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「松平定賢」の版間の差分

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'''松平 定賢'''(まつだいら さだよし、[[宝永]]6年([[1709年]]) - [[明和]]7年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]([[1770年]][[9月1日]]))は、[[越後国|越後]][[高田藩]]の第5代藩主[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]の初代藩主。定綱系久松松平家7代。
'''松平 定賢'''(まつだいら さだよし、[[宝永]]6年([[1709年]]) - [[明和]]7年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]([[1770年]][[9月1日]]))は、[[越後国|越後]][[高田藩]]の第5代藩主[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]の初代藩主。定綱系久松松平家7代。


陸奥[[守山藩]]主・[[松平頼貞]]の六男。母は松本氏。正室は高田藩第4代藩主[[松平定儀]]の養女(定儀の兄の2代藩主[[松平定逵]]の娘)、継室は[[烏丸光栄]]の娘。子に[[松平定邦|定邦]](長男)、娘([[真田幸弘]]正室)。官位は[[従四位]]下、[[越中国|越中]]守。[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])6月12日生まれとする説もある。
陸奥[[守山藩]]主・[[松平頼貞]]の六男。母は松本氏。正室は高田藩第4代藩主[[松平定儀]]の養女(定儀の兄の2代藩主[[松平定逵|定逵]]の娘)、継室は[[烏丸光栄]]の娘。子に[[松平定邦|定邦]](長男)、娘([[真田幸弘]]正室)。官位は[[従四位]]下、[[越中国|越中]]守。[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])6月12日生まれとする説もある。


先代藩主の定儀には2人の実子がいたが、いずれも早世したため、[[享保]]12年([[1727年]])に定儀が死去すると、その養嗣子として跡を継いだ。[[寛保]]元年([[1741年]])11月1日、陸奥白河に移封される。明和7年(1770年)7月12日に死去し、跡を長男の定邦が継いだ。法号は俊徳院殿無誉鎮岩二譲大居士。
先代藩主の定儀には2人の実子がいたが、いずれも早世したため、[[享保]]12年([[1727年]])に定儀が死去すると、その養嗣子として跡を継いだ。[[寛保]]元年([[1741年]])11月1日、陸奥白河に移封される。明和7年(1770年)7月12日に死去し、跡を長男の定邦が継いだ。法号は俊徳院殿無誉鎮岩二譲大居士。



{{高田藩主|久松松平氏|5代|1727年 - 1741年}}
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[[Category:水戸連枝松平氏|さたよし]]
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2013年10月14日 (月) 16:23時点における版

松平 定賢(まつだいら さだよし、宝永6年(1709年) - 明和7年7月12日1770年9月1日))は、越後高田藩の第5代藩主、陸奥白河藩の初代藩主。定綱系久松松平家7代。

陸奥守山藩主・松平頼貞の六男。母は松本氏。正室は高田藩第4代藩主松平定儀の養女(定儀の兄の第2代藩主定逵の娘)、継室は烏丸光栄の娘。子に定邦(長男)、娘(真田幸弘正室)。官位は従四位下、越中守。正徳3年(1713年)6月12日生まれとする説もある。

先代藩主の定儀には2人の実子がいたが、いずれも早世したため、享保12年(1727年)に定儀が死去すると、その養嗣子として跡を継いだ。寛保元年(1741年)11月1日、陸奥白河に移封される。明和7年(1770年)7月12日に死去し、跡を長男の定邦が継いだ。法号は俊徳院殿無誉鎮岩二譲大居士。