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* 2012年度シーズン終了時
* 2013年度シーズン終了時
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高



2013年10月17日 (木) 11:05時点における版

能見 篤史
阪神タイガース #14
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県出石郡出石町(現:豊岡市
生年月日 (1979-05-28) 1979年5月28日(45歳)
身長
体重
180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2004年 自由獲得枠
初出場 2005年4月24日
年俸 1億2,000万円(2013年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
WBC 2013年

能見 篤史(のうみ あつし、1979年5月28日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手投手)。2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表

経歴

プロ入り前

兵庫県出石郡出石町出身。鳥取城北高校普通科体育コースに通い、2年夏の鳥取大会で準優勝。その後秋季県大会で優勝し、秋季中国地区大会でも4強入りしたが翌春の第69回選抜高等学校野球大会には選出されなかった。3年時は春季県大会ノーヒットノーランを達成。夏は2回戦で鳥取西高校に敗退。高校時代は川口知哉井川慶と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。

高校卒業後は大阪ガスに入社して野球部に所属したが、故障が多く、熱心な大阪ガスのファンですらほとんど姿を見ることができず「幻の投手」とまで呼ばれた[1]。入社5年目の2003年から少しずつ登板数を増やし、同年11月の社会人野球日本選手権大会では好成績と残し、決勝戦で日産自動車と対戦するが、延長11回に伊藤祐樹サヨナラ適時打を打たれ準優勝に終わる。2004年は後にプロでチームメイトとなる渡辺亮久保康友らと共に第22回ハーレムベースボールウィーク日本代表に選出され、その後の日本選手権では野村克也監督率いるシダックス戦で野間口貴彦と投げ合い勝利、JFE西日本との決勝戦では3番手としてリリーフ登板したが、延長15回に決勝ソロ本塁打を打たれ、2年連続準優勝となった。同年秋のドラフトで阪神に自由枠で入団。

プロ入り後

2005年は即戦力の期待通り開幕一軍入りを果たすが、夏場には不調に陥り二軍降格。その後一軍に再昇格したがシーズン防御率5点台に終わった。ウエスタン・リーグでは10試合38回を投げて41奪三振、22被安打、15与四球でWHIP0.97, 防御率1.42を記録。

2006年は開幕から交流戦まで膝の手術で離脱したジェフ・ウィリアムスに代わり左の中継ぎとして起用された。開幕10戦中チームは4敗したが、そのうち3敗は能見への継投失敗による敗戦投手という珍記録も生まれた。ウィリアムスが復帰すると二軍へ降格。二軍でも6試合に登板して防御率3.60と精彩を欠いた。オフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、十分な成績を残した。

2007年メジャー移籍で抜けた井川の穴埋めを期待され先発ローテーションとしてスタートしたが、4月が終わるまでに5試合で1勝3敗と結果を出せず中継ぎに配置転換。しかし、中継ぎでもほとんどの登板で安打を許す不安定な投球が続き、5月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で1回5失点と炎上してからは二軍降格。この試合では福浦和也にチームとして3個目の死球を与え、その裏にロッテの藤田宗一金本知憲に与えた死球が報復とされ乱闘となるきっかけを作った。騒動を引き起こしたことも重なり、技術的にも精神的にも未熟さを痛感してしばらく立ち直れなかった。その後、8月中旬に先発ローテーションとして一軍復帰すると4試合で1完投を含む3勝と好投を続けたが、9月11日に4回途中7失点でノックアウトされると、その後2度の先発登板も5回まで投げきることができず、シーズンを終えた。二軍では7試合に登板してチームトップタイ、リーグ2位の6勝を挙げて防御率2.51, 43回で37奪三振を記録、35被安打、15与四球でWHIP1.12と安定した内容だった。

2008年は中継ぎでスタートしたが、5月7日の対読売ジャイアンツ戦でアレックス・ラミレスに本塁打性の当たりを打たれる(最前列にいた観客が打球を手でブロックしたため審判団が協議の結果二塁打となった)など成績は向上せず、11試合の登板でプロ入り後初の未勝利に終わった。二軍では29試合に登板してリーグ6位の5勝、同2位でチームトップの11セーブ、同5位の52奪三振で防御率0.83, WHIPも0.90を記録し、被安打や与四球の面でも更なる向上が見られた。

2009年は同じ左腕の岩田稔など投手陣に故障者が出た影響もあって開幕から先発ローテーション入り。6月までは打線の援護に恵まれない試合もあって負けが先行し、7月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦では5回途中4失点で敗戦投手となり、その後3試合はリリーフでの登板となる。7月19日の対巨人戦で再び先発して9回を2安打無失点12奪三振で勝利投手となった後は登板した11試合全てに先発して9勝2敗と安定した投球を続け、プロ入り後初の規定投球回到達となるリーグ9位の165回を投げ、共に同4位の防御率2.62に13勝、同2位の154奪三振といずれもチームトップの成績を記録した。同年は対巨人戦で内海哲也を相手に4試合連続で投げ勝ち、広島東洋カープに対しても7試合の登板で4勝して防御率1.45と得意にした。

2010年は5月2日の対巨人戦で走塁中に右足を痛め途中交代した。怪我の結果右足楔状骨の剥離骨折と診断され、登録抹消。9月9日の対中日ドラゴンズ戦で復帰、7回2失点10奪三振で復活を印象づけると、その後の試合は中2日から5日で登板し、9月18日の阪神甲子園球場で行われた対巨人戦で7回無失点の快投を見せ、4月24日以来の勝利を挙げた。9月29日の対巨人戦では6回1失点で6勝目を挙げるとともに、前年7月から続く対巨人戦7連勝を達成[2]。阪神投手では1979年の小林繁の8連勝に次ぐ単独2位の記録である[3]。この成績が評価され、9月に自身初の月間MVPに選ばれた。最終的には8勝無敗の成績を記録。

2011年は、4月12日の対広島戦で自身初の開幕投手を務め7回途中3失点で勝利投手となった。4月19日の対巨人1回戦では、球団タイ記録となる7者連続三振を挙げた。5月3日の対巨人4回戦では9回を完投し3失点で勝ち投手となり、2009年から継続中の公式戦の対巨人連勝記録を球団1位タイ記録の8に伸ばしたが、6月26日の対巨人9回戦では5回3失点で敗戦投手となり、巨人戦での連勝は8でストップした。なお、このシーズンは好投しながらも打線の援護に恵まれない試合が多く、勝ち負けの数が拮抗する状態が後半まで続いていたが、シーズン終盤に勝ち星を増やし、最終的には12勝をマーク。投球回も自身初の200イニング到達となる。奪三振でも広島の前田健太と熾烈なトップ争いを演じたが、結果はリーグ2位の186奪三振で惜しくも前田に及ばなかった。

2012年は、3月30日の開幕戦で2年連続の開幕投手を務めた。シーズン序盤は好調だったものの、中盤は得意としていた巨人相手に3連敗を喫するなどの不振に陥る。シーズン後半から調子を上げ始め、9月は4試合で3勝1敗防御率0.55の成績で球団選定の月間MVPを取るほどの活躍を見せ[4]、最終的には2年連続の二桁勝利を収めた[4]。最終戦で初回に登板し、杉内俊哉と並ぶ最多奪三振を挙げた[5]。オフには抑えへの転向も囁かれたが最終的には久保康友に決定した。契約更改では、2000万円増の1億2000万円でサインした。

2013年はWBC出場もあり開幕戦を回避する。4月に爪が割れるアクシデントがあったが、5月6日に、笠原将生からプロ初ホームランを放った。能見は打撃練習をよく行なっており、金本知憲によると、以前に「1本でいいからホームランを打ってみたいんです」と語っていたという。本人もホームランを放ったことについて「野球人生、プロで1本は打ちたいなと思っていた」と述べた。また、この試合では完投勝利し、投打での大活躍だった[6][7]和田豊監督も「今日は能見に尽きる。投げてよし、打ってよし。エースらしい投球をしてくれた」と絶賛した[8]。このシーズンは、左指の怪我に悩まされることが多かったが、11勝7敗、防御率2.69の好成績を収めた。

2013WBC大会

2013年には、シーズン開幕前に開催のワールド・ベースボール・クラシックで、同僚の鳥谷敬(内野手)とともに日本代表の最終登録メンバー(28名)に選ばれた。

東京ドームで開催された2次ラウンドでは、代表合宿からの好調を買われて、台湾戦の先発に起用された。2回裏までは好投したものの、3回裏に突如制球を乱すと、2死満塁から押し出し四球で先制点を献上。結局、2回3分の2・自責点1で交代した(試合は延長10回の末に4-3で日本代表が勝利)。

その後、日本代表は2次ラウンドを1位で通過したことから、3大会連続で決勝ラウンドに進出。能見は、決勝ラウンド・準決勝のプエルトリコ戦(サンフランシスコAT&Tパーク)において、1点ビハインドの6回表から2番手で登板した。しかし、7回表無死1塁から、アレックス・リオスに2ランホームランを許して降板(1回3分の0・自責点2)。[9]日本代表も1-3で敗れた。

プレースタイル

スリー・クォーターのワインドアップ投法から投げる平均球速140 km/h[10]、最速151 km/hの速球スライダーフォークボールを軸に、シュートチェンジアップを交え、通算奪三振率8.18と奪三振が多い。2008年までは力に頼ったフォームで投げていたが、2009年からはしっかりと腕を振ることを意識した打者のタイミングを外すフォームに改良[11]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2005 阪神 16 12 1 0 0 4 1 0 1 .800 293 64.2 78 10 27 0 1 64 3 0 40 40 5.57 1.62
2006 38 2 0 0 0 2 4 0 8 .333 210 47.0 49 4 16 0 3 46 2 0 27 26 4.98 1.38
2007 23 13 1 1 1 4 4 0 2 .500 330 74.0 79 7 30 1 4 51 2 0 39 36 4.38 1.47
2008 11 1 0 0 0 0 0 0 0 ---- 54 11.1 15 1 6 0 0 10 1 0 6 6 4.76 1.85
2009 28 25 1 1 0 13 9 0 0 .591 675 165.0 142 11 44 1 5 154 3 1 61 48 2.62 1.13
2010 12 10 0 0 0 8 0 0 0 1.000 267 62.1 63 3 13 2 5 57 2 0 23 18 2.60 1.27
2011 29 28 5 1 1 12 9 0 1 .571 799 200.1 151 8 55 5 6 186 3 0 59 56 2.52 1.03
2012 29 27 3 2 1 10 10 0 0 .500 737 182.0 157 14 37 2 3 172 5 0 61 49 2.42 1.07
2013 25 25 6 2 1 11 7 0 0 .611 724 180.2 155 18 41 1 0 127 5 0 57 54 2.69 1.08
通算:9年 211 133 17 7 4 64 44 0 12 .592 4089 987.1 889 76 269 12 27 867 26 1 373 333 3.03 1.20
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

投手記録
打撃記録
その他記録

背番号

  • 14 (2005年 - )

登場曲

関連情報

社会人野球時代に映画へ出演

社会人時代の2002年、阪神タイガースをテーマにした長嶋一茂主演の映画ミスター・ルーキー』に、阪神が7連敗中の試合で中継ぎ登板し痛打を浴びる阪神投手という役でエキストラ出演した。その際の背番号は当時大阪ガスで着けていた「14」だったが、プロ入り後もこの番号を着けることになった。ただし、背番号の上のローマ字表記は「NOHMI」ではなく「NOUMI」だった。

「DASH! HANSHIN」の入った野村克也監督時代のユニフォームを所有し、かつ現役の阪神選手になった唯一の選手である。

TV番組

出演CM

脚注

  1. ^ 後に本人は「5年目までやってダメだったら引退して社業に就くことを真剣に考えていた」と当時を振り返っている『週刊ベースボール』誌の記事より。
  2. ^ 阪神・能見“巨人キラー”ぶり発揮 スポーツニッポン、2010年9月29日。
  3. ^ 日刊スポーツ 2010年9月27日付紙面 猛虎データセンター
  4. ^ a b 阪神タイガース公式サイト 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "koushiki""が異なる内容で複数回定義されています
  5. ^ “能見初の奪三振王、阪神では6年ぶり”. 日刊スポーツ. (2012年10月10日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121010-1030616.html 2012年10月14日閲覧。 
  6. ^ “能見大暴れ「高校2年以来」一発&完投2勝目”. スポニチ. (2013年5月7日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/07/kiji/K20130507005753570.html 2013年5月7日閲覧。 
  7. ^ “能見「振ったら当たった」初HR”. 日刊スポーツ. (2013年5月6日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130506-1123267.html 2013年5月7日閲覧。 
  8. ^ “G独走許さん!逆転勝ちの阪神・和田監督「きょうは能見に尽きる」”. スポニチ. (2013年5月6日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/06/kiji/K20130506005751950.html 2013年5月8日閲覧。 
  9. ^ Classic moment: Rios' homer pushes PR to final
  10. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2012年、144頁頁。ISBN 978-4-905411-04-8 
  11. ^ 『週刊プロ野球データファイル』20号、ベースボール・マガジン社、雑誌27745-8/31、10頁。

関連項目

外部リンク