「ヴァロワ朝」の版間の差分
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フランスを事実上統一したヴァロワ朝は[[イタリア]]へと領土的野心を向け、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は[[1494年]]に[[イタリア戦争]]を開始する。[[1498年]]、[[フィリップ4世]]に始まるヴァロワ本家はシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代シャルル5世の子[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]の孫である[[ヴァロワ=オルレアン家]]の[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]が即位した。 |
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[[1515年]]に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫である[[ヴァロワ=アングレーム家]]の従兄[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|アングレーム伯シャルル]]の |
[[1515年]]に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫である[[ヴァロワ=アングレーム家]]の従兄[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|アングレーム伯シャルル]]の子[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が王位を継承者した。以後、フランソワ1世から[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]まで5代の王が続いた。<!-- なお、アンリ3世はフランス王即位前に一時[[ポーランド国王]](ポーランド名:ヘンリク・ヴァレジ)に選出されているが、自ら放棄している。--><!--薮蛇/脱線トリビア--> |
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その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たした[[スペイン]]と対立し、後にはスペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[ハプスブルク家]]によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、[[1589年]]に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、[[ブルボン朝]]に代わった。 |
その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たした[[スペイン]]と対立し、後にはスペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[ハプスブルク家]]によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、[[1589年]]に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、[[ブルボン朝]]に代わった。 |
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こうしてヴァロワ家の嫡流は途絶えたが、王位継承権のない庶流はその後も続いた。オルレアン公ルイの[[庶子]]である[[ジャン・ド・デュノワ|ジャン]]を祖とする[[ロングウィル公|ヴァロワ=ロングウィル家]]は17世紀末まで存続し、[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の庶子である[[シャルル・ド・ヴァロワ (アングレーム公)|アングレーム公シャルル]]を祖とする家系も17世紀初期まで存続した。又、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の庶子である[[アンリ・ド・サン=レミー]]を祖とする家系は19世紀末まで存続し、[[首飾り事件]]で有名な[[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア|ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ]] はこの家系の出身と言われている。 |
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2014年3月30日 (日) 17:32時点における版
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ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、仏: dynastie des Valois)は、中世フランス王国の王朝。1328年から1589年まで続いた。
1328年にカペー朝が断絶したため、カペー家の支流でヴァロワを所領とするヴァロワ家からフィリップが即位しヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1491年のシャルル8世の代にブルターニュ公女アンヌとの結婚によってフランスを再統一することを果たしたが、直後に直系が断絶し、庶家に引き継がれつつ1589年までの間で13代の王が続いた。
歴史
成立と百年戦争
カペー朝第10代国王フィリップ3世の子シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世が諸侯の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。
ところが、当時のイングランド王エドワード3世もフランス王家の血を引いていたことから、彼はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が始まった。
名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒が原因で44歳の若さで死去すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、遂にはイングランド国王がフランス国王に推戴されるまでになり、王国存亡の危機にまで立たされた。
そのような中でシャルル7世の時代に現れたジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年、遂に百年戦争はフランスの勝利で幕を閉じた。
イタリア侵略
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/FrancisIFrance.jpg/220px-FrancisIFrance.jpg)
フランスを事実上統一したヴァロワ朝はイタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。1498年、フィリップ4世に始まるヴァロワ本家はシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代シャルル5世の子オルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が即位した。
1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=アングレーム家の従兄アングレーム伯シャルルの子フランソワ1世が王位を継承者した。以後、フランソワ1世からアンリ3世まで5代の王が続いた。
その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペインとオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。
こうしてヴァロワ家の嫡流は途絶えたが、王位継承権のない庶流はその後も続いた。オルレアン公ルイの庶子であるジャンを祖とするヴァロワ=ロングウィル家は17世紀末まで存続し、シャルル9世の庶子であるアングレーム公シャルルを祖とする家系も17世紀初期まで存続した。又、アンリ2世の庶子であるアンリ・ド・サン=レミーを祖とする家系は19世紀末まで存続し、首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ はこの家系の出身と言われている。
歴代国王
- フィリップ6世(1328年 - 1350年)
- ジャン2世(善王(le Bon) 1350年 - 1364年)
- シャルル5世(賢明王(le Sage) 1364年 - 1380年)
- シャルル6世(親愛王、狂気王(le Fol) 1380年 - 1422年)
- シャルル7世(勝利王(le Victorieux) 1422年 - 1461年)
- ルイ11世(商人王 1461年 - 1483年)
- シャルル8世(温厚王 1483年 - 1498年)
- ルイ12世(民衆の父 1498年 - 1515年) ヴァロワ=オルレアン家
- フランソワ1世(1515年 - 1547年) 以下5代ヴァロワ=アングレーム家
- アンリ2世(1547年 - 1559年)
- フランソワ2世(1559年 - 1560年)
- シャルル9世(1560年 - 1574年)
- アンリ3世(1574年 - 1589年) ポーランド王兼リトアニア大公(1573年 - 1575年)