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1868年、[[パリ]]のフォーブール=サンマルタン街で、富裕な[[ノルマン人|ノルマンディー人]]夫妻の間に生まれる。1880年にセーヌ=マリティーム県のウー校<ref>ルーレタビーユの母校ともなっている。</ref>に入学し寮に入る。1886年にパリでロー・スクールに入学する。1987年に『ラ・レピュブリック・フランセーズ』紙に小説 ''"Le Petit Marchand de Pommes de terre Frites"'' を発表した。ロースクールを卒業した1889年に父が亡くなり、100万フランの遺産を受けるが、たちまち浪費してしまう。翌1890年に弁護士資格を取得。1891年に『エコー・ド・パリ』紙のロベール・シャルヴェーと知り合って記事を書くようになり、またシャルヴェーの秘書となった。その後パリの新聞『[[ル・マタン]]』([[:fr:Le Matin (France)|''Le Matin'']])に入社し、劇評などを手がけた他、法廷記者として活躍し、海外特派員に起用される。1902年に取材に行ったイタリアでジャンヌ・カイヤットと知り合い同棲を始める。1904年には[[日露戦争]]を取材、1905年は[[ロシア第一革命]]のルポルタージュ執筆、中東などにも取材に赴いた。 |
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1907年に『イリュストラシオン』誌文芸付録に[[推理小説]]『黄色い部屋の秘密』(別訳『黄色い部屋の謎』)を連載し、現在でも[[密室殺人]]ものの古典的名作として高く評価され、その後はもっぱら作家として人気を博すことになる。この作品で探偵役を務める新聞記者の'''ジョセフ・ルールタビーユ'''([[:en:Joseph Rouletabille|Joseph Rouletabille]])を主人公としたシリーズ作品が書かれるが、どれもスリラー的だとして推理小説としての評価は低い。 |
1907年に『イリュストラシオン』誌文芸付録に[[推理小説]]『黄色い部屋の秘密』(別訳『黄色い部屋の謎』)を連載し、現在でも[[密室殺人]]ものの古典的名作として高く評価され、その後はもっぱら作家として人気を博すことになる。この作品で探偵役を務める新聞記者の'''ジョセフ・ルールタビーユ'''([[:en:Joseph Rouletabille|Joseph Rouletabille]])を主人公としたシリーズ作品が書かれるが、どれもスリラー的だとして推理小説としての評価は低い。 |
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また[[1910年]]には『[[オペラ座の怪人]]』を発表し大評判になった。1925年に |
また[[1910年]]には『[[オペラ座の怪人]]』を発表し、大評判になった。1925年に映画化されて、日本でも『[[キネマ旬報]]』の娯楽的優秀映画6位と人気を博し、その後も何度も映画や[[ミュージカル]]化されている。 |
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他に、怪人シェリ・ビビを主人公としたシリーズ作品がある。 |
他に、怪人シェリ・ビビを主人公としたシリーズ作品がある。 |
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現代では[[推理作家]]や[[怪奇小説]]の書き手として強調されることが多いが、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ファンタジー]]、[[歴史小説]]、[[政治小説]]などの著作もあり、多くは新聞に連載された。1927年に手術後の尿毒症のため[[ニース]]にて死去。 |
現代では[[推理作家]]や[[怪奇小説]]の書き手として強調されることが多いが、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ファンタジー]]、[[歴史小説]]、[[政治小説]]などの著作もあり、多くは新聞に連載された。1927年に手術後の尿毒症のため[[ニース]]にて死去した。 |
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== 作品 == |
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『黄色い部屋の秘密』は、日本では1915年に宮地竹峯によって『疑問の窓』の題で日本を舞台にした作品に翻案され |
『黄色い部屋の秘密』は、日本では1915年に宮地竹峯によって『疑問の窓』の題で日本を舞台にした作品に翻案された。次いで1930年に日本語訳され、『[[新青年 (日本)|新青年]]』誌1937年2月号の海外探偵小説十傑では[[江戸川乱歩]]、[[甲賀三郎]]が1位に挙げ、集計でも1位となった。その後も1955年[[東京創元社]]『世界少年少女文学全集』、1957年[[ポプラ社]]『世界名作探偵文庫』などで幾度も翻訳が刊行され、1991年[[早川書房]]『ミステリ・ハンドブック』でも読者によるオールタイム人気投票で50位となっている。ルールタビーユ第3作の ''"Rouletabille chez le Tsar"''(1913年)はかつて取材したロシア第一革命を背景にしている。1920年から1922年には金剛社から『ルレタビーユ叢書』として、当時までのシリーズ全作品が翻訳されている。 |
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1920-22年には金剛社から『ルレタビーユ叢書』として、当時までのシリーズ全作品が翻訳されている。 |
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ガストンは1910年に |
ガストンは1910年にオペラ座([[ガルニエ宮]])を訪れて、不可思議な噂話を聞き込み、インスピレーションを得て『オペラ座の怪人』を書き上げた。1922年にアメリカの[[ユニバーサル映画]]社長の[[カール・レムリ]]に出会い、オペラ座の建築に感銘を受けたというレムリに自著『オペラ座の怪人』を贈る。レムリは異能の演技力を持つ俳優[[ロン・チェイニー]]の『[[ノートルダムのせむし男]]』の次回出演作としてこれを映画化することにした。作品は1925年に公開されて大ヒットなり、以後たびたび映画化されるようになる。1986年に[[アンドリュー・ロイド=ウェバー]]がミュージカル化したものは、ミュージカル史上最大のヒット作ともなった。<ref>[[フレデリック・フォーサイス]]『マンハッタンの怪人』「この物語を書くにあたって」1999年(角川書店、2002年)</ref> |
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2013年6月8日 (土) 08:09時点における版
ガストン・ルルー Gaston Leroux | |
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誕生 |
1868年5月6日 フランス、パリ |
死没 |
1927年4月15日(58歳没) フランス、ニース |
国籍 | フランス |
代表作 |
『黄色い部屋の秘密』(1907年) 『オペラ座の怪人』(1910年) |
ウィキポータル 文学 |
ガストン・ルルー(Gaston Leroux, 1868年5月6日 - 1927年4月15日)は、フランスの小説家、法律家。
経歴・人物
1868年、パリのフォーブール=サンマルタン街で、富裕なノルマンディー人夫妻の間に生まれる。1880年にセーヌ=マリティーム県のウー校[1]に入学し寮に入る。1886年にパリでロー・スクールに入学する。1987年に『ラ・レピュブリック・フランセーズ』紙に小説 "Le Petit Marchand de Pommes de terre Frites" を発表した。ロースクールを卒業した1889年に父が亡くなり、100万フランの遺産を受けるが、たちまち浪費してしまう。翌1890年に弁護士資格を取得。1891年に『エコー・ド・パリ』紙のロベール・シャルヴェーと知り合って記事を書くようになり、またシャルヴェーの秘書となった。その後パリの新聞『ル・マタン』(Le Matin)に入社し、劇評などを手がけた他、法廷記者として活躍し、海外特派員に起用される。1902年に取材に行ったイタリアでジャンヌ・カイヤットと知り合い同棲を始める。1904年には日露戦争を取材、1905年はロシア第一革命のルポルタージュ執筆、中東などにも取材に赴いた。
1907年に『イリュストラシオン』誌文芸付録に推理小説『黄色い部屋の秘密』(別訳『黄色い部屋の謎』)を連載し、現在でも密室殺人ものの古典的名作として高く評価され、その後はもっぱら作家として人気を博すことになる。この作品で探偵役を務める新聞記者のジョセフ・ルールタビーユ(Joseph Rouletabille)を主人公としたシリーズ作品が書かれるが、どれもスリラー的だとして推理小説としての評価は低い。
また1910年には『オペラ座の怪人』を発表し、大評判になった。1925年に映画化されて、日本でも『キネマ旬報』の娯楽的優秀映画6位と人気を博し、その後も何度も映画やミュージカル化されている。
他に、怪人シェリ・ビビを主人公としたシリーズ作品がある。
現代では推理作家や怪奇小説の書き手として強調されることが多いが、SF、ファンタジー、歴史小説、政治小説などの著作もあり、多くは新聞に連載された。1927年に手術後の尿毒症のためニースにて死去した。
作品
『黄色い部屋の秘密』は、日本では1915年に宮地竹峯によって『疑問の窓』の題で日本を舞台にした作品に翻案された。次いで1930年に日本語訳され、『新青年』誌1937年2月号の海外探偵小説十傑では江戸川乱歩、甲賀三郎が1位に挙げ、集計でも1位となった。その後も1955年東京創元社『世界少年少女文学全集』、1957年ポプラ社『世界名作探偵文庫』などで幾度も翻訳が刊行され、1991年早川書房『ミステリ・ハンドブック』でも読者によるオールタイム人気投票で50位となっている。ルールタビーユ第3作の "Rouletabille chez le Tsar"(1913年)はかつて取材したロシア第一革命を背景にしている。1920年から1922年には金剛社から『ルレタビーユ叢書』として、当時までのシリーズ全作品が翻訳されている。
ガストンは1910年にオペラ座(ガルニエ宮)を訪れて、不可思議な噂話を聞き込み、インスピレーションを得て『オペラ座の怪人』を書き上げた。1922年にアメリカのユニバーサル映画社長のカール・レムリに出会い、オペラ座の建築に感銘を受けたというレムリに自著『オペラ座の怪人』を贈る。レムリは異能の演技力を持つ俳優ロン・チェイニーの『ノートルダムのせむし男』の次回出演作としてこれを映画化することにした。作品は1925年に公開されて大ヒットなり、以後たびたび映画化されるようになる。1986年にアンドリュー・ロイド=ウェバーがミュージカル化したものは、ミュージカル史上最大のヒット作ともなった。[2]
長編
- ルールタビーユシリーズ
- 『黄色い部屋の秘密』Le Mystère de la chambre jaune 1908年
- 『黒衣夫人の香り』Le Parfum de la dame en noir 1909年
- Rouletabille chez le Tsar 1913年
- Le Château noir 1916年(雑誌連載時はRouletabille à la guerre)
- Les Étranges Noces de Rouletabille 1916年(同上)
- Rouletabille chez Krupp 1920年
- Le Crime de Rouletabille 1922年
- Rouletabille chez les bohémiens 1923年
- その他
- 『オペラ座の怪人』Le Fantôme de L'Opèra 1910年
- Le Roi Mystère 1911年
- Le Fauteuil hanté 1911年
- Un homme dans la nuit 1911年
- Balaoo 1911年
- La Reine du sabbat 1913年
- Premières aventures de Chéri-bibi 1914年
- Confitou 1916年
- La Colonne infernale 1917年
- Le Capitaine Hyx 1920年
- La Bataille invisible 1920年
- Nouvelles aventures de Chéri-Bibi 1921年
- Tue-la-mort 1921年
- Le Sept de trèfle 1921年
- La Poupée sanglante 1924年
- La Machine à assassiner 1923年
- Les Ténébreuses 1925年
- Le Fils de trois pères 1926年
- Le Coup d'état de Chéri-bibi 1926年
- Les Mohicans de Babel 1928年
- Mister Flow 1925年
- Les Chasseurs de danses(未完)
主な短編
- 『金の斧』
- 『胸像たちの晩餐』
- 『ビロードの首飾りの女』
- 『ヴァンサン=ヴァンサン坊やのクリスマス』
- 『ノトランプ』
- 『恐怖の館』
- 『火の文字』
- 『蝋人形館』
(以上は創元文庫「ガストン・ルルーの恐怖夜話」に収録)
この節の加筆が望まれています。 |
注
- ^ ルーレタビーユの母校ともなっている。
- ^ フレデリック・フォーサイス『マンハッタンの怪人』「この物語を書くにあたって」1999年(角川書店、2002年)
参考文献
- 長谷部史親『欧米推理小説翻訳史』双葉社 2007年