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=== 京都帝国大学在職中まで ===
=== 京都帝国大学在職中まで ===
*[[1919年]] - 京都帝国大学法学部講師
*[[1919年]] - 京都帝国大学法学部講師
*[[1920年]] = 同助教授。
*[[1920年]] - 同助教授。
*[[1922年]][[1924年]] - 欧米で法律研究。
*:[[1922年]]-[[1924年]] - 欧米で法律研究。
*[[1925年]] - 京都帝国大学教授となる。
*[[1925年]] - 京都帝国大学教授となる。



2013年10月17日 (木) 09:00時点における版

末川博
(すえかわ ひろし)
生誕 (1892-11-20) 1892年11月20日
日本の旗 日本山口県玖珂町
死没 (1977-02-16) 1977年2月16日(84歳没)
日本の旗 日本京都府京都市
研究分野 民法
研究機関 立命館大学
出身校 京都帝国大学学士修士博士
主な業績 「権利濫用の原理」
プロジェクト:人物伝
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末川 博(すえかわ ひろし、1892年明治25年)11月20日 - 1977年昭和52年)2月16日)は、日本民法学者。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授歴史学者末川清。清の妻は日本画家橋本関雪の孫娘。

人物

ファイル:Dr. Suekawa Words.JPG
学校法人立命館 末川博名誉総長のことば(立命館大学法学部学舎「存心館」1階ホール)

学歴

京都帝国大学在職中まで

  • 京都帝国大学在職中は主として不法行為法の研究を行い、現行民法の1条3項に記された「権利濫用の原理」を確立させる。

京大事件(滝川事件)から終戦まで

  • 1933年 - 滝川事件が起こり京都帝国大学を依願免官、次いで、恒藤恭とともに大阪商科大学(現・大阪市立大学)専任講師となる。
  • 末川自身は「この事件は滝川幸辰個人に加えられた弾圧ではなく、日本の学問の自由大学自治に加えられた弾圧だったから京大事件と呼ぶべきだ」と繰り返し語っていた。なお、立命館大学では、滝川事件を「文部省は滝川を弾圧すると末川が反対に乗り出すことを予想し、むしろ弾圧の本命を末川としていた」という説もあることを紹介している。
  • 1940年 - 大阪商科大学教授となる。
  • 1943年 - 比島調査委員会に任命されフィリピン占領地調査に参加した。

立命館大学学長・総長

末川博記念碑(衣笠キャンパス)
末川博 名誉総長のことば「未来を信じ 未来に生きる」が刻まれる記念碑。末川記念会館前の木立に立つ。
  • 1946年 - 第二次世界大戦が終結すると立命館大学が末川を学長に迎える。なお、京都大学も末川を学長に迎える考えであった。末川は立命館大学の抜本的改革に着手、憲法教育基本法を尊重して「平和民主主義」を教学理念に据えた。
  • 1949年 - 理事者・評議員・専任教職員・学生・生徒からなる全学代表による総長公選制(初の選挙により同大学総長就任)を導入。
  • 同年、学園運営の重要事項の合意を形成する理事会・教授会・学友会・教職員組合などの全ての学園組織と学生の代表を加えた全学協議会制度を創設する。
  • 以降、学生・大学院生・教職員と理事会の協議の場を拡大、教学の民主的発展に最大の努力を行い、末川の思想に基づき「立命館民主主義」と呼ばれる学園運営を行う。

立命館大学法学部学舎「存心館」1階ホールには、彼の言葉が掲げられている。

法の理念は
正義であり
 法の目的は
平和である だが
 法の実践は
  社会悪と
  たたかう
闘争である
  • 末川個人については、自伝『彼の歩んだ道』(岩波新書、1965年)など、滝川事件については『末川博関係資料昭和八年・京大事件関係資料』(立命館大学図書館、1987年)に詳しい。ほかにも『末川博随想全集』全10冊(栗田出版会、1971-1975年)や、追悼文集『追想末川博』(有斐閣、1979年)、伝記『末川博─学問と人生─』(兼清正徳著、雄渾社、1997年)等で末川を知ることができる。

著書・共著

立命館大学図書館
衣笠キャンパスにある立命館大学図書館には「末川文庫」が入っている。
「立命館大学図書館」銘板
字は学校法人立命館 末川博名誉総長による
末川記念会館」(京都市北区)
1983年(昭和58年)、末川名誉総長の業績を記念して建設された(立命館大学衣笠キャンパス構内)。

関連項目

外部リンク