「野村謙二郎」の版間の差分
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|rowspan="17" style="text-align:center;"|[[広島東洋カープ|広島]] |
|rowspan="17" style="text-align:center;"|[[広島東洋カープ|広島]] |
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|88||164||151||29||39||4||5||0||53||12||21||5||2||1||7||0||3||21||1||.258||.299||.351||.650 |
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|125||576||519||84||149||28||'''8'''||16||241||44||'''33'''||'''23'''||2||1||45||3||'''9'''||83||1||.287||.352||.464||.817 |
|125||576||519||84||149||28||'''8'''||16||241||44||'''33'''||'''23'''||2||1||45||3||'''9'''||83||1||.287||.352||.464||.817 |
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|'''132'''||573||'''524'''||75||'''170'''||22||'''7'''||10||236||66||'''31'''||5||5||6||29||0||9||62||7||.324||.363||.450||.813 |
|'''132'''||573||'''524'''||75||'''170'''||22||'''7'''||10||236||66||'''31'''||5||5||6||29||0||9||62||7||.324||.363||.450||.813 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1992}} |
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|'''130'''||'''611'''||545||'''89'''||157||22||5||14||231||63||21||6||2||3||56||5||5||73||5||.288||.357||.424||.781 |
|'''130'''||'''611'''||545||'''89'''||157||22||5||14||231||63||21||6||2||3||56||5||5||73||5||.288||.357||.424||.781 |
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|130||'''602'''||'''556'''||67||148||21||1||14||213||48||12||9||1||1||39||4||5||83||6||.266||.319||.383||.702 |
|130||'''602'''||'''556'''||67||148||21||1||14||213||48||12||9||1||1||39||4||5||83||6||.266||.319||.383||.702 |
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|'''130'''||'''614'''||'''558'''||77||'''169'''||20||4||10||227||61||'''37'''||'''14'''||4||3||45||5||4||75||7||.303||.355||.407||.762 |
|'''130'''||'''614'''||'''558'''||77||'''169'''||20||4||10||227||61||'''37'''||'''14'''||4||3||45||5||4||75||7||.303||.355||.407||.762 |
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|'''131'''||'''611'''||'''550'''||'''109'''||'''173'''||29||5||32||'''308'''||75||30||8||0||2||53||7||6||60||4||.315||.380||.560||.940 |
|'''131'''||'''611'''||'''550'''||'''109'''||'''173'''||29||5||32||'''308'''||75||30||8||0||2||53||7||6||60||4||.315||.380||.560||.940 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |
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|124||562||514||77||150||30||3||12||222||68||8||7||0||5||38||1||5||63||5||.292||.343||.432||.775 |
|124||562||514||77||150||30||3||12||222||68||8||7||0||5||38||1||5||63||5||.292||.343||.432||.775 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1997}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}} |
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|131||601||'''540'''||81||151||25||0||13||215||52||26||5||0||2||54||3||5||68||10||.280||.349||.398||.748 |
|131||601||'''540'''||81||151||25||0||13||215||52||26||5||0||2||54||3||5||68||10||.280||.349||.398||.748 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1998}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}} |
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|'''135'''||607||'''561'''||75||158||26||4||14||234||49||15||9||0||2||41||6||3||63||8||.282||.333||.417||.750 |
|'''135'''||607||'''561'''||75||158||26||4||14||234||49||15||9||0||2||41||6||3||63||8||.282||.333||.417||.750 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1999}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1999}} |
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|101||387||350||37||102||20||1||6||142||42||2||4||1||1||33||3||2||34||11||.291||.354||.406||.760 |
|101||387||350||37||102||20||1||6||142||42||2||4||1||1||33||3||2||34||11||.291||.354||.406||.760 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|2000}} |
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|61||228||208||15||50||4||1||2||62||17||1||1||0||2||13||1||5||22||6||.240||.298||.298||.596 |
|61||228||208||15||50||4||1||2||62||17||1||1||0||2||13||1||5||22||6||.240||.298||.298||.596 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|2001}} |
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|117||435||403||35||110||18||1||9||157||53||7||4||0||1||31||2||0||59||13||.273||.324||.390||.714 |
|117||435||403||35||110||18||1||9||157||53||7||4||0||1||31||2||0||59||13||.273||.324||.390||.714 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|2002}} |
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|85||187||175||14||37||4||0||3||50||11||1||1||2||1||9||0||0||33||5||.211||.246||.286||.532 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|2003}} |
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|94||340||310||25||85||8||0||5||108||32||3||1||1||1||27||1||1||49||10||.274||.332||.348||.681 |
|94||340||310||25||85||8||0||5||108||32||3||1||1||1||27||1||1||49||10||.274||.332||.348||.681 |
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|107||392||359||27||97||18||2||5||134||43||1||2||3||3||24||5||3||48||8||.270||.316||.373||.690 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|2005}} |
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|106||297||272||19||75||14||0||4||101||29||1||0||4||2||18||2||1||42||7||.276||.316||.371||.688 |
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!colspan="2"|通算:17年 |
!colspan="2"|通算:17年 |
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|1927||7787||7095||935||2020||313||47||169||2934||765||250||104||27||37||562||48||66||938||114||.285||.340||.414||.754 |
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* 括弧内はリーグ平均<ref>数値は[http://www.baseball-reference.com/ Baseball-Reference.com]を参照。</ref> |
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* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
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2014年2月22日 (土) 08:45時点における版
広島東洋カープ 監督 #77 | |
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2010年5月5日・横浜スタジアムにて | |
基本情報 | |
国籍 |
![]() |
出身地 | 大分県佐伯市 |
生年月日 | 1966年9月19日(57歳) |
身長 体重 |
176 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト1位 |
初出場 | 1989年4月9日 |
最終出場 | 2005年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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オリンピック | ||
---|---|---|
男子 野球 | ||
銀 | 1988年 | 野球 |
野村 謙二郎(のむら けんじろう、1966年9月19日 - )は、広島東洋カープに所属した、日本の元プロ野球選手(内野手)。現在は広島東洋カープの監督。血液型はB型。
経歴
プロ入り前
1966年9月19日、大分県佐伯市で生まれる。小学校の1年の時に投手として野球を始め、小学校から高等学校まで投手を務める[1]。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校時代は目立った成績を残していない。野村は「投手としては、少年時代から右の本格派で、ストレート、カーブ、スライダーを武器にしていました。」と言うように当時の思い出を話してくれた[1]。また、野村から見て叔父に当たる八木孝がかつて広島東洋カープに在籍していた元プロ野球選手であったことから、小学校時代から毎年のように広島のキャンプを見学していた[2]。周囲からは「県や市の1番では満足するな。」と言われていたため、野村は常に高い目標を持って練習していた[1]。
大分県立佐伯鶴城高等学校へ進学すると、俊足を生かすために右打ちから両打ちに転向した[3]。1年の秋からエース投手になり、それ以来は3番・投手として、同期のチームメイトである若林重喜などとクリーンアップを組んだ。また、野村は2年の秋から3年の夏までエース投手兼主将を務めるが、3年の夏の大分大会の準決勝戦で敗れ[4]、3年間とも春と夏の全国大会の出場を逃した。
駒澤大学に進学すると、当時の監督だった太田誠にセンスを見込まれて外野手になる。当時は鉄拳制裁も決して珍しくない厳しい指導の一方で、1年の時は左翼手か右翼手としてプレーし、リーグ戦に起用されている[3]。2年の時の春季リーグ戦からは中堅手のレギュラーになる。また、2年の時の秋季リーグで初めて中堅手としてベストナインに選ばれる[5]。3年の時の春季リーグ戦では大石大二郎が記録した17盗塁を塗り替える18盗塁のシーズン記録を達成し、2季連続でベストナインに選ばれる[6]。また、3年の時には日米大学野球とアジア野球選手権大会で日本代表に選ばれ、その頃からプロ入りを意識するようになったそうである[3]。秋季リーグ戦では二塁手にも挑戦したので、二塁手としてもベストナインに選ばれる[7]。4年の春から4年の秋まで主将を務める。4年の時には再び日米大学野球で日本代表に選ばれるだけでなく、春季リーグ戦では22年振りにリーグ通算記録を更新する52個目の盗塁を決めるなどで完全優勝の原動力となり、満票で最高殊勲選手とベストナインに選ばれる[8]。また、4年の時には大韓民国で開催されたソウルオリンピックで大森剛や同期の笘篠賢治と一緒に3人のみの大学生選手として野球日本代表に選ばれる[9]。ちなみに野村と笘篠は後にプロでもチームメイトになる。このオリンピックではレギュラーに良い選手が揃っていたので、野村は主に代打で起用され、決勝戦を含む3試合で9打数、2安打の成績を残す[10]。決勝戦の対アメリカ合衆国代表戦では途中出場で1安打を放つも、一打逆転の場面でジム・アボットに抑えられ、銀メダル獲得となってしまった[10]。
大学での通算成績は、89試合出場、325打数、103安打、打率.317、10本塁打、48打点、52盗塁。他にはベストナイン4回の受賞経験がある。なお、全日本大学野球選手権大会には2度出場し、3年の時には松永幸男(九州東海大学)と対戦した。大学野球界屈指の野手という評価を得て[11]、石毛宏典2世とも呼ばれ[12]、1988年のドラフト会議では重複指名が予想されていたが[12]、結果として、広島東洋カープに単独1位で指名され、まずは外野手として広島に入団し、念願のプロ入りを果たした。広島は川崎憲次郎も1位候補として検討していたものの、スカウトマンたちの強い推薦もあって野村を指名した[11]。担当スカウトマンは渡辺秀武で、契約金6000万円、年俸600万円で入団契約を結んだ[13]。背番号は「7」に決まった。
現役時代
1989年4月9日の対阪神タイガース戦では代走として一軍で初出場し、同年5月4日の対ヤクルトスワローズ戦では6回裏に中本茂樹から一軍での初安打となる中前適時打を放つ。この年の野村は大学時代にも守った経験がある左翼手でプレーしていた。最優秀新人賞は同期でオリンピック以来の友人の笘篠に譲った。この賞を獲得した広島の新人野手は1984年の小早川毅彦と2006年の梵英心のみ。しかし、同年の年末になると、チームで長らく遊撃手を守っていた高橋慶彦がロッテオリオンズへ移籍してしまった。そのことによって、野村は高橋の守っていた遊撃手のレギュラーの座を継承するのである。
この年からは内野手になり、ロッテに移籍した高橋に代わって、遊撃手のレギュラーになる。オープン戦では失策が多く[14]、公称70kg(当時)より細い外見から来るパワー面の不安[15]なども懸念されていたが、レギュラーシーズンに入ると、攻守に活躍して、4月15日の対読売ジャイアンツ戦で3回裏に宮本和知から一軍での初本塁打となる右越えソロ本塁打を放つ。また、オールスターゲームに初めて選ばれ、第2戦では2番・遊撃手として先発出場した[16]。レギュラーシーズン通算で33盗塁を記録し、自身初のタイトルとなる盗塁王を獲得した。
この年は両打ちから左打ちに転向し、全試合出場を果たしただけでなく、31盗塁で2年連続となる盗塁王を獲得。170安打を放ち、最多安打を獲得。打率もリーグ4位の打率.324を記録した。また、自身初となるベストナインに選ばれるなど、チームのリーグ優勝の大きな原動力となった。同年9月10日の対中日ドラゴンズ戦では同点適時打を放った上に好守備も見せ、勝利したチームは首位に立って、そのままリーグ優勝を果たした。この試合は終了後の幸福感も含めて、現役時代で最も印象に残っていると言う[17]。対西武ライオンズとの日本シリーズでは第7戦で最終打者となって、日本シリーズ優勝を逃した(工藤公康を相手に三振となる)ものの、チームトップの打率.333を残してシリーズ優秀選手に選ばれている[18]。この年には年俸が5300万円(推定)となるなど、球団事務所から高い評価を受け[19]、12月7日には2年間交際していた女性と結婚した[20]。
1992年には日米プロ野球の日本代表に選ばれた[21]。1993年には14試合連続安打を記録して、4月に月間MVPに初めて選ばれ[22]、オールスターゲームでは第2戦で優秀選手賞を受賞する[23]。その一方で、レギュラーシーズンは打率が.266と低迷した。同年は6月3日まで3番を打ち、翌日以降は1番を打っている。
この年から7年間、広島の主将とチームリーダーを務め、首位打者宣言をして臨んだ[24]。レギュラーシーズン当初は2番だった打順も6月9日には1番に戻り、2度目の最多安打(タイトル制定はこの年から)と3度目の盗塁王を獲得した。年俸はチームメイトの前田智徳には及ばないものの、4500万円の大幅増の1億800万円となり、初めて1億円の大台を突破した[25][18]。11月には秋季キャンプへの参加を免除されて奥歯の虫歯を集中的に治療し、かみ合わせが改善してインパクト時に力を集中出来るようになった[26]。また、内角球への対応を改善するためにグリップ位置を上げて強く振り切るなど、フォームを改造している[26]。
4月18日に長男が誕生して、ヘルメットに長男の名前を書き込むなどと言うようにこれを励みとして[27]、5月には自身2度目となる月間MVPを受賞した。6月3日の対巨人戦では初登板の河原純一から初回先頭打者本塁打を放った[28]。9月1日まで全試合1番で先発出場を続け、9月2日以降は3番に定着。9月22日には当時歴代5位のスピード記録となる857試合目で1000本安打を達成した。シーズン後半は腰や背中に痛みを抱えて帰塁が出来ず、盗塁数が減少したが[29]、10月6日の対ヤクルト戦で30盗塁に到達。最終的に史上6人目となるトリプルスリー(打率.315、32本塁打、30盗塁)を記録した。打率.3145はロバート・ローズの.3150と5毛差でリーグ3位、32本塁打はチームメイトの江藤智に次ぐリーグ2位だった。また、守備面の評価も高く、自身初のゴールデングラブ賞を受賞。年末には史上最高(当時)となる1億7000万円で契約を更改し、5年後に金本知憲が抜くまで野村をチーム最高年俸とする不文律が生まれた[30]。同年の契約更改では、主将やチームリーダーとしての働きや高津臣吾や西山一宇など、ライバルチームの抑え投手からサヨナラ打を放ったことから、球団事務所からはチームでは最高の貢献度だったと評価されている[31]。
この年は開幕から7試合で1番として起用されるが、前年に盗塁王を獲得した緒方孝市の存在もあり、4月途中からは主に3番を務めた。7月6日の対ヤクルト戦で二盗を試みた際に左足首を負傷し、担架で運ばれて退場、翌日から3試合を欠場[32]。歩行にも支障を来たす骨折と疑われたが、球団事務所からは捻挫と発表されて、痛み止めの薬を飲みながら出場を続けた[32][33]。監督の三村敏之は休養を考えたが、控えに有力な遊撃手がいないことと、本人が出場を直訴したことで出場を続けさせたのである[32]。しかし、左足首を庇ったことで負担がかかり、両足の太腿やふくらはぎにも痛みが広がり、9月に入ると全力疾走出来ない状態になった[33]。チーム成績も負傷前の45勝24敗からその後は26勝35敗と急激に悪化し、この負傷が巨人のメイクドラマを許す原因になったとも言われている[32]。負傷のため、個人成績は芳しくなかったが、年末にはチームを引っ張る働きを評価されて、2000万円増の年俸1億9000万円で契約を更改し、選手会長に就任した[34]。
この年の年末にはフリーエージェント権を獲得した。その中で各チームの監督たちは遊撃手としての後継者として、野村の獲得を強く望んだとされる[35]。また、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとタンパベイ・デビルレイズからのオファーがあった[36]。野村自身も長年メジャーリーグ挑戦の夢を持っていたが[37]、大学時代の監督だった太田からの「自分のための人生だ。ただ、広島と日本プロ野球界のために生きるのもまた人生だぞ。」という助言もあり[38]、広島に残留することを決意し、日本人選手では13人目の2億円獲得選手となった。
ソウルオリンピックでチームメイトだった笘篠がヤクルトから移籍し、野村とチームメイトになる。そのことによって、笘篠の刺激を受けた野村は自身のプレーに磨きをかけたと言う。この年は主に1番を務め、チームで唯一の全試合出場を果たしたが、年俸は現状維持で契約を更改した。[39]。
この年の5月19日には、当時歴代4位のスピード記録となる1289試合目で1500本安打を達成した。9月にはオリンピックアジア最終予選で日本代表に選ばれたが、この年は股関節を痛めたことが原因で5月から欠場が多くなり、レギュラーシーズン中盤には三塁手や二塁手としての先発出場が増えた。8月からは遊撃手に戻ったものの、これ以降、度重なる怪我に泣くこととなる。
三塁手の江藤智が巨人に移籍した2000年の開幕前のキャンプからは江藤の穴埋めとして三塁手に取り組んだが、同年4月8日の対阪神戦で一塁まで走った際に左足膝裏の肉離れを起こし、全治3週間と診断された[40]。5月3日には一軍に復帰したものの、症状が酷かったので、7月24日の精密検査で左足の筋力が右足の筋力の約半分まで落ちていることが分かり、自身初の出場登録抹消を受けて後半戦は欠場した[40]。8月には同じく故障した前田智や緒方と一緒に戦列を離れてアメリカ合衆国のピッツバーグに渡ってリハビリテーションに専念した。同年はプロ入り後最低の打率.240、2本塁打、1盗塁に終わっている。
野村が戦列を離れている間に、遊撃手は東出輝裕、三塁手は新井貴浩がそれぞれレギュラーの座を獲得したため、野村は二塁手に転向し、そのレギュラーの座を木村拓也と争うことになった。開幕前のキャンプ中の2月8日に守備練習で左太腿を痛めてオープン戦は2試合の出場になり、開幕戦は初めて不出場となった。同じ二塁手のエディ・ディアスが打撃好調だった一方、緒方の故障で新井が左翼手に回り、5月9日以降に野村は再び三塁手のレギュラーの座をつかんでいる。
この年は4月末に右太腿を痛めて約1ヶ月間の二軍生活が続き、後半は代打や守備固めで主に起用されて、出場試合数が100試合を切ると同時に打率も.211と低迷したが[41]、遊撃手のライバルである東出にも守備面などで積極的にアドバイスを送っていた[42]。
この年は3月29日の対ヤクルト戦で守備の際に左内腹斜筋に全治3週間の挫傷を負い、4月2日に出場選手登録を抹消された[43]。レギュラーシーズン終盤には右太腿痛もあって、戦列を離れることが長くなり、年末には野球協約の上限を上回る33%減の1億円で契約を更改した[1]。なお、同年7月に山本浩二の監督続行が決まった際には、オーナーの松田元が次期監督候補が野村であることを明言している。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/%E9%87%8E%E6%9D%91%E8%AC%99%E4%BA%8C%E9%83%8E20040219.jpg/220px-%E9%87%8E%E6%9D%91%E8%AC%99%E4%BA%8C%E9%83%8E20040219.jpg)
1月に黒田博樹と一緒にアメリカ合衆国のアリゾナで自主トレーニングを行い、怪我の防止のためのインナーマッスル強化や股関節の柔軟性向上などに取り組んだ[44]が、6月19日の対ヤクルト戦で三塁ゴロを処理した際に右膝を痛めて出場選手登録を抹消されるなど、同年も怪我に泣いた。年末には現状維持で契約を更改している[45]。
2000本安打まで残り55本で迎えたこの年は年齢的な衰えと守備の負担軽減のために一塁手にも挑戦し始め、開幕前のキャンプの紅白試合では捕手も務めた。この年の1月から記録達成に向けて、周囲の期待が高まっていた。5月には故郷の大分県佐伯市内の某所6ヶ所[46]やそごう広島店にカウントダウンボードが設置され[47]、6月に入ると、広島ガスのインフォメーションプラザで入団からの軌跡を辿る写真展が開催された[47]。残り4本で迎えた6月21日からの地元6連戦では大分県佐伯市の大手前公園で250インチの野外スクリーンにより、パブリックビューイングが行われている[48]。6月23日の対ヤクルト戦(広島市民球場 )の4回裏に川島亮から通算2000本安打を達成、東都大学野球出身選手では史上初[49]。これを記念して、広島県から県民栄誉賞が贈られた[50]他、広島電鉄が記念のパセオカードを発行している[51]。
それ以降は「代打の切り札」としての出場が多くなり、9月16日に同年限りでの現役引退を表明した。レギュラーシーズン最終戦である10月12日の対横浜ベイスターズ戦が引退試合となり、満員の観客に野村の背番号の「7」が入ったポスターが配布された。引退試合では1番・遊撃手として先発出場したが、試合の途中からは大学で守った経験がある中堅手に回った[52]。なお、球団事務所からはこの背番号「7」を永久欠番とすることを打診されたが、野村自身が断り、背番号「7」にふさわしい選手が現れるまでの永久欠番預かりになっていた[53]。その結果、2013年から堂林翔太が背番号「7」を引き継ぐことになった。また、球団事務所の幹部は2009年の新球場オープンに合わせて、野村を監督として招聘する方針をこの時点で打ち出していた[53]。
引退後
引退後は2006年から2009年まで広島テレビ放送、日本テレビ放送網、スポーツニッポンで野球解説者を務める一方、2007年の開幕前のキャンプでは広島の臨時コーチとして守備・走塁を指導した[54]。
2008年にはカンザスシティ・ロイヤルズの開幕前のキャンプに臨時コーチとして、白井一幸と一緒に招待されている[55]。同年の北京オリンピックにおける野球競技では解説者としてジャパンコンソーシアムの中継に参加し、10月には第2回WBCの日本代表監督選定会議に若い世代の代表として出席した。初回の会議の後には、現役監督・コーチ以外から選ばれることになるのではないのか、との見通しを語っていた[56]が、次回会議の結果を受けて、原辰徳が代表監督に選ばれている[57]。
監督時代
2010年から「チーム再建の切り札」として、11年連続でBクラスに低迷する広島の監督に就任した。監督・コーチ歴はなかったが、NPBの監督としては格安とされた[58]前任のマーティ・ブラウンの年俸(40万ドル)[59]を大きく上回った。就任会見では「優勝を目指します。選手にもそう言う気持ちで、Aクラスを目指すと言うのはやめてもらいます。」と話し[60]、広島県広島市内の原田病院で行われた講演会では「優勝したら『普通のことをやったまでです。』と言うつもりです。」[61]と宣言した。
前年まで成績が奮わなかった梵、廣瀬純とオープン戦で活躍した天谷宗一郎、野村自身がアメリカ合衆国でのコーチ研修中に惚れ込み、駐米スカウトマンが反対したにも関わらずに獲得したジャスティン・ヒューバーを開幕からレギュラーに固定した。その結果、梵と廣瀬は自己最高の成績を残した。一方で天谷は不振に陥るが、中堅手として起用し続けた。そのため、レギュラーシーズン途中に故障から復帰した赤松真人は出塁率を除く全部の成績で天谷を上回ったものの、出場機会は下回った[62][63]。また、長打力を期待されたヒューバーは全く結果を残すことが出来なかった[64]。この年の先発メンバーのパターンは95通りにも上り、レギュラーシーズンを通して打線を固定出来なかった。それから、栗原健太の故障もあって、全体的には長打力に欠けた。その反面、チーム犠打数は球団史上最多の140個、チーム盗塁数も過去15年間で最多の119個と機動力が改善し、1試合平均得点は5年振りに3点台を脱却して4.1点になった。守備面でも前年リーグ最下位の100個だったチーム失策数が同3位の82に改善した[65]。
投手陣ではコルビー・ルイスの退団が前年12月に急遽決まった。開幕前のキャンプからレギュラーシーズン序盤にかけて大竹寛、横山竜士、マイク・シュルツ、永川勝浩などの主力の故障が相次いだ。特に大竹については、故障直後は慎重な調整を行っていたにも関わらず、復帰を急がせて再故障させるなど、選手の体調管理面で多くの課題を残した[66]。自己流の調整を貫いた前田健太[67]がチーム史上初の投手成績で三冠を達成したものの、飛躍を期待された齊藤悠葵、実績のある梅津智弘などの多くの投手が不振に陥った。また、中継ぎ投手の起用法にも疑問が投げかけられた[68]。チーム防御率は前年の3.59から5年振りに4点台後半(4.80)へ、前田健を除くチーム防御率は5.33となり、過去最大の悪化幅(1.21)を記録した。同様に失点が162増の737、四死球は137増えて524個、被本塁打も54多い171本と、いずれも最大幅の増加を記録し、「球団史上最悪の『投手力の後退』」と評された[69]。
最終的なリーグ成績はチーム史上ワースト2位タイとなる84敗(58勝)を喫し、優勝を狙う宣言とは裏腹に2年連続の5位に終わった。しかし、この年に不調だった投手陣に秋季キャンプでは過酷な練習を課すことを予告するなど、来年に向けて意欲を見せた[70]。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された[71]。
9月上旬までAクラスを争っていたものの、そこから一気に失速し、リーグ成績は前年と同じ5位に終わった。セ・パ交流戦では10連敗を喫し、その間に50イニング連続無得点という交流戦でのワースト記録を樹立した。
6月26日の対中日ドラゴンズ戦では3回裏に中村恭平のゴロの判定を巡って、審判たちへの暴力行為で退場処分を受けた[72]。翌日、加藤良三コミッショナーより2試合の出場停止処分を受ける。代理監督は高が務めた。
レギュラーシーズン前半は阪神の失速も手伝って1997年以来、15年振りの前半のAクラス(3位)で折り返した。しかし、9月に8連敗を含む6勝17敗1分と失速し、ヤクルトとの3位争いから脱落し、最終的なリーグ成績は4位、15年連続のBクラスとなった。
2013年も継続して指揮をとるが[73]。 1997年以来16年振りのAクラスが確定。4年連続のレギュラーシーズン負け越しとなるも、初のクライマックスシリーズ進出を果たしたが、ファイナルステージで敗退し、日本シリーズ出場を逃した。
プレースタイル
打撃
最多安打3回、最多得点2回、トリプルスリー、通算2000本安打を達成するなど、特に現役時代前半は広島のリードオフマンとして大いに活躍した。当時は176cm、75kgと体格に恵まれてはいなかったが、それまで主にスラッガータイプの選手が達成していたトリプルスリーを成し遂げた時には、地道なトレーニングによる筋力強化を高く評価されている[26]。プロで実働10年間だった遊撃手での通算打率.293は1000打席以上ではセントラル・リーグ最高記録(2004年当時)であり、史上屈指の強打の遊撃手だった[38]。1995年に記録したシーズンOPS.940は、2002年の松井稼頭央に次いで遊撃手歴代2位、セントラル・リーグ遊撃手最高記録である。思い切りの良い打撃を持ち味とし、賛否両論はあったものの、初球から積極的にストライクを打ちに行った[74]。
深夜のメジャーリーグのテレビ中継を欠かさず見ると言う「メジャーリーグリーク」だったこともあり、ダイナミックなプレーを意識し、三塁打のクロスプレーにはこだわりがあった[74]。なお、俊足を活かすため、高等学校の入学と同時に両打ちになったが、目標としていた左打ちには当初はならなかった[3]。バットはミズノテクニクスの名和民夫の作品を使用していた[75]。
走塁
俊足を誇る選手として名を馳せた。大学時代は東都大学野球リーグでの最多盗塁記録を残し、4年の春には完全盗塁を達成する[76]など、プロ入り前から走塁技術は高かった。4年の時にはベース1周で13秒8の好タイムを残している[76]。プロ入り後も1989年には4月12日に初盗塁を記録し、5月末までに盗塁企図10に対して成功8と早くから技術が通用している[77]。プロでも通算3度の盗塁王を獲得し、通算250盗塁は歴代39位(2010年現在)となる。しかし、現役時代後半は故障のために走力が落ち、代走を送られるケースが増えた。
守備
小学校から高等学校までは投手だったが、大学で外野手になり、プロ入り2年目の年から内野手になった。また、プレーでの思いやりを重視し、特にプロ入り1年目の年は正田との連係プレーを徹底的に練習した[15]。打球が飛んで来る回数や併殺、中継に絡む機会が多いため、打者が打つ瞬間以外は常に360度全方向に注意していた[78]。
広島がかつて本拠地としていた広島市民球場は土のグラウンドだったため、イレギュラーバウンドが多く、平常心を保ち、腰を落としてしっかり捕球することを心がけた[78]。また、自分の肩が強くないと考えてスローイングを課題に挙げ、ダッシュなどでカバーすることを意識していたと言う[15]。必ずしも守備の名手という印象を持たれていないが[79]、1990年代前半にはレンジファクターでリーグトップの数値を複数年に渡って記録するなど、打球をアウトにする能力は高かった[79]。
グラブについてはプロ入り2年目の年から同じグラブを7年間も使うなどという強いこだわりを持ち、同じタイプのグラブを使った後輩には井生崇光や甲斐雅人、石橋尚登などがいる[30]。また、野村のグラブをベースにしたグラブを江藤、東出は使用し、木村拓も野村のグラブを参考にしていた[30]。
人物
小学校からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた[30]。それに加えて、思いやりがある人物でもある。1994年からは主将やチームリーダーとしての素質を認められ[18]、フリーエージェント権の取得時には球団事務所も指導者としての期待をかけて、チームの残留を望んだ[30]。
球場外でのトレーニングの時も他の選手に目を配り、若手だった東出や新井が不振に苦しんだ時期には励ましを送っていた。新井は野村について「心から頼れて、とても信用できる。」と語っている[30]。また、金本知憲がトリプルスリーを達成した際には、経験者としてアドバイスを送り、落ち着きを取り戻させた[30]。
監督としての采配
選手時代の経験を生かした広島伝統の「走る赤ヘル野球」を標榜し、赤松や天谷や丸や廣瀬などの俊足の選手を積極的に上位打線に起用してチーム盗塁数を大幅に増加させた。その一方で左右病と揶揄されただけでなく、相手投手の利き腕によって打順を大幅に変える采配が指摘されている[80]。この傾向は、予告先発制度が導入された2012年度以降で顕著である。この采配は相手投手との相性や自軍の選手の状態に関係なく、積極的に行っているため、打順が固定出来ないという批判が目立っている[80]。
詳細情報
通算打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 広島 | 88 | 164 | 151 | 29 | 39 | 4 | 5 | 0 | 53 | 12 | 21 | 5 | 2 | 1 | 7 | 0 | 3 | 21 | 1 | .258 | .299 | .351 | .650 |
1990 | 125 | 576 | 519 | 84 | 149 | 28 | 8 | 16 | 241 | 44 | 33 | 23 | 2 | 1 | 45 | 3 | 9 | 83 | 1 | .287 | .352 | .464 | .817 | |
1991 | 132 | 573 | 524 | 75 | 170 | 22 | 7 | 10 | 236 | 66 | 31 | 5 | 5 | 6 | 29 | 0 | 9 | 62 | 7 | .324 | .363 | .450 | .813 | |
1992 | 130 | 611 | 545 | 89 | 157 | 22 | 5 | 14 | 231 | 63 | 21 | 6 | 2 | 3 | 56 | 5 | 5 | 73 | 5 | .288 | .357 | .424 | .781 | |
1993 | 130 | 602 | 556 | 67 | 148 | 21 | 1 | 14 | 213 | 48 | 12 | 9 | 1 | 1 | 39 | 4 | 5 | 83 | 6 | .266 | .319 | .383 | .702 | |
1994 | 130 | 614 | 558 | 77 | 169 | 20 | 4 | 10 | 227 | 61 | 37 | 14 | 4 | 3 | 45 | 5 | 4 | 75 | 7 | .303 | .355 | .407 | .762 | |
1995 | 131 | 611 | 550 | 109 | 173 | 29 | 5 | 32 | 308 | 75 | 30 | 8 | 0 | 2 | 53 | 7 | 6 | 60 | 4 | .315 | .380 | .560 | .940 | |
1996 | 124 | 562 | 514 | 77 | 150 | 30 | 3 | 12 | 222 | 68 | 8 | 7 | 0 | 5 | 38 | 1 | 5 | 63 | 5 | .292 | .343 | .432 | .775 | |
1997 | 131 | 601 | 540 | 81 | 151 | 25 | 0 | 13 | 215 | 52 | 26 | 5 | 0 | 2 | 54 | 3 | 5 | 68 | 10 | .280 | .349 | .398 | .748 | |
1998 | 135 | 607 | 561 | 75 | 158 | 26 | 4 | 14 | 234 | 49 | 15 | 9 | 0 | 2 | 41 | 6 | 3 | 63 | 8 | .282 | .333 | .417 | .750 | |
1999 | 101 | 387 | 350 | 37 | 102 | 20 | 1 | 6 | 142 | 42 | 2 | 4 | 1 | 1 | 33 | 3 | 2 | 34 | 11 | .291 | .354 | .406 | .760 | |
2000 | 61 | 228 | 208 | 15 | 50 | 4 | 1 | 2 | 62 | 17 | 1 | 1 | 0 | 2 | 13 | 1 | 5 | 22 | 6 | .240 | .298 | .298 | .596 | |
2001 | 117 | 435 | 403 | 35 | 110 | 18 | 1 | 9 | 157 | 53 | 7 | 4 | 0 | 1 | 31 | 2 | 0 | 59 | 13 | .273 | .324 | .390 | .714 | |
2002 | 85 | 187 | 175 | 14 | 37 | 4 | 0 | 3 | 50 | 11 | 1 | 1 | 2 | 1 | 9 | 0 | 0 | 33 | 5 | .211 | .246 | .286 | .532 | |
2003 | 94 | 340 | 310 | 25 | 85 | 8 | 0 | 5 | 108 | 32 | 3 | 1 | 1 | 1 | 27 | 1 | 1 | 49 | 10 | .274 | .332 | .348 | .681 | |
2004 | 107 | 392 | 359 | 27 | 97 | 18 | 2 | 5 | 134 | 43 | 1 | 2 | 3 | 3 | 24 | 5 | 3 | 48 | 8 | .270 | .316 | .373 | .690 | |
2005 | 106 | 297 | 272 | 19 | 75 | 14 | 0 | 4 | 101 | 29 | 1 | 0 | 4 | 2 | 18 | 2 | 1 | 42 | 7 | .276 | .316 | .371 | .688 | |
通算:17年 | 1927 | 7787 | 7095 | 935 | 2020 | 313 | 47 | 169 | 2934 | 765 | 250 | 104 | 27 | 37 | 562 | 48 | 66 | 938 | 114 | .285 | .340 | .414 | .754 |
- 各年度の太字はリーグ最高
通算監督成績
- レギュラーシーズン
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2010年 | 広島 | 5位 | 144 | 58 | 84 | 2 | .408 | 21.5 | 104 | .263 | 4.80 | 44歳 |
2011年 | 5位 | 144 | 60 | 76 | 8 | .441 | 16.0 | 52 | .245 | 3.22 | 45歳 | |
2012年 | 4位 | 144 | 61 | 71 | 12 | .462 | 26.5 | 76 | .233 | 2.72 | 46歳 | |
2013年 | 3位 | 144 | 69 | 72 | 3 | .489 | 17.0 | 110 | .248 | 3.46 | 47歳 | |
通算:4年 | 574 | 247 | 302 | 25 | .450 | Aクラス1回、Bクラス3回 |
- 2011年、出場停止2試合(6月28日と6月29日の対阪神タイガース戦=1勝1敗)は通算成績に含まない。その期間の代理監督は高信二。
- ポストシーズン
年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2013年 | 広島 | セントラル・リーグ クライマックスシリーズ 第1ステージ |
阪神タイガース(セントラル・リーグ2位) | 2勝0敗=第2ステージ進出 |
セントラル・リーグ クライマックスシリーズ 第2ステージ |
読売ジャイアンツ(セントラル・リーグ1位) | 0勝3敗=敗退 (※1) |
- ※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
- ※1 第2ステージは相手チームのアドバンテージ1勝を含め、0勝4敗で敗退。
タイトル
表彰
- ベストナイン:3回 (1991年、1995年、1996年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (1995年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1991年)
- 月間MVP:2回 (1993年4月、1995年5月)
- 優秀JCB・MEP賞:2回 (1994年、1995年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (好走塁賞:2004年4月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1995年)
- セントラル・リーグ会長特別表彰:1回 (2005年)
- 大分県佐伯市民栄誉賞(1996年3月15日)
記録
- 初記録
- 初出場:1989年4月9日、対阪神タイガース2回戦(広島市民球場)、7回裏にロデリック・アレンの代走として出場
- 初盗塁:1989年4月12日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(横浜スタジアム)、7回表に二盗(投手:欠端光則、捕手:市川和正)
- 初先発出場:1989年5月4日、対ヤクルトスワローズ6回戦(広島市民球場)、7番・左翼手として先発出場
- 初安打・初打点:同上の試合で6回裏に中本茂樹から中前適時打
- 初本塁打:1990年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、3回裏に宮本和知から右越えソロ本塁打
- 節目の記録
- 1000本安打:1995年9月22日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、5回表にデニー友利から右越え2ラン本塁打を放ち達成 ※史上181人目(857試合での達成は歴代9位)
- 100本塁打:1996年5月28日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、8回表に山本昌広から右越えソロ本塁打
※史上187人目
- 1000試合出場:1997年4月16日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上340人目
- 1500本安打:1999年5月19日、対阪神タイガース8回戦(米子市民球場)、5回裏に井川慶から左前安打 ※史上77人目(1289試合での達成は歴代5位)
- 1500試合出場:2001年8月26日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、6番・三塁手として先発出場 ※史上133人目
- 150本塁打:2001年10月6日、対中日ドラゴンズ28回戦(広島市民球場)、4回裏に小笠原孝から中越えソロ本塁打
※史上119人目
- 300二塁打:2005年4月1日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回表に佐藤宏志から右中間へ二塁打 ※史上42人目
- 2000本安打:2005年6月23日、対ヤクルトスワローズ8回戦(広島市民球場)、4回裏に川島亮から左前安打 ※史上33人目
- 250盗塁:2005年7月1日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助) ※史上37人目
- その他の記録
- トリプルスリー:1回 (1995年)
- シーズン150安打以上:7回 (1991年、1992年、1994年 - 1998年) ※歴代4位タイ。
- 5年連続シーズン150安打以上(1994年 - 1998年) ※歴代5位タイ。
- 4年連続リーグ最多内野安打(1991年 - 1994年)
- 通算初回先頭打者本塁打:21本 ※歴代10位。
- 通算初回先頭打者初球本塁打:7本 ※歴代1位。
- シーズン初回先頭打者初球本塁打:3本 ※歴代2位。
- 2試合連続初回先頭打者本塁打(1997年8月21日 - 8月22日)
- 1試合3犠飛(1996年6月30日 ※日本タイ記録。
- 3試合連続三塁打(1990年4月8日 - 4月11日)
- 20試合連続安打(1994年8月3日 - 8月25日)
- 10試合連続得点(1995年5月13日 - 5月26日)
- オールスターゲーム出場:8回 (1990年、1991年、1993年 - 1998年)
背番号
- 7 (1989年 - 2005年)
- 77 (2010年 - )
過去に出演したものについて
- テレビ番組
- PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球(日本テレビ、広島テレビ=解説者)
- テレビ宣言(日本テレビ、広島テレビ=スポーツコーナー)
- 旬感★テレビ派ッ!(日本テレビ、広島テレビ=スポーツコーナー)
- 進め!スポーツ元気丸(日本テレビ、広島テレビ=コメンテーター)
- ラジオ番組
- ラジオ日本マリーンズナイター(アール・エフ・ラジオ日本=ゲスト解説)
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(アール・エフ・ラジオ日本=ゲスト解説)
参考文献
- ^ a b c d 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2004年4月26日号、P.34
- ^ 読売新聞、1988年11月25日付朝刊、P.19
- ^ a b c d ">『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2004年4月26日号、P.35
- ^ 朝日新聞、1984年7月25日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞1986年11月5日付朝刊17面
- ^ 読売新聞1987年5月30日付朝刊14面
- ^ 読売新聞1987年10月30日付朝刊16面
- ^ 読売新聞1988年5月28日付朝刊18面
- ^ 別冊宝島、1545号、2008年、P.67
- ^ a b 別冊宝島、1545号、2008年、P.70
- ^ a b 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2001年5月7日号、P.41
- ^ a b 読売新聞、1988年11月18日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1988年12月2日付朝刊、P.19
- ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社]]、週刊ベースボール、ベースボール・マガジン社、1990年5月28日号、P.36
- ^ a b c 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社]]、1989年12月18日号、P.138
- ^ 1990年NPBオールスターゲーム 公式記録
- ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社]]、2006年1月2日号、P.102
- ^ a b c 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2001年5月7日号、P.42
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関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 【野村謙二郎 (広島東洋カープ)】 - 日本野球機構オフィシャルサイト