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* [[コロラド・ロッキーズ]](1994 - 1998)
* [[コロラド・ロッキーズ]](1994 - 1998)
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]](1998 - 2000)
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]](1998 - 2000)
* [[クリーランド・インディアンズ]](2001 - 2003)
* [[クリーランド・インディアンズ]](2001 - 2003)
* ボストン・レッドソックス(2004)
* ボストン・レッドソックス(2004)
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'''エリス・レナ・バークス'''('''Ellis Rena Burks''', [[1964年]][[9月11日]] - )は、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の元選手。ポジションは[[外野手]]・[[指名打者]]。[[アメリカ合衆国]][[ミシシッピ州]][[ヴィックスバーグ (ミシシッピ州)|ヴィックスバーグ]]出身。
'''エリス・レナ・バークス'''('''Ellis Rena Burks''', [[1964年]][[9月11日]] - )は、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の元選手。ポジションは[[外野手]]・[[指名打者]]。[[アメリカ合衆国]][[ミシシッピ州]][[ヴィックスバーグ (ミシシッピ州)|ヴィックスバーグ]]出身。


[[日本プロ野球|NPB]][[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]でもプレイした[[ルーズベルト・ブラウン|ルーズヴェルト・ブラウン]]は従兄弟にあたる。
[[日本プロ野球|NPB]][[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]でもプレイした[[ルーズベルト・ブラウン|ルーズルト・ブラウン]]は従兄弟にあたる。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== ボストン・レッドソックス ===
=== ボストン・レッドソックス ===
{{by|1983年}}1月の[[MLBドラフト]]で[[ボストン・レッドソックス]]から1巡目(全体20位)に指名を受け入団。{{by|1987年}}[[4月30日]]の[[シアトル・マリナーズ]]戦でメジャーデビュー。1番・中堅のレギュラーに定着し、[[6月10日]]の[[ボルティモア・オリオールズ]]戦で満塁本塁打を含む2本塁打7打点を記録。打率.272・20本塁打・59打点・27盗塁の好成績を残したが、[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|ルーキー・オブ・ザ・イヤー]]の投票では票を獲得できなかった。{{by|1988年}}は打率.294・18本塁打・92打点・25盗塁を記録し、チームの地区優勝に貢献。[[オークランド・アスレティックス]]との[[1988年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では打率.235と振るわず、チームは4連敗で敗退した。{{by|1989年}}は故障の影響で97試合の出場に留まるものの打率.303・21盗塁を記録。{{by|1990年}}は[[1990年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に初選出される。打率.296・21本塁打・89打点を記録し、チームは2年ぶりの地区優勝。アスレティックスとの[[1990年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では本塁打・打点共に0。チームは4試合続けて1点しか奪えず、またも4連敗で敗退した。オフに[[シルバースラッガー賞]]、キャリア唯一の[[ゴールドグラ賞]]を受賞。{{by|1991年}}は打率.251・14本塁打と平凡な成績に終わる。{{by|1992年}}は故障で[[6月24日]]を最後に離脱して66試合の出場に留まり、オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]となった。
{{by|1983年}}1月の[[MLBドラフト]]で[[ボストン・レッドソックス]]から1巡目(全体20位)に指名を受け入団。{{by|1987年}}[[4月30日]]の[[シアトル・マリナーズ]]戦でメジャーデビュー。1番・中堅のレギュラーに定着し、[[6月10日]]の[[ボルティモア・オリオールズ]]戦で満塁本塁打を含む2本塁打7打点を記録。打率.272・20本塁打・59打点・27盗塁の好成績を残したが、[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|ルーキー・オブ・ザ・イヤー]]の投票では票を獲得できなかった。{{by|1988年}}は打率.294・18本塁打・92打点・25盗塁を記録し、チームの地区優勝に貢献。[[オークランド・アスレティックス]]との[[1988年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では打率.235と振るわず、チームは4連敗で敗退した。{{by|1989年}}は故障の影響で97試合の出場に留まるものの打率.303・21盗塁を記録。{{by|1990年}}は[[1990年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に初選出される。打率.296・21本塁打・89打点を記録し、チームは2年ぶりの地区優勝。アスレティックスとの[[1990年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では本塁打・打点共に0。チームは4試合続けて1点しか奪えず、またも4連敗で敗退した。オフに[[シルバースラッガー賞]]、キャリア唯一の[[ゴールドグラ賞]]を受賞。{{by|1991年}}は打率.251・14本塁打と平凡な成績に終わる。{{by|1992年}}は故障で[[6月24日]]を最後に離脱して66試合の出場に留まり、オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]となった。


=== シカゴ・ホワイトソックス ===
=== シカゴ・ホワイトソックス ===
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=== コロラド・ロッキーズ ===
=== コロラド・ロッキーズ ===
{{by|1994年}}は4月に打率.413・9本塁打を記録し、[[プレイヤー・オブ・ザ・マンス]]を受賞するなど好調な滑り出しだったが、故障で5月中旬に離脱。7月末に復帰したが、間もなく[[1994年から1995年のMLBストライキ]]に突入。そのままシーズンが打ち切られたため42試合の出場に終わった。新球場[[クアーズ・フィールド]]が開場した{{by|1995年}}は打率.266・14本塁打と平凡な数字だったが、チームは[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]を獲得し、球団創設3年目にしてポストシーズン進出。[[アトランタ・ブレース]]との[[1995年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦で2打点を挙げるなど活躍するが、チームは1勝3敗で敗退した。{{by|1996年}}は前半戦で打率.341・22本塁打・72打点を記録し、6年ぶりに[[1996年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月17日]]の[[ロサンゼルス・ドジャース]]戦で、チームが[[野茂英雄]]に[[ノーヒッター]]を喫した際に最後の打者となった。リーグ2位の打率.344<ref>規定打席到達者では1位だったが、規定打席に4打席不足の[[トニー・グウィン]]が.353を記録し、4打席を凡打と計算しても.349となるため[[首位打者 (MLB)|首位打者]]となった。</ref>・40本塁打・128打点・211安打・32盗塁、いずれもリーグトップの142得点・長打率.639・392塁打を記録。チームメイトの[[ダンテ・ビシェット]]と共に「'''[[30-30クラブ|30-30]]'''」(30本塁打30盗塁)を達成し、[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]の投票で3位に入った。{{by|1997年}}は5月中旬まで打率が.200前後と低調で、6月末から故障で1ヶ月離脱。復帰後は調子を上げ、打率.290・32本塁打を記録した。{{by|1998年}}[[7月31日]]に3選手との交換トレードで[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]に移籍。
{{by|1994年}}は4月に打率.413・9本塁打を記録し、[[プレイヤー・オブ・ザ・マンス]]を受賞するなど好調な滑り出しだったが、故障で5月中旬に離脱。7月末に復帰したが、間もなく[[1994年から1995年のMLBストライキ]]に突入。そのままシーズンが打ち切られたため42試合の出場に終わった。新球場[[クアーズ・フィールド]]が開場した{{by|1995年}}は打率.266・14本塁打と平凡な数字だったが、チームは[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]を獲得し、球団創設3年目にしてポストシーズン進出。[[アトランタ・ブレース]]との[[1995年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディジョンシリーズ]]では第1戦で2打点を挙げるなど活躍するが、チームは1勝3敗で敗退した。{{by|1996年}}は前半戦で打率.341・22本塁打・72打点を記録し、6年ぶりに[[1996年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月17日]]の[[ロサンゼルス・ドジャース]]戦で、チームが[[野茂英雄]]に[[ノーヒッター]]を喫した際に最後の打者となった。リーグ2位の打率.344<ref>規定打席到達者では1位だったが、規定打席に4打席不足の[[トニー・グウィン]]が.353を記録し、4打席を凡打と計算しても.349となるため[[首位打者 (MLB)|首位打者]]となった。</ref>・40本塁打・128打点・211安打・32盗塁、いずれもリーグトップの142得点・長打率.639・392塁打を記録。チームメイトの[[ダンテ・ビシェット]]と共に「'''[[30-30クラブ|30-30]]'''」(30本塁打30盗塁)を達成し、[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]の投票で3位に入った。{{by|1997年}}は5月中旬まで打率が.200前後と低調で、6月末から故障で1ヶ月離脱。復帰後は調子を上げ、打率.290・32本塁打を記録した。{{by|1998年}}[[7月31日]]に3選手との交換トレードで[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]に移籍。


=== サンフランシスコ・ジャイアンツ ===
=== サンフランシスコ・ジャイアンツ ===
移籍後は打率.306を記録。チームはワイルドカード争いで[[シカゴ・カブス]]と同率で並んだが、ワイルドカード決定戦で敗れポストシーズン進出を逃した。{{by|1999年}}は[[6月29日]]の古巣ロッキーズ戦で2本塁打7打点。120試合の出場ながら31本塁打・96打点を記録した。新球場[[AT&Tパーク|パシフィックベル・パーク]]が開場した{{by|2000年}}は故障がちだったが開幕から好調を維持し、前半戦で打率.363を記録。規定打席不足ながら打率.344・24本塁打・96打点の好成績でチームの地区優勝に貢献。[[ニューヨーク・メッツ]]との[[2000年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦で[[マイク・ハンプトン]]から本塁打を放ち勝利するがその後は振るわず、チームも1勝3敗で敗退した。オフにフリーエージェントとなり、[[11月19日]]に[[クリーランド・インディアンズ]]と契約。
移籍後は打率.306を記録。チームはワイルドカード争いで[[シカゴ・カブス]]と同率で並んだが、ワイルドカード決定戦で敗れポストシーズン進出を逃した。{{by|1999年}}は[[6月29日]]の古巣ロッキーズ戦で2本塁打7打点。120試合の出場ながら31本塁打・96打点を記録した。新球場[[AT&Tパーク|パシフィックベル・パーク]]が開場した{{by|2000年}}は故障がちだったが開幕から好調を維持し、前半戦で打率.363を記録。規定打席不足ながら打率.344・24本塁打・96打点の好成績でチームの地区優勝に貢献。[[ニューヨーク・メッツ]]との[[2000年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディジョンシリーズ]]では第1戦で[[マイク・ハンプトン]]から本塁打を放ち勝利するがその後は振るわず、チームも1勝3敗で敗退した。オフにフリーエージェントとなり、[[11月19日]]に[[クリーランド・インディアンズ]]と契約。


=== クリーランド・インディアンズ ===
=== クリーランド・インディアンズ ===
{{by|2001年}}は[[6月19日]]の[[ミネソタ・ツインズ]]戦でキャリア初の1試合3本塁打を放つなど前半戦で21本塁打。後半戦はやや調子を落としたものの打率.280・28本塁打・74打点を記録し、チームは2年ぶりの地区優勝。マリナーズとの[[2001年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦で本塁打を放つなど打率.316を記録するが、チームは2勝3敗で敗退した。{{by|2002年}}は後半戦で打率.339と調子を上げ、打率.301・32本塁打・91打点の好成績で[[エドガー・マルティネス賞|最優秀指名打者賞]]を受賞した。{{by|2003年}}は[[6月7日]]を最後に離脱して55試合の出場に留まり、オフにフリーエージェントとなった。
{{by|2001年}}は[[6月19日]]の[[ミネソタ・ツインズ]]戦でキャリア初の1試合3本塁打を放つなど前半戦で21本塁打。後半戦はやや調子を落としたものの打率.280・28本塁打・74打点を記録し、チームは2年ぶりの地区優勝。マリナーズとの[[2001年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディジョンシリーズ]]では第1戦で本塁打を放つなど打率.316を記録するが、チームは2勝3敗で敗退した。{{by|2002年}}は後半戦で打率.339と調子を上げ、打率.301・32本塁打・91打点の好成績で[[エドガー・マルティネス賞|最優秀指名打者賞]]を受賞した。{{by|2003年}}は[[6月7日]]を最後に離脱して55試合の出場に留まり、オフにフリーエージェントとなった。


=== 以後 ===
=== 以後 ===
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== 獲得タイトル・表彰・記録==
== 獲得タイトル・表彰・記録==
* シルバースラッガー賞 2回:1990年, 1996年
* シルバースラッガー賞 2回:1990年, 1996年
* ゴールドグラ賞 1回:1990年
* ゴールドグラ賞 1回:1990年
* 最優秀指名打者賞 1回:2002年
* 最優秀指名打者賞 1回:2002年
* [[MLBオールスターゲーム]]選出 2回:1990年, 1996年
* [[MLBオールスターゲーム]]選出 2回:1990年, 1996年

2013年7月29日 (月) 18:19時点における版

エリス・バークス
Ellis Burks
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ミシシッピ州ヴィックスバーグ
生年月日 (1964-09-11) 1964年9月11日(59歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手指名打者
プロ入り 1983年 ドラフト1巡目
初出場 1987年4月30日
最終出場 2004年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

エリス・レナ・バークスEllis Rena Burks, 1964年9月11日 - )は、MLBの元選手。ポジションは外野手指名打者アメリカ合衆国ミシシッピ州ヴィックスバーグ出身。

NPBオリックス・ブルーウェーブでもプレイしたルーズベルト・ブラウンは従兄弟にあたる。

経歴

ボストン・レッドソックス

1983年1月のMLBドラフトボストン・レッドソックスから1巡目(全体20位)に指名を受け入団。1987年4月30日シアトル・マリナーズ戦でメジャーデビュー。1番・中堅のレギュラーに定着し、6月10日ボルティモア・オリオールズ戦で満塁本塁打を含む2本塁打7打点を記録。打率.272・20本塁打・59打点・27盗塁の好成績を残したが、ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では票を獲得できなかった。1988年は打率.294・18本塁打・92打点・25盗塁を記録し、チームの地区優勝に貢献。オークランド・アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.235と振るわず、チームは4連敗で敗退した。1989年は故障の影響で97試合の出場に留まるものの打率.303・21盗塁を記録。1990年オールスターゲームに初選出される。打率.296・21本塁打・89打点を記録し、チームは2年ぶりの地区優勝。アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは本塁打・打点共に0。チームは4試合続けて1点しか奪えず、またも4連敗で敗退した。オフにシルバースラッガー賞、キャリア唯一のゴールドグラブ賞を受賞。1991年は打率.251・14本塁打と平凡な成績に終わる。1992年は故障で6月24日を最後に離脱して66試合の出場に留まり、オフにフリーエージェントとなった。

シカゴ・ホワイトソックス

1993年1月4日シカゴ・ホワイトソックスと契約。同年は右翼手として大きな故障もなくプレイして打率.275・17本塁打を記録し、チームは10年ぶりの地区優勝を果たす。トロント・ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第5戦で本塁打を放つなど打率.304を記録するが、チームは2勝4敗で敗退した。オフに再びフリーエージェントとなり、11月30日に創設間もないコロラド・ロッキーズと契約。

コロラド・ロッキーズ

1994年は4月に打率.413・9本塁打を記録し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞するなど好調な滑り出しだったが、故障で5月中旬に離脱。7月末に復帰したが、間もなく1994年から1995年のMLBストライキに突入。そのままシーズンが打ち切られたため42試合の出場に終わった。新球場クアーズ・フィールドが開場した1995年は打率.266・14本塁打と平凡な数字だったが、チームはワイルドカードを獲得し、球団創設3年目にしてポストシーズン進出。アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズでは第1戦で2打点を挙げるなど活躍するが、チームは1勝3敗で敗退した。1996年は前半戦で打率.341・22本塁打・72打点を記録し、6年ぶりにオールスターゲームに選出される。9月17日ロサンゼルス・ドジャース戦で、チームが野茂英雄ノーヒッターを喫した際に最後の打者となった。リーグ2位の打率.344[1]・40本塁打・128打点・211安打・32盗塁、いずれもリーグトップの142得点・長打率.639・392塁打を記録。チームメイトのダンテ・ビシェットと共に「30-30」(30本塁打30盗塁)を達成し、MVPの投票で3位に入った。1997年は5月中旬まで打率が.200前後と低調で、6月末から故障で1ヶ月離脱。復帰後は調子を上げ、打率.290・32本塁打を記録した。1998年7月31日に3選手との交換トレードでサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。

サンフランシスコ・ジャイアンツ

移籍後は打率.306を記録。チームはワイルドカード争いでシカゴ・カブスと同率で並んだが、ワイルドカード決定戦で敗れポストシーズン進出を逃した。1999年6月29日の古巣ロッキーズ戦で2本塁打7打点。120試合の出場ながら31本塁打・96打点を記録した。新球場パシフィックベル・パークが開場した2000年は故障がちだったが開幕から好調を維持し、前半戦で打率.363を記録。規定打席不足ながら打率.344・24本塁打・96打点の好成績でチームの地区優勝に貢献。ニューヨーク・メッツとのディビジョンシリーズでは第1戦でマイク・ハンプトンから本塁打を放ち勝利するがその後は振るわず、チームも1勝3敗で敗退した。オフにフリーエージェントとなり、11月19日クリーブランド・インディアンズと契約。

クリーブランド・インディアンズ

2001年6月19日ミネソタ・ツインズ戦でキャリア初の1試合3本塁打を放つなど前半戦で21本塁打。後半戦はやや調子を落としたものの打率.280・28本塁打・74打点を記録し、チームは2年ぶりの地区優勝。マリナーズとのディビジョンシリーズでは第1戦で本塁打を放つなど打率.316を記録するが、チームは2勝3敗で敗退した。2002年は後半戦で打率.339と調子を上げ、打率.301・32本塁打・91打点の好成績で最優秀指名打者賞を受賞した。2003年6月7日を最後に離脱して55試合の出場に留まり、オフにフリーエージェントとなった。

以後

2004年2月6日に古巣レッドソックスと契約。11試合の出場で打率.182・1本塁打に終わる。チームはワイルドカードから18年ぶりのリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズセントルイス・カーディナルスを下して86年ぶりのワールドチャンピオンとなったが、ポストシーズンのロースター入りはできなかった。同年限りで現役引退。

2005年にインディアンズのGM補佐に就任した。

獲得タイトル・表彰・記録

  • シルバースラッガー賞 2回:1990年, 1996年
  • ゴールドグラブ賞 1回:1990年
  • 最優秀指名打者賞 1回:2002年
  • MLBオールスターゲーム選出 2回:1990年, 1996年
  • プレイヤー・オブ・ザ・マンス 1回:1994年4月

年度別打撃成績

















































O
P
S
1987 BOS 133 606 558 94 152 30 2 20 246 59 27 6 4 1 41 0 2 98 1 .272 .324 .441 .765
1988 144 615 540 93 159 37 5 18 260 92 25 9 4 6 62 1 3 89 8 .294 .367 .481 .848
1989 97 446 399 73 121 19 6 12 188 61 21 5 2 4 36 2 5 52 8 .303 .365 .471 .836
1990 152 641 588 89 174 33 8 21 286 89 9 11 2 2 48 4 1 82 18 .296 .349 .486 .835
1991 130 524 474 56 119 33 3 14 200 56 6 11 2 3 39 2 6 81 7 .251 .314 .422 .736
1992 66 263 235 35 60 8 3 8 98 30 5 2 0 2 25 2 1 48 5 .255 .327 .417 .744
1993 CWS 146 574 499 75 137 24 4 17 220 74 6 9 3 8 60 2 4 97 11 .275 .352 .441 .793
1994 COL 42 165 149 33 48 8 3 13 101 24 3 1 0 0 16 3 0 39 3 .322 .388 .678 1.066
1995 103 321 278 41 74 10 6 14 138 49 7 3 1 1 39 0 2 72 7 .266 .359 .496 .855
1996 156 685 613 142 211 45 8 40 392 128 32 6 3 2 61 2 6 114 19 .344 .408 .639 1.047
1997 119 477 424 91 123 19 2 32 242 82 7 2 1 2 47 0 3 75 17 .290 .363 .571 .934
1998 100 405 357 54 102 22 5 16 182 54 3 7 2 5 39 0 2 80 10 .286 .355 .510 .865
SF 42 177 147 22 45 6 1 5 68 22 8 1 4 4 19 1 3 31 2 .306 .387 .463 .850
'98計 142 582 504 76 147 28 6 21 250 76 11 8 6 9 58 1 5 111 12 .292 .365 .496 .861
1999 120 469 390 73 110 19 0 31 222 96 7 5 0 4 69 2 6 86 11 .282 .394 .569 .963
2000 122 458 393 74 135 21 5 24 238 96 5 1 0 8 56 5 1 49 10 .344 .419 .606 1.025
2001 CLE 124 515 439 83 123 29 1 28 238 74 5 1 0 9 62 2 5 85 16 .280 .369 .542 .911
2002 138 570 518 92 156 28 0 32 280 91 2 3 1 1 44 3 6 108 13 .301 .362 .541 .903
2003 55 228 198 27 52 11 1 6 83 28 1 1 0 0 27 2 3 46 4 .263 .360 .419 .779
2004 BOS 11 37 33 6 6 0 0 1 9 1 2 0 0 0 3 0 1 8 1 .182 .270 .273 .543
通算:18年 2000 8176 7232 1253 2107 402 63 352 3691 1206 181 84 29 62 793 33 60 1340 171 .291 .363 .510 .873
  • 各年度の太字はリーグ最高

脚注

  1. ^ 規定打席到達者では1位だったが、規定打席に4打席不足のトニー・グウィンが.353を記録し、4打席を凡打と計算しても.349となるため首位打者となった。

外部リンク