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「博徒」の版間の差分

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== 無宿とは ==
== 無宿とは ==
[[無宿]]は自給自足であった[[農村]]が[[貨幣経済]]の浸透により商品市場として開拓されていった結果、はみ出していった「落ちこぼれ」でありそれゆえに最下層の民としての記憶が(物言わぬ者たちの)情念の世界へと変わり大衆娯楽の題材として現在まで知られている。[[国定忠治]]はの代表である。
[[無宿]]は自給自足であった[[農村]]が[[貨幣経済]]の浸透により商品市場として開拓されていった結果、はみ出していった「落ちこぼれ」である。封建社会において権力者よ一切の保護を拒絶され、農村に住む事は許されず、他者からの迫害についても訴えることすら出来ない存在である。それゆえに最下層の民としての記憶が(物言わぬ者たちの)情念の世界へと変わり大衆娯楽の題材として現在まで知られている。彼自身は富農の子であるが[[国定忠治]]は大衆芸能の代表である。


民衆史の[[長谷川昇]]の説によると[[清水次郎長]]などは博徒であるが身分制度の拘束とその代償としての保護を嫌った結果、自ら無宿を志向したと解説している。また駿河の大親分である安東文吉などは駿河代官所より十手取縄と箱根と舞浜の公用手形の交付権、さらに苗字帯刀も許され東海道において絶大な権力を有したとれる。
民衆史の[[長谷川昇]]の説によると[[清水次郎長]]などは博徒であるが身分制度の拘束とその代償としての保護を嫌った結果、自ら無宿を志向したと解説している。次郎長などはよい縄張を持たなかったが同業の援助が厚かったとされる。また駿河の大親分である安東文吉などは駿河代官所より十手取縄と箱根と舞浜の公用手形の交付権、さらに苗字帯刀も許され東海道において絶大な権力を有したと言わるがこれなどは権力と結託するタイプでもある。


== 無宿の義務 ==
== 無宿の義務 ==

2006年3月17日 (金) 05:24時点における版

博徒(ばくと)とは賭博を常習とする者また、賭博をもって業となす者を指す。客体である賭博より見た場合は博打を主催運営する者と賭客を指す。封建社会より現在に至るまで行政司法より賭博が禁じられてきた側面と19世紀の無宿者が旅人の組織を形成した経緯から社会的保護を得られない無法者、アウトローを指す場合が多い。

無宿とは

無宿は自給自足であった農村貨幣経済の浸透により商品市場として開拓されていった結果、はみ出していった「落ちこぼれ」である。封建社会において権力者より一切の保護を拒絶され、農村に住む事は許されず、他者からの迫害についても訴えることすら出来ない存在である。それゆえに最下層の民としての記憶が(物言わぬ者たちの)情念の世界へと変わり大衆娯楽の題材として現在まで知られている。彼自身は富農の子であるが国定忠治は大衆芸能の代表である。

民衆史の長谷川昇の説によると清水次郎長などは博徒であるが身分制度の拘束とその代償としての保護を嫌った結果、自ら無宿を志向したと解説している。次郎長などはよい縄張を持たなかったが同業の援助が厚かったとされる。また駿河の大親分である安東文吉などは駿河代官所より十手取縄と箱根と舞浜の公用手形の交付権、さらに苗字帯刀も許され東海道において絶大な権力を有したと言われるがこれなどは権力と結託するタイプでもある。

無宿の義務

都市にすむ事を許された「無宿居住」は同じ無宿人と相互扶助をする義務を負っているとされる(戸羽山翰の説明より)。具体的には土地の親分は「無宿旅人」即ち旅人の世話を義務づけられていた。仁義という相互扶助の精神で表現されるが、同時に旅人はこの旅において厳しい掟に縛られているため苦労も多かったとされる。

参考

大衆の記憶とは異なりドキュメントの記録は多くないが前出の長谷川や高橋敏水谷藤博の研究者が知られている。彼等の功績により政治や民衆という「博徒を疎外した側」においても様々な理由から彼等を利用してきたという点が明らかになっている。近年においては「実話時代」「実話時代BULL」という業界紙においてもこの視線にたった興味深い小説を連載している。