コンテンツにスキップ

「石田紀子」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Sagihiro (会話 | 投稿記録)
出典追加。
21行目: 21行目:
*[[土曜ワイド劇場]]『復顔 整形美女の復讐』(1979年[[9月1日]]、テレビ朝日)
*[[土曜ワイド劇場]]『復顔 整形美女の復讐』(1979年[[9月1日]]、テレビ朝日)
*[[Gメン'75]] 最終回スペシャル「サヨナラGメン'75 また逢う日まで」([[1982年]][[4月3日]]、[[TBSテレビ|TBS]])
*[[Gメン'75]] 最終回スペシャル「サヨナラGメン'75 また逢う日まで」([[1982年]][[4月3日]]、[[TBSテレビ|TBS]])
*[[婦警さんは魔女]](1983年、TBS)
*[[時代劇スペシャル (フジテレビ)|時代劇スペシャル]]『十六文からす堂 江戸占い謎を斬る』(1982年[[7月16日]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
*[[時代劇スペシャル (フジテレビ)|時代劇スペシャル]]『十六文からす堂 江戸占い謎を斬る』(1982年[[7月16日]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
**時代劇スペシャル『十六文からす堂 初夜は血の匂い』([[1983年]][[6月10日]]、フジテレビ)
**時代劇スペシャル『十六文からす堂 初夜は血の匂い』([[1983年]][[6月10日]]、フジテレビ)
*[[高校聖夫婦]]第20話「落ちこぼれの愛」(1983年、TBS)
*[[高校聖夫婦]] 第20話「落ちこぼれの愛」(1983年、TBS)
*[[おしん]]([[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])- 第283話、第284話ゲスト
*[[おしん]]([[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])- 第283話、第284話ゲスト
*[[月曜ドラマランド]]『[[エプロンおばさん]]スペシャル』(1983年[[8月1日]]、フジテレビ)
*[[月曜ドラマランド]]『[[エプロンおばさん]]スペシャル』(1983年[[8月1日]]、フジテレビ)
*[[大江戸捜査網]] 第608話「八丁堀情話 夫よ許して!」([[1983年]]、[[テレビ東京]] ・三船プロ)
*[[火曜サスペンス劇場]]『遺された妻の疑惑』(1983年[[12月6日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
*[[火曜サスペンス劇場]]『遺された妻の疑惑』(1983年[[12月6日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
*[[不良少女とよばれて]]([[1984年]]、TBS)
*[[不良少女とよばれて]]([[1984年]]、TBS)
*[[金曜女のドラマスペシャル]]『結婚前夜 -消えた殺人事件-』([[1985年]][[3月22日]]、フジテレビ)
*[[金曜女のドラマスペシャル]]『結婚前夜 -消えた殺人事件-』([[1985年]][[3月22日]]、フジテレビ)
*[[水曜ドラマスペシャル]]『危険なふたり3・飛んで火に入る就職編』(1985年[[4月17日]]、TBS)
*[[水曜ドラマスペシャル]]『危険なふたり3・飛んで火に入る就職編』(1985年[[4月17日]]、TBS)
*[[天使のアッパーカット]] ([[1986年]]、TBS) - 松岡公子
*:など


=== ラジオ ===
=== ラジオ ===

2014年1月13日 (月) 08:53時点における版

石田 紀子(いしだ のりこ、1960年12月14日 - 1987年8月2日)は、日本の元女優、元タレントである。中原歩という名で、活動する時もあった。

生涯・人物

高校時代にCMモデルのオーディションに出たのがきっかけでスカウトされ女優に。テレビドラマ『燃えろアタック』などに出演。

趣味はドライブ映画鑑賞。子供の頃はスチュワーデスになりたかったという。視力は2.0あり、平衡感覚の良さが自慢だったと語っている[1]

FM横浜の「湘南ミュージックスカイウェイ」のDJを約1年間務めた。この番組のDJを務めるきっかけとなったのは、1985年にこの番組のディレクターと出会ったことで、「日本初の女性ヘリDJを育ててみたい」とかねてから思っていたディレクターは、石田をまずTBSラジオのレポートドライバー「954ガール」の仕事に就かせ、レポートの訓練に励みながら、合間を見てヘリコプターに乗せて実地訓練を積ませていた[2]。ディレクターは「彼女は時々怖がって目をつぶることがあるが、そんな時でも平気な顔をしていた。ヘリDJになるために生まれてきたようなもので、彼女の天性のものだと思う」と言ったことを語っている[2]。なお、石田はこの仕事に就く前にはヘリコプターに乗ったことは全くなかったという[1]。しかし、1987年8月2日同番組最後の放送中、乗っていたヘリコプターが茅ヶ崎沖で墜落し死亡した。

『燃えろアタック』の監督であった奥中惇夫は、撮影当時はおとなしく、「女優に向いていないのでは?」と心配していたが、本作終了後も毎年欠かさず年賀状を送るなど、礼儀正しいという印象があったこともあり、石田の葬儀で両親の姿を見たときに涙ぐんだと述懐している[3]

ラジオ番組・湘南ミュージックスカイウェイでの事故死

湘南ミュージックスカイウェイはDJの石田が、神奈川県の西部・湘南地方の上空をヘリコプターで取材し、そこから見た湘南の今を石田が紹介しながら、リスナーから寄せられたはがきのリクエストやお便りを読み上げるというもので、生放送の体制を取ってはいるものの、実際は事前に録音したものを放送しており、この日も5日前に収録したものを放送。ただ、生放送らしさを出すため、放送と同じ時間帯に番組と同じコースにヘリコプターを飛ばすという試みが行われていた。

1987年8月2日の放送で、石田が勇退し、代わって斉藤仁子がパーソナリティーを務める事が決まっていて、その石田の最終フライトが放送される直前の夕方15時50分過ぎ、茅ヶ崎市の茅ヶ崎西浜海岸上空をフライトした時にそのヘリが墜落。搭乗していた石田と番組スタッフが遺体で発見された。石田は番組の最後に「これから東京ヘリポートへ私の操縦で戻りたいと思います。私はこれから空に帰ります。女優業に戻ります」と挨拶をしてリスナーにお別れしたが、それが結果的に石田の生前最期の挨拶ともなった。この事故を受けて、斉藤が担当する予定だった翌週からの放送は急遽中止され、そのまま打ち切りとなった[4][2]

出演

テレビ

ラジオ

脚注

  1. ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1986年7月号での紹介記事より。
  2. ^ a b c 月刊ラジオパラダイス 1988年1月号特集「1987ラジオ界重大ニュース」(30ページ)より。
  3. ^ 『テレビ映画監督一代記 仮面ライダーがエントツの上に立った日』 奥中惇夫 2004年 筑摩書房 p159-161。
  4. ^ 1987年8月3日付 新聞各紙(毎日新聞朝日新聞読売新聞)の記事、月刊ラジオパラダイス 1987年10月号内の記事より。