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==歴史==
==歴史==
 開山者の近藤武兵衛が身内を亡くして山伏になった時に知り合った僧侶を迎え、翌年に現在の[[東海市]]から熱田の現在地に一部を残し、移転して開山した。その時の寺院は現在も残っており、知多新四国霊場の札所となっている。当初は慈悲山普門寺であり、現在の山号は[[知恩院]]の末寺になってから改称をしている。
 開山者の近藤武兵衛が身内を亡くして山伏になった時に知り合った僧侶を迎え、元文四年(1739年)に開山した。翌年に現在の[[東海市]]から熱田の現在地に一部を残し、移転した。その時の寺院は現在も東海市に残っており、知多新四国霊場の札所となっている。当初は慈悲山普門寺であり、現在の山号は[[知恩院]]の末寺になってから改称をしている。


[[明治維新]]までは[[檀家]]を持たぬ寺院であり、名古屋の著名人の寄進で運営されており、戦後には名古屋市の市観光協会の後援により[[大名古屋十二支]]恵当寺の第七番霊場として午年の守り本尊、勢至菩薩を安置している。
[[明治維新]]までは[[檀家]]を持たぬ寺院であり、名古屋の著名人の寄進で運営されており、戦後には名古屋市の市観光協会の後援により[[大名古屋十二支]]恵当寺の第七番霊場として午年の守り本尊、[[勢至菩薩]]を安置している。


==重要文化財==
==重要文化財==
本尊である阿弥陀如来像は江戸時代に京都の仏師山本茂祐が作成し、開眼した仏像である。着座をしているので大きくは見えないが実際には2m以上の大きさがある。それまでの本尊は[[胎内仏]]として祀られている。
本尊である阿弥陀如来像は[[江戸時代]]に京都の仏師山本茂祐が作成し、開眼した仏像である。着座をしているので大きくは見えないが実際には2m以上の大きさがある。それまでの本尊は[[胎内仏]]として祀られている。

この仏師を紹介したのは当時の[[建中寺]]の住職であり、また、名古屋の三大仏の一つとされ、[[興正寺]]の[[大日如来]]像、栄国寺の阿弥陀如来像と並ぶ。


==交通アクセス==
==交通アクセス==

2014年2月7日 (金) 21:33時点における版

雲心寺
所在地 名古屋市熱田区新尾頭3丁目19番地
山号 遺迎山
宗派 浄土宗鎮西派
本尊 阿弥陀如来
創建年 元文四年(1739年)
開山 近藤武兵衛
別称 遣迎山称讃浄土院雲心寺
札所等 大名古屋十二支恵当寺午年本尊札所
文化財 阿弥陀如来名古屋市重要文化財
法人番号 4180005000362 ウィキデータを編集
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雲心寺(うんしんじ)は、愛知県名古屋市熱田区新尾頭にある浄土宗鎮西派寺院。名古屋三大仏の一つで名古屋市の重要文化財である阿弥陀如来像を本尊とする寺院でもある。

歴史

 開山者の近藤武兵衛が身内を亡くして山伏になった時に知り合った僧侶を迎え、元文四年(1739年)に開山した。翌年には現在の東海市から熱田の現在地に一部を残し、移転した。その時の寺院は現在も東海市に残っており、知多新四国霊場の札所となっている。当初は慈悲山普門寺であり、現在の山号は知恩院の末寺になってから改称をしている。

明治維新までは檀家を持たぬ寺院であり、名古屋の著名人の寄進で運営されており、戦後には名古屋市の市観光協会の後援により大名古屋十二支恵当寺の第七番霊場として午年の守り本尊、勢至菩薩を安置している。

重要文化財

本尊である阿弥陀如来像は江戸時代に京都の仏師山本茂祐が作成し、開眼した仏像である。着座をしているので大きくは見えないが実際には2m以上の大きさがある。それまでの本尊は胎内仏として祀られている。

この仏師を紹介したのは当時の建中寺の住職であり、また、名古屋の三大仏の一つとされ、興正寺大日如来像、栄国寺の阿弥陀如来像と並ぶ。

交通アクセス

参考文献

広報なごや 熱田区だより