朝廷の無策と武士の影響力の増長を示すこととなった。ただし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して藤原行成藤原公任が恩賞不要の意見を述べたが、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされている。また、後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出されたともされている。

賊の風俗

賊の風俗は、「牛馬を切っては食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と記録され、また「人を食う」との証言も見られる。斬り込み隊、盾を持った弓部隊らが10-20組も繰り出してあっというまに拉致・虐殺・放火・掠奪をやってのけ、牛馬を盗み、切り殺して食うなどしては次の場所へと逃げてゆく、という熟練ぶりであった。逃げるのに邪魔になった病人や子供は簀巻きにして海に投げ入れた[4]

藤原隆家と九州武士団

藤原隆家中関白家出身の公卿であり、眼病[5]治療の為に大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、討伐の総指揮として活躍したことで武名を挙げることとなった。

九州武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材光弘藤原明範、助高、友近、致孝、平為賢(方)(大掾為賢)、為忠、財部弘近、弘延、紀重方、文屋恵(忠)光、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。

源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。

なお、中世の大豪族・菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。

脚注

  1. ^ 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社。44頁
  2. ^ 石井2010、93頁。
  3. ^ a b c d e f g 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社。45頁
  4. ^ 石井正敏「高麗との交流」『日本の対外関係3 通交・通商圏の拡大』(2010年、吉川弘文館)、土田直鎮『日本の歴史 5 王朝の貴族』中央公論社、1965
  5. ^ 原因は『御堂関白記』によれば「突目」、すなわち先の尖った物による外傷のため。

参考文献

  • 塙保己一編『鶏林拾葉』国史や公家の日記などから日朝関係の資料を抜粋した部類記。
  • 小右記東京大学史料編纂所のデータベースから読むことができる。
  • 『日本の対外関係3 通交・通商圏の拡大』(2010年、吉川弘文館)「高麗との交流」(石井正敏
  • 土田直鎮『日本の歴史 5 王朝の貴族』中央公論社、1965 ソフトカバーや文庫本にもなっており定番ではあるが古く、高麗が朝鮮時代の国境とされているなど地図に関してはかなり難がある。

関連項目