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'''一色 政照'''('''いっしき まさてる'''、? - [[文明]]13年4月1日([[1481年]][[4月29日]]))は[[室町時代]]の武将である。父は[[一色持範]]。七郎、兵部少輔、式部少輔と称す。法名法憧勝公大禪定門。
'''一色 政照'''('''いっしき まさてる'''、? - [[文明 (元号)|文明]]13年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[1481年]][[4月29日]]))は[[室町時代]]の武将である。父は[[一色持範]]。七郎、兵部少輔、式部少輔と称す。法名法憧勝公大禪定門。


[[一色範光]]から[[一色義貫]]まで四代60年の間、[[一色氏]]が守護職を務めてきた[[三河国]]は、[[足利義教]]による義貫の誅殺後、守護職を[[細川氏]]に奪われ、一色氏はその奪還を悲願としていた。国人も長年の支配により一色氏の被官となったものが多く、[[細川持常]]が守護となった直後の[[嘉吉]]元年([[1441年]])秋、土一揆により守護代が追放される事件が起こっている。
[[一色範光]]から[[一色義貫]]まで四代60年の間、[[一色氏]]が守護職を務めてきた[[三河国]]は、[[足利義教]]による義貫の誅殺後、守護職を[[細川氏]]に奪われ、一色氏はその奪還を悲願としていた。国人も長年の支配により一色氏の被官となったものが多く、[[細川持常]]が守護となった直後の[[嘉吉]]元年([[1441年]])秋、[[土一揆]]により守護代が追放される事件が起こっている。


義貫の嫡男[[一色義直]]は家督を継ぐと、[[丹後国|丹後]]に加え[[伊勢国|伊勢]]半国の守護職を手に入れ、更に[[三河国|三河]][[渥美郡]]の分郡守護職も奪い返した。一色政照はその渥美郡へ郡代として入部、田原([[田原市]])を根拠地としたという。
義貫の嫡男[[一色義直]]は家督を継ぐと、[[丹後国|丹後]]に加え[[伊勢国|伊勢]]半国の守護職を手に入れ、更に[[三河国|三河]][[渥美郡]]の分郡守護職も奪い返した。一色政照はその渥美郡へ郡代として入部、田原([[田原市]])を根拠地としたという。


長禄4年([[1460年]])8月、渥美郡赤羽根郷([[田原市]])の浜に遭難船が流れ着いたが、政照は船の積荷を掠奪しようと手勢を率いて向かった。当時、赤羽根郷は[[金閣寺|鹿苑院]]の領地でその役所も存在したが、
[[長禄]]4年([[1460年]])8月、渥美郡赤羽根郷([[田原市]])の浜に遭難船が流れ着いたが、政照は船の積荷を掠奪しようと手勢を率いて向かった。当時、赤羽根郷は[[金閣寺|鹿苑院]]の領地でその役所も存在したが、
政照の手勢は役所に放火、散々に乱暴をした上、積荷を奪い引き揚げた。鹿苑院の訴えでこの事件は幕府でも問題になったが、政照は幕府からの積荷返還命令を無視している。
政照の手勢は役所に放火、散々に乱暴をした上、積荷を奪い引き揚げた。鹿苑院の訴えでこの事件は幕府でも問題になったが、政照は幕府からの積荷返還命令を無視している。


[[応仁]]元年([[1467年]])、[[応仁の乱]]が起こると政照は手勢を率いて上洛し、西軍に属して戦った。しかし、彼の留守中、渥美郡には[[伊勢氏]]被官の[[戸田宗光]]が進出、一帯を押さえてしまっている。
[[応仁]]元年([[1467年]])、[[応仁の乱]]が起こると政照は手勢を率いて上洛し、西軍に属して戦った。しかし、彼の留守中、渥美郡には[[伊勢氏]]被官の[[戸田宗光]]が進出、一帯を押さえてしまっている。


[[文明]]9年([[1477年]])頃に政照は田原に帰陣するが、[[戸田氏]]の勢いを見て争わず和解の道を選ぶ。
文明9年([[1477年]])頃に政照は田原に帰陣するが、[[戸田氏]]の勢いを見て争わず和解の道を選ぶ。
戸田宗光を自分の養子分とし、大草村([[田原市]])に邸宅を貰い退隠。[[文明]]13年([[1481年]])4月1日病死した。
戸田宗光を自分の養子分とし、大草村([[田原市]])に邸宅を貰い退隠。文明13年([[1481年]])4月1日病死した。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2006年4月5日 (水) 05:54時点における版

一色 政照いっしき まさてる、? - 文明13年4月1日1481年4月29日))は室町時代の武将である。父は一色持範。七郎、兵部少輔、式部少輔と称す。法名法憧勝公大禪定門。

一色範光から一色義貫まで四代60年の間、一色氏が守護職を務めてきた三河国は、足利義教による義貫の誅殺後、守護職を細川氏に奪われ、一色氏はその奪還を悲願としていた。国人も長年の支配により一色氏の被官となったものが多く、細川持常が守護となった直後の嘉吉元年(1441年)秋、土一揆により守護代が追放される事件が起こっている。

義貫の嫡男一色義直は家督を継ぐと、丹後に加え伊勢半国の守護職を手に入れ、更に三河渥美郡の分郡守護職も奪い返した。一色政照はその渥美郡へ郡代として入部、田原(田原市)を根拠地としたという。

長禄4年(1460年)8月、渥美郡赤羽根郷(田原市)の浜に遭難船が流れ着いたが、政照は船の積荷を掠奪しようと手勢を率いて向かった。当時、赤羽根郷は鹿苑院の領地でその役所も存在したが、 政照の手勢は役所に放火、散々に乱暴をした上、積荷を奪い引き揚げた。鹿苑院の訴えでこの事件は幕府でも問題になったが、政照は幕府からの積荷返還命令を無視している。

応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると政照は手勢を率いて上洛し、西軍に属して戦った。しかし、彼の留守中、渥美郡には伊勢氏被官の戸田宗光が進出、一帯を押さえてしまっている。

文明9年(1477年)頃に政照は田原に帰陣するが、戸田氏の勢いを見て争わず和解の道を選ぶ。 戸田宗光を自分の養子分とし、大草村(田原市)に邸宅を貰い退隠。文明13年(1481年)4月1日病死した。

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