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[[第一次世界大戦|第一次大戦]]中、マサリクは[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア・ハンガリー]]の軍隊に服務した。1918年よりチェコスロバキアは独立運動を開始し1920年に独立した。マサリクは1919年にチェコスロバキアの外交官となり、1922年まで、駐米国の[[臨時代理大使|代理大使]]となった。1925年にマサリクは駐[[イギリス]][[特命全権大使|大使]]となった。
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[[1938年]]9月29日のイギリスと[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]の各国首脳により、ズデーテン地方帰属問題を解決するために行われた[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]の結果、ドイツ系住民が多数を占めていた[[ズデーテンラント]]のドイツ帰属を主張したドイツの[[アドルフ・ヒトラー]]総統に対して、イギリスおよびフランス政府は、これ以上の領土要求を行わないとの約束をドイツと交わす代償としてヒトラーの要求を全面的に認めることになった。この結果、ズデーテンラントは[[ドイツ国防軍]]によって占領される事が決定した。
[[1938年]]9月29日の[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]の結果、チェコスロバキア領の[[ズデーテンラント]]は[[ドイツ国防軍]]によって占領される事が決定した。マサリクはミュンヘンで協定書を受け取った2人のチェコスロバキア代表であったが、あまりの内容に涙を流したという。その後、イギリスに対する抗議のために大使を辞任したが、大使辞任後も[[ロンドン]]に留まった。[[1939年]]3月に[[ドイツ]]は[[チェコ]]の残りの地域、[[ボヘミア]]と[[モラヴィア]]を占領し、独立した[[独立スロバキア]]は[[保護国]]化した。これによりチェコスロバキアは事実上消滅。

マサリクはミュンヘンで協定書を受け取った2人のチェコスロバキア代表であったが、あまりの内容に涙を流したという。その後、イギリスに対する抗議のために大使を辞任したが、大使辞任後も[[ロンドン]]に留まった。

[[1939年]]3月にドイツは[[チェコ]]の残りの地域に軍を送り、[[ボヘミア]]と[[モラヴィア]]を占領し、独立した[[独立スロバキア]]はドイツの[[保護国]]化した。これによりチェコスロバキアは事実上消滅することとなった。


===外務大臣===
===外務大臣===
[[第二次世界大戦]]開戦後[[1940年]]にチェコスロバキアの[[亡命政権]]がロンドンで設立された。マサリクは亡命政権の[[チェコスロバキアの外相の一覧|外務大臣]]に就任した。第二次世界大戦中、マサリクは[[英国放送協会|BBC]]を通じてドイツ占領下にあるチェコスロバキアに定期的に放送を行った。[[1942年]]にマサリクは[[ベイツ大学]]から[[博士 (法学)|法学博士]]号を受け取った。
同年9月の[[第二次世界大戦]]開戦後[[1940年]]にチェコスロバキアの[[亡命政権]]がロンドンで設立された。マサリクは亡命政権の[[チェコスロバキアの外相の一覧|外務大臣]]に就任した。第二次世界大戦中、マサリクは[[英国放送協会|BBC]]を通じてドイツ軍による占領下にあるチェコスロバキアに定期的に放送を行った。[[1942年]]にマサリクは[[ベイツ大学]]から[[博士 (法学)|法学博士]]号を受け取った。

[[1945年]]5月にドイツは[[連合国]]軍に敗北し、ソ連軍によりチェコスロバキアは解放された。しかし大戦後は[[ソビエト連邦|ソ連]]のチェコスロバキアに対する影響が強まる。[[1946年]]に実施された選挙で[[チェコスロバキア共産党]]が38%の得票を得て第一党になった。これを受けて共産党指導者[[クレメント・ゴットワルド]]を首班とする連合政党である国民戦線政府が成立し、内務省など治安機関や教育・宣伝といった重要ポストを獲得したが、マサリクはその一員として外務大臣に留任した。

===冷戦===
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]とソ連の対立、いわゆる冷戦が深まり、隣国の[[ポーランド]]や[[ハンガリー]]で共産党の一党体制が成立していく国際環境の変化は、チェコスロヴァキアの国内政治にも影響を及ぼし、国民戦線を通じて連合政権を組んでいた非共産系の政党と共産党政権の亀裂が深まっていった。また1947年の[[マーシャルプラン]]参加をめぐっていったん参加を受諾したものの、ソ連の意向で撤回せざるを得なかったことや、[[コミンフォルム]]の創設会議において[[ユーゴスラビア]]などから批判を浴びたことも国内の政治対立に拍車をかけた。


[[ファイル:Jan Masaryk deska.jpg|thumb|240px|ヤン・マサリクの頭像]]
[[ファイル:Jan Masaryk deska.jpg|thumb|240px|ヤン・マサリクの頭像]]
ドイツの敗北よりチェコスロバキアは解放された。マサリは連合政党ある国民戦線政府して、外務大臣に留任した。大戦は[[ビエト邦|ソ連]]チェコスロバキアに対する影響る。ソ連との友好関係の維持が必要とされる一方で、[[1947年]]には[[マシャル・プラン]]へのチェコスロバキアの参加をソ連に拒否されマサリクは苦い立場に立たされた。[[1948年]]2月に非共産主義者の閣僚の大部分は辞任し、[[クレメント・ゴットワルト|クレメント・ゴットヴァルト]]の共産主政権が成立した([[1948年のチェコスロバキア政変|二月事件]])。マサリクはこの政権でも外務大臣に留任した。
[[1948年]][[2月22日]]、ノセ内相が閣内での合意を無視して非共産党の警察官の職場復帰を拒否たことを受けて、12名の非共産系閣僚が抗議の表明として辞表を提出した。その全国でソ連の後援を受けた共産党主導の示威行動発生し、ソ連大使ヴァレリアン・ゾリンがプラハ入りし、ソ連の介入可能性が高まっていく状況[[クレメント・ゴットワルト|クレメント・ゴットヴァルト]]による全国ゼネスト呼びかけといった政治的圧力を受けて、[[2月25日]]にベネシュは最終的に辞表を受理し、共産党と新モスクワ派の社会民党によりゴットワルドが首班となる新政権を指名した。マサリクはこの政権でも外務大臣に留任した。


===殺害===
===殺害===
[[1948年]][[3月10日]]にマサリクは外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿で遺体となって発見された。死因は転落死であった。初期の「調査」では、マサリクは窓から飛び降りて[[自殺]]したと発表した。[[冷戦]]が終結し秘密文書が次々と公表されるようになった[[1990年代]]以降の有力な説では、この自殺説は否定され、マサリクは共産主義者によって、窓から投げ落とされ殺害されたと考えられている。マサリクの死には不自然な点が多く、議論はまだ続いている。マサリクが殺害されたと考える人々は第三次[[プラハ窓外投擲事件]]と呼んでいる。
マサリクはソ連に呼び出され[[モスクワ]]を訪問し、[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]外相と会談し帰国したが、帰国後間もない1948年[[3月10日]]に外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿で遺体となって発見された。死因は転落死であった。
初期の「調査」では、マサリクは窓から飛び降りて[[自殺]]したと発表した。[[冷戦]]が終結し秘密文書が次々と公表されるようになった[[1990年代]]以降の有力な説では、この自殺説は否定され、マサリクは政府の大半を占める共産主義者によって、窓から投げ落とされ殺害されたと考えられている。マサリクの死には不自然な点が多く、議論はまだ続いている。マサリクが殺害されたと考える人々は第三次[[プラハ窓外投擲事件]]と呼んでいる。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2014年2月18日 (火) 13:58時点における版

ヤン・マサリク
Jan Masaryk
生年月日 1886年9月14日
出生地 プラハ
没年月日 1948年3月10日
死没地 プラハ
出身校 ベイツ大学
前職 外交官
配偶者 Frances Crane Leatherbee
親族 トマーシュ・マサリク

内閣 クレメント・ゴットヴァルト
在任期間 1940年7月21日 - 1948年3月10日
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ヤン・マサリクJan Garrigue Masaryk, 1886年9月14日 - 1948年3月10日)はチェコスロバキア外交官政治家

生涯

生い立ち

ヤン・マサリクは、チェコスロバキアの初代大統領の父トマーシュ・マサリクと、アメリカ生まれの母シャーロットの間に、プラハで生まれた。マサリクはプラハとアメリカで教育を受けた。

外交官

第一次大戦中、マサリクはオーストリア・ハンガリーの軍隊に服務した。1918年よりチェコスロバキアは独立運動を開始し1920年に独立した。マサリクは1919年にチェコスロバキアの外交官となり、1922年まで、駐米国の代理大使となった。1925年にマサリクは駐イギリス大使となった。

1938年9月29日のイギリスとフランスドイツイタリアの各国首脳により、ズデーテン地方帰属問題を解決するために行われたミュンヘン協定の結果、ドイツ系住民が多数を占めていたズデーテンラントのドイツ帰属を主張したドイツのアドルフ・ヒトラー総統に対して、イギリスおよびフランス政府は、これ以上の領土要求を行わないとの約束をドイツと交わす代償としてヒトラーの要求を全面的に認めることになった。この結果、ズデーテンラントはドイツ国防軍によって占領される事が決定した。

マサリクはミュンヘンで協定書を受け取った2人のチェコスロバキア代表であったが、あまりの内容に涙を流したという。その後、イギリスに対する抗議のために大使を辞任したが、大使辞任後もロンドンに留まった。

1939年3月にドイツはチェコの残りの地域に軍を送り、ボヘミアモラヴィアを占領し、独立した独立スロバキアはドイツの保護国化した。これによりチェコスロバキアは事実上消滅することとなった。

外務大臣

同年9月の第二次世界大戦開戦後の1940年に、チェコスロバキアの亡命政権がロンドンで設立された。マサリクは亡命政権の外務大臣に就任した。第二次世界大戦中、マサリクはBBCを通じてドイツ軍による占領下にあるチェコスロバキアに定期的に放送を行った。1942年にマサリクはベイツ大学から法学博士号を受け取った。

1945年5月にドイツは連合国軍に敗北し、ソ連軍によりチェコスロバキアは解放された。しかし大戦後はソ連のチェコスロバキアに対する影響が強まる。1946年に実施された選挙でチェコスロバキア共産党が38%の得票を得て第一党になった。これを受けて共産党指導者クレメント・ゴットワルドを首班とする連合政党である国民戦線政府が成立し、内務省など治安機関や教育・宣伝といった重要ポストを獲得したが、マサリクはその一員として外務大臣に留任した。

冷戦

アメリカとソ連の対立、いわゆる冷戦が深まり、隣国のポーランドハンガリーで共産党の一党体制が成立していく国際環境の変化は、チェコスロヴァキアの国内政治にも影響を及ぼし、国民戦線を通じて連合政権を組んでいた非共産系の政党と共産党政権の亀裂が深まっていった。また1947年のマーシャルプラン参加をめぐっていったん参加を受諾したものの、ソ連の意向で撤回せざるを得なかったことや、コミンフォルムの創設会議においてユーゴスラビアなどから批判を浴びたことも国内の政治対立に拍車をかけた。

ヤン・マサリクの頭像

1948年2月22日に、ノセク内相が閣内での合意を無視して非共産党員の警察官の職場復帰を拒否したことを受けて、12名の非共産系閣僚が抗議の表明として辞表を提出した。その後全国でソ連の後援を受けた共産党主導の示威行動が発生し、またソ連大使ヴァレリアン・ゾーリンがプラハ入りし、ソ連の介入可能性が高まっていく状況、そしてクレメント・ゴットヴァルトによる全国ゼネストの呼びかけといった政治的圧力を受けて、2月25日にベネシュは最終的に辞表を受理し、共産党と新モスクワ派の社会民主党によりゴットワルドが首班となる新政権を指名した。マサリクはこの政権でも外務大臣に留任した。

殺害

マサリクはソ連に呼び出されモスクワを訪問し、ヴャチェスラフ・モロトフ外相と会談し帰国したが、帰国後間もない1948年3月10日に外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿で遺体となって発見された。死因は転落死であった。

初期の「調査」では、マサリクは窓から飛び降りて自殺したと発表した。冷戦が終結し秘密文書が次々と公表されるようになった1990年代以降の有力な説では、この自殺説は否定され、マサリクは政府の大半を占める共産主義者によって、窓から投げ落とされ殺害されたと考えられている。マサリクの死には不自然な点が多く、議論はまだ続いている。マサリクが殺害されたと考える人々は第三次プラハ窓外投擲事件と呼んでいる。

関連項目

先代
フランティシェク・フヴァルコフスキー
チェコスロヴァキア外相
1940年 - 1948年
次代
ヴラディミール・クレメンティス