「トム・プライス」の版間の差分
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現場は各マシンが高速でコーナーを立ち上がってくる区間であり、しかもキャラミ名物の急勾配を登った先のため見通しが悪く、キンクコーナーからホームストレートの頂上でゾルジのマシンが停まってしまったため、下から上ってくるマシンの死角となり非常に危険な状態だった。 |
現場は各マシンが高速でコーナーを立ち上がってくる区間であり、しかもキャラミ名物の急勾配を登った先のため見通しが悪く、キンクコーナーからホームストレートの頂上でゾルジのマシンが停まってしまったため、下から上ってくるマシンの死角となり非常に危険な状態だった。 |
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このときプライスは22周目で[[ハンス=ヨアヒム・スタック]]を追いかけながら事故現場付近に高速で接近していた。前を走る |
このときプライスは22周目で[[ハンス=ヨアヒム・スタック]]を追いかけながら事故現場付近に高速で接近していた。前を走るスタックはコースを横切るマーシャルに気付きとっさに避けることができたが、すぐ後ろを走っていたプライスはなすすべもなくマーシャルの[[ジャンセン・ヴァン・ヴーレン]](''Jansen van Vuuren'')を撥ねてしまい、その際マーシャルが手にしていた消火器がプライスのヘルメットを直撃、ヘルメットは割れ吹き飛ばされてアゴヒモがプライスの首を切りつける形になり、プライスはマシンに乗ったまま即死した。27歳没。 |
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プライスに撥ねられた |
プライスに撥ねられたヴーレンも、時速300km近いスピードでぶつけられた衝撃で体がほぼ真っ二つに引き裂かれ、上半身が縦方向に激しく数回転しながら宙を舞い、そのまま地面に叩き付けられるという悲惨極まりない状態で即死している。事故の一部始終は[[シネカメラ]]で撮影されており、モータースポーツ史上で最も衝撃的な事故映像のひとつになっている。遺体の損傷も激しく、レース後全員を集合させ、欠員を確認してようやく身元が判明したほどだった。 |
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プライスは足がそのままアクセルを踏み続けていたと見られ、マシンは270km/hでホームストレートを暴走、インコースのガードレールに接触したまま第1コーナーに突っ込み、コーナーに向け減速していた[[ジャック・ラフィット]]の[[リジェ]]に接触し巻き込むように1コーナーを直進しコースアウト。ラフィットはブレーキをかけてマシンをコントロールし、最悪の事態からは免れた。 |
プライスは足がそのままアクセルを踏み続けていたと見られ、マシンは270km/hでホームストレートを暴走、インコースのガードレールに接触したまま第1コーナーに突っ込み、コーナーに向け減速していた[[ジャック・ラフィット]]の[[リジェ]]に接触し巻き込むように1コーナーを直進しコースアウト。ラフィットはブレーキをかけてマシンをコントロールし、最悪の事態からは免れた。 |
2013年9月3日 (火) 15:49時点における版
トム・プライス | |
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ファイル:TomPryce BrandsHatch.jpg | |
基本情報 | |
フルネーム | トーマス・モルドウィン・プライス |
国籍 |
![]() |
出身地 | 同・ルーシン |
生年月日 | 1949年6月11日 |
没年月日 | 1977年3月5日(27歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1974 - 1977 |
所属チーム |
'74 トークン '74-'77 シャドウ |
出走回数 | 42 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 19 |
ポールポジション | 1 |
ファステストラップ | 0 |
最終戦 | 1977年南アフリカGP |
トム・プライス(Tom Pryce )、本名トーマス・モルドウィン・プライス(Thomas Maldwyn Pryce 、1949年6月11日 - 1977年3月5日)はイギリス出身のレーシングドライバー。
プロフィール
10歳でパン運送用のバンに乗ったことから車に興味を持つが、実は両親も彼をレーサーにしようとしていた。だが1975年のインタビューでプライスが語ったところによると本当はパイロットになりたかったが、成績上無理だと思いあきらめたという。
子供の時はジム・クラークに憧れていたが、1968年にクラークがホッケンハイムリンクで事故死した際には衝撃を受けた。同様に、1970年にヨッヘン・リントが事故死した際にも衝撃を受けた。
16歳で学校を中退後、母の意向により、もしレーサーになれなかったときの保険としてランドリロ・テクニカル・カレッジ(Llandrillo Technical College )でトラクターのメカニックの研修を受けた。
プライスはメカニックとして働きながらF3やF2に出場。1974年にトークン・フォードに乗りベルギーグランプリでF1デビュー。同年シャドウ・フォードに移籍。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/Tom_pryce_watglen_75.jpg/220px-Tom_pryce_watglen_75.jpg)
1975年に結婚。同年オーストリアグランプリで3位に入賞し、イギリスグランプリでポールポジションを獲得する。ブランズハッチで行われた非選手権戦の「レース・オブ・チャンピオンズ」では、ポールポジションとファステストラップを奪ったうえ優勝するという活躍を見せた。イギリス期待の若手ドライバーと見る向きも多かった。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Lotus_79_2009_Lime_Rock.jpg/240px-Lotus_79_2009_Lime_Rock.jpg)
事故死
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Kyalami1968_kinkcrawthorne.svg/240px-Kyalami1968_kinkcrawthorne.svg.png)
1977年キャラミサーキットで行なわれたF1南アフリカグランプリ決勝中、プライスの同僚であるレンツォ・ゾルジがエンジントラブルに見舞われ、最終コーナーを立ち上がった付近のコース脇にマシンを止め降車した。その直後にゾルジのマシンから炎が上がったため、消火器を手にしたマーシャル2名がコースを横切り、ゾルジの車に走り寄ってきた。
現場は各マシンが高速でコーナーを立ち上がってくる区間であり、しかもキャラミ名物の急勾配を登った先のため見通しが悪く、キンクコーナーからホームストレートの頂上でゾルジのマシンが停まってしまったため、下から上ってくるマシンの死角となり非常に危険な状態だった。
このときプライスは22周目でハンス=ヨアヒム・スタックを追いかけながら事故現場付近に高速で接近していた。前を走るスタックはコースを横切るマーシャルに気付きとっさに避けることができたが、すぐ後ろを走っていたプライスはなすすべもなくマーシャルのジャンセン・ヴァン・ヴーレン(Jansen van Vuuren)を撥ねてしまい、その際マーシャルが手にしていた消火器がプライスのヘルメットを直撃、ヘルメットは割れ吹き飛ばされてアゴヒモがプライスの首を切りつける形になり、プライスはマシンに乗ったまま即死した。27歳没。
プライスに撥ねられたヴーレンも、時速300km近いスピードでぶつけられた衝撃で体がほぼ真っ二つに引き裂かれ、上半身が縦方向に激しく数回転しながら宙を舞い、そのまま地面に叩き付けられるという悲惨極まりない状態で即死している。事故の一部始終はシネカメラで撮影されており、モータースポーツ史上で最も衝撃的な事故映像のひとつになっている。遺体の損傷も激しく、レース後全員を集合させ、欠員を確認してようやく身元が判明したほどだった。
プライスは足がそのままアクセルを踏み続けていたと見られ、マシンは270km/hでホームストレートを暴走、インコースのガードレールに接触したまま第1コーナーに突っ込み、コーナーに向け減速していたジャック・ラフィットのリジェに接触し巻き込むように1コーナーを直進しコースアウト。ラフィットはブレーキをかけてマシンをコントロールし、最悪の事態からは免れた。
ようやく停止したプライス車に救護班が駆け付けたが、コックピットの中は血液と体液が入り交じった悪夢のような惨状であり、プライスは仰向でハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ形のまま硬直していた。マーシャルを轢いた事でマシンが操縦不能になったものと思われたが、何もできずに1コーナーを直進したという事が判明した。
事故の原因は不慣れなマーシャルが不用意にコースを横切ったことだと見る意見が多く、プライスは不運なもらい事故で死亡したことになる。
ヘルメット
プライスのヘルメットは当初は白かったが、1970年に走行中でも見分けられるようにして欲しいと父から頼まれたことからバイザーの上に5本の黒い線を入れた。その後1975年にヘルメットの横にウェールズの国旗を入れた。さらにグッドイヤーのロゴが書かれていた。
現在
- 墓はイングランドのケントにある聖バーソロミュー教会にある。ここは亡くなる2年前に結婚式をあげた教会であった。
- 夫人はプライスの死後フルハムで トニー・ブライズ夫人とアンティークショップを経営している。
- ウェールズのアングルシー島のアングルシーサーキットのストレートは彼の功績を称えて「トム・プライス・ストレート」と命名されている。
- 2007年、彼の没後30周年に当たって故郷のルーシンに記念碑が建てられることになった。
注釈