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[[1995年]]7月、[[第17回参議院議員通常選挙|第17回参院選]]に[[無所属]]・[[自由民主党 (日本)|自民党]]推薦で鳥取選挙区から立候補、落選している。この時、[[相澤英之]][[衆議院議員]](当時)夫人で郷土の大先輩である[[司葉子]]から出馬要請の電話があった際に応援演説の依頼かと思い「いつでも応援にいかせていただきます」と言ったところ、自分が出ることがわかり驚愕したと振り返っている。また、投票日に選挙対策本部から「あと数千票足りませんでした」と言われ、本人は開票が終わらなければ票数の差まではわからないと思っていたが、開票終了後にその通りの数字となり、選挙の恐ろしさを痛感したと後に語っている。
[[1995年]]7月、[[第17回参議院議員通常選挙|第17回参院選]]に[[無所属]]・[[自由民主党 (日本)|自民党]]推薦で鳥取選挙区から立候補、落選している。この時、[[相澤英之]][[衆議院議員]](当時)夫人で郷土の大先輩である[[司葉子]]から出馬要請の電話があった際に応援演説の依頼かと思い「いつでも応援にいかせていただきます」と言ったところ、自分が出ることがわかり驚愕したと振り返っている。また、投票日に選挙対策本部から「あと数千票足りませんでした」と言われ、本人は開票が終わらなければ票数の差まではわからないと思っていたが、開票終了後にその通りの数字となり、選挙の恐ろしさを痛感したと後に語っている。


俳優の[[山本太郎]]、[[野球評論家]]の[[清原和博]]と顔が似ている。
自らを“鳥取が生んだ自称スーパースター”と称していたように、故郷である鳥取県への郷土愛は強く、1996年から毎年11月に出身地の境港市に著名落語家や芸能人を招いて『境みなと寄席』を開催し、自らも司会を務めるなどしていた<ref>小野さん死去 地元に惜しむ声 読売新聞鳥取版 2012年6月30日閲覧</ref>。
自らを“鳥取が生んだ自称スーパースター”と称していたように、故郷である鳥取県への郷土愛は強く、1996年から毎年11月に出身地の境港市に著名落語家や芸能人を招いて『境みなと寄席』を開催し、自らも司会を務めるなどしていた<ref>小野さん死去 地元に惜しむ声 読売新聞鳥取版 2012年6月30日閲覧</ref>。



2013年10月17日 (木) 04:43時点における版

小野ヤスシ
本名 小野 泰(おの やすし)
ニックネーム 小野ちん
生年月日 1940年2月11日
没年月日 (2012-06-28) 2012年6月28日(72歳没)
出身地 日本の旗 日本鳥取県境港市
出生は大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮咸鏡南道元山府
血液型 A
身長 178cm
言語 日本語
方言 共通語
最終学歴 成城大学文芸学部中退
出身 ロカビリーバンドボーカル
グループ名 ザ・ドリフターズドンキーカルテット
芸風 司会業
活動時期 1959年 - 2012年
過去の代表番組 11PM
スターどっきり(秘)報告
他の活動 タレントコメディアン俳優ミュージシャン
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小野 ヤスシ(おの ヤスシ、1940年2月11日 - 2012年6月28日)は、日本のタレントコメディアン俳優ミュージシャン鳥取県境港市出身。自称『鳥取が生んだ天才“スーパースター”』。本名は小野泰

人物

父親の仕事の関係で、生まれは現在の北朝鮮元山市。幼少の頃に日本に引き揚げてきた。鳥取県立境高等学校卒業、成城大学文芸学部中退。

ザ・ドリフターズ」の初期のメンバーで、1960年「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」とグループ名が変わってから正式に参加。1964年桜井輝夫の脱退後にリーダーの座を譲られた碇矢長一(後のいかりや長介)のワンマン体制に反抗し対立。同じくメンバーだったジャイアント吉田飯塚文男猪熊虎五郎と共に4人で脱退。この4人に祝勝を加え、コミックバンドドンキーカルテット」を結成し、演芸ブームの追い風の中、人気を獲得する。

1970年、ブームも下火となり解散。以降はタレントへ転身し、バラエティ番組では司会やリポーターなどで、映画テレビドラマではコミカルなバイプレーヤーとして活躍した。

1995年7月、第17回参院選無所属自民党推薦で鳥取選挙区から立候補、落選している。この時、相澤英之衆議院議員(当時)夫人で郷土の大先輩である司葉子から出馬要請の電話があった際に応援演説の依頼かと思い「いつでも応援にいかせていただきます」と言ったところ、自分が出ることがわかり驚愕したと振り返っている。また、投票日に選挙対策本部から「あと数千票足りませんでした」と言われ、本人は開票が終わらなければ票数の差まではわからないと思っていたが、開票終了後にその通りの数字となり、選挙の恐ろしさを痛感したと後に語っている。

俳優の山本太郎野球評論家清原和博と顔が似ている。 自らを“鳥取が生んだ自称スーパースター”と称していたように、故郷である鳥取県への郷土愛は強く、1996年から毎年11月に出身地の境港市に著名落語家や芸能人を招いて『境みなと寄席』を開催し、自らも司会を務めるなどしていた[1]

近年ではアサヒ緑健提供の青汁PRのためのトーク番組の司会、旧知の加藤茶仲本工事と結成したコミックバンド『加トちゃんバンド』での公演活動、PS2ソフト『ヘビーメタルサンダー』において「小野ヤスシ似」というキャラの声を担当し、ゲーム内の番組『重金属アワー』にて司会をするなど、話題を提供した。

2010年1月に腎盂腫瘍で右腎臓を全摘出。2010年3月に開いた自らの芸能生活50周年記念パーティーの席上で、これががんによる手術であることを公表していた[2]。それ以降は治療に専念しつつ、体調を見ながら芸能活動を継続していたが、2012年6月28日、腎盂がんのため都内の病院で死去[3]。72歳没。

小野の公の場での最後の仕事は、長年の盟友であった加藤茶の結婚披露パーティー(2012年3月1日)での司会だった[4]。尚、自身は40年来の日本聖公会の信徒で、バルトロマイという洗礼名を持っていたことから葬儀はキリスト教式で営まれ[5]、7月3日の告別式では加藤茶、高木ブー仲本工事平尾昌晃ミッキー・カーチスなど長年の親交が深かった芸能仲間が参列、加藤と平尾、左とん平が弔辞を捧げた[6]

主な出演番組

バラエティ番組

テレビドラマ

主な出演映画

洋画吹き替え

CM

  • 株式会社一ウ商事 食品スーパーマンボウ(ラジオCM)(北海道札幌市西区西野)
  • 岩手互助センター 長安殿(2008年〜、槙原寛己と共演)

関連項目

脚注

  1. ^ 小野さん死去 地元に惜しむ声 読売新聞鳥取版 2012年6月30日閲覧
  2. ^ 小野ヤスシ、1月に腎臓摘出していた 自身の「芸能生活50周年祝う会」で報告 ORICON STYLE 2010年3月5日閲覧
  3. ^ 小野ヤスシさん、死去…72歳 SANSPO.COM 2012年6月29日閲覧
  4. ^ 小野ヤスシさん 盟友加藤茶のために「一番強い抗がん剤を投与していた」 スポーツニッポン 2012年7月1日閲覧
  5. ^ 加藤茶「あと10年生きてほしかった」悲しみのドリフ再結成…小野ヤスシさん通夜 スポーツ報知 2012年7月4日閲覧
  6. ^ 小野ヤスシさんに別れ 加藤茶「そっちに行ったらマージャンやろう」 スポーツニッポン 2012年7月3日閲覧