「呂明賜」の版間の差分
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ところが、6月に行われた[[阪神甲子園球場]]の対[[阪神タイガース]]戦で、クロマティが[[死球]]を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、初めて一軍に昇格すると、[[6月14日]]の[[明治神宮野球場]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で、初回に[[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ボブ・ギブソン]]から初打席初本塁打を記録。以降も10試合で本塁打7本と大暴れし、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]にも監督推薦で選ばれた。後半戦は疲労や弱点(内角の速球)を読まれ始めたことが原因で成績が落ちたが、最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の[[日刊スポーツ]]コラムより)と評された。守備も悪くなく、同年には[[ゴロ|ライトゴロ]]で打者を一塁アウトにした事がある(このプレーは[[読売ジャイアンツ|巨人]]では、それから25年後の[[2013年]][[5月15日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦で、[[長野久義]]が記録するまで出なかった)。 |
ところが、6月に行われた[[阪神甲子園球場]]の対[[阪神タイガース]]戦で、クロマティが[[死球]]を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、初めて一軍に昇格すると、[[6月14日]]の[[明治神宮野球場]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で、初回に[[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ボブ・ギブソン]]から初打席初本塁打を記録。以降も10試合で本塁打7本と大暴れし、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]にも監督推薦で選ばれた。後半戦は疲労や弱点(内角の速球)を読まれ始めたことが原因で成績が落ちたが、最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の[[日刊スポーツ]]コラムより)と評された。守備も悪くなく、同年には[[ゴロ|ライトゴロ]]で打者を一塁アウトにした事がある(このプレーは[[読売ジャイアンツ|巨人]]では、それから25年後の[[2013年]][[5月15日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦で、[[長野久義]]が記録するまで出なかった)。 |
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しかし翌年の[[1989年]]には、クロマティが復帰し他にガリクソン('89年)や[[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]]([[1990年]])といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続き、出場機会に恵まれないまま[[1991年]]のシーズン |
しかし翌年の[[1989年]]には、クロマティが復帰し他にガリクソン('89年)や[[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]]([[1990年]])といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続き、出場機会に恵まれないまま[[ファーム日本選手権]]MVP獲得直後の[[1991年]]のシーズンオフに退団。 |
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[[1992年]]、母国のリーグ[[中華職業棒球大聯盟|中華職棒]]の[[味全ドラゴンズ]]に入団し、持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。[[1997年]]に台湾プロ野球が内部分裂し、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。[[2000年]]まで[[高屏雷公]]でプレーした後に引退、以後指導者の道を歩み始める。[[2003年]]に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万[[ニュー台湾ドル|元]]を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。 |
[[1992年]]、母国のリーグ[[中華職業棒球大聯盟|中華職棒]]の[[味全ドラゴンズ]]に入団し、持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。[[1997年]]に台湾プロ野球が内部分裂し、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。[[2000年]]まで[[高屏雷公]]でプレーした後に引退、以後指導者の道を歩み始める。[[2003年]]に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万[[ニュー台湾ドル|元]]を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。 |
2013年5月16日 (木) 20:21時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 中華民国(台湾) |
出身地 | 台湾省高雄市 |
生年月日 | 1964年10月30日(59歳) |
身長 体重 |
178 cm 86 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、捕手 |
初出場 |
NPB /1988年6月14日 CPBL /1992年3月19日 TML /1997年 |
最終出場 |
NPB /1991年 CPBL /1996年10月21日 TML /2000年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
| |
この表について
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呂明賜 ルー・ミンスー | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1964年10月30日 |
出身地: | 台湾 |
職業: | 元プロ野球選手(外野手) |
各種表記 | |
繁体字: | 呂明賜 |
簡体字: | 呂明赐 |
拼音: | Lǚ Míngcì |
和名表記: | ろ めいし |
英語名: | Ro Ming Soo |
呂 明賜(ルー・ミンスー、ろ めいし、1964年10月30日 - )は、台湾の高雄市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)。右投げ右打ち。日本および台湾のプロ野球で活躍した。
来歴・人物
台湾の中国文化大学から1988年にドラフト外で日本野球機構の読売ジャイアンツに入団。呂が1年目につけていた背番号97は、入団時の体重が97kgだったことに由来するが、読売ジャイアンツ在籍の2年目(1989年)以降、背番号を12に変更している。当時、巨人にはウォーレン・クロマティ、ビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、最初は二軍生活を送った。
ところが、6月に行われた阪神甲子園球場の対阪神タイガース戦で、クロマティが死球を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、初めて一軍に昇格すると、6月14日の明治神宮野球場の対ヤクルトスワローズ戦で、初回にボブ・ギブソンから初打席初本塁打を記録。以降も10試合で本塁打7本と大暴れし、オールスターにも監督推薦で選ばれた。後半戦は疲労や弱点(内角の速球)を読まれ始めたことが原因で成績が落ちたが、最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の日刊スポーツコラムより)と評された。守備も悪くなく、同年にはライトゴロで打者を一塁アウトにした事がある(このプレーは巨人では、それから25年後の2013年5月15日のロッテ戦で、長野久義が記録するまで出なかった)。
しかし翌年の1989年には、クロマティが復帰し他にガリクソン('89年)やマイク・ブラウン(1990年)といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続き、出場機会に恵まれないままファーム日本選手権MVP獲得直後の1991年のシーズンオフに退団。
1992年、母国のリーグ中華職棒の味全ドラゴンズに入団し、持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。1997年に台湾プロ野球が内部分裂し、台湾大聯盟に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。2000年まで高屏雷公でプレーした後に引退、以後指導者の道を歩み始める。2003年に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万元を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。
2006年からは、La Newベアーズの打撃コーチに就いている。またWBCや北京オリンピックの台湾代表チーム(チャイニーズタイペイ)の打撃コーチを務める。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | 巨人 | 79 | 312 | 274 | 38 | 70 | 12 | 0 | 16 | 130 | 40 | 4 | 5 | 3 | 2 | 32 | 2 | 1 | 43 | 10 | .255 | .333 | .474 | .808 |
1989 | 18 | 41 | 39 | 3 | 11 | 0 | 0 | 2 | 17 | 6 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | .282 | .300 | .436 | .736 | |
1990 | 7 | 14 | 13 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .308 | .357 | .308 | .665 | |
1991 | 9 | 20 | 16 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 7 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 5 | 0 | .250 | .350 | .438 | .788 | |
1992 | 味全 | 85 | 347 | 287 | 49 | 74 | 15 | 1 | 10 | 121 | 33 | 9 | 3 | 1 | 1 | 57 | 2 | 1 | 38 | 11 | .258 | .382 | .422 | .803 |
1993 | 82 | 342 | 297 | 44 | 87 | 22 | 1 | 7 | 132 | 42 | 6 | 3 | 2 | 1 | 39 | 4 | 3 | 24 | 7 | .293 | .379 | .444 | .824 | |
1994 | 54 | 221 | 196 | 17 | 39 | 7 | 1 | 2 | 54 | 16 | 1 | 4 | 5 | 0 | 20 | 0 | 0 | 31 | 6 | .199 | .273 | .276 | .549 | |
1995 | 88 | 367 | 326 | 60 | 107 | 20 | 0 | 15 | 172 | 50 | 3 | 2 | 2 | 4 | 35 | 2 | 0 | 28 | 5 | .328 | .389 | .528 | .917 | |
1996 | 97 | 415 | 360 | 71 | 122 | 25 | 1 | 16 | 197 | 66 | 13 | 7 | 0 | 4 | 51 | 0 | 0 | 31 | 10 | .339 | .417 | .547 | .964 | |
NPB:4年 | 113 | 387 | 342 | 41 | 89 | 13 | 1 | 18 | 158 | 49 | 6 | 5 | 4 | 3 | 36 | 2 | 2 | 57 | 12 | .260 | .332 | .462 | .794 | |
CPBL:5年 | 406 | 1692 | 1466 | 241 | 429 | 89 | 4 | 50 | 676 | 207 | 32 | 19 | 10 | 10 | 202 | 8 | 4 | 152 | 39 | .293 | .378 | .461 | .839 |
表彰
- ジュニア日本選手権MVP:1回 (1991年)
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:1998年6月14日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、6番・右翼手として先発出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回表にボブ・ギブソンから3ラン ※史上24人目の初打席初本塁打
- オールスターゲーム出場:1回 (1988年)
背番号
- 97 (1988年)
- 12 (1989年 - 1991年)
参考文献
関連項目
外部リンク
- [1] CPBLでの成績