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=== 逃亡 ===
=== 逃亡 ===
戦後、ドイツ国防軍伍長の制服を着ることにより連合軍からの追及を逃れることに成功し、グラーツの家族の元に戻るが、[[1947年]][[12月31日]]、[[ネオナチ]]組織に所属していかどでオーストリア警察に逮捕される。このことを知ったナチ・ハンター、[[サイモン・ウィーゼンタール]]からの通報により連合軍から身柄引き渡し要求が出され、彼はイギリス軍の手により護送されるが、その際監視の目をかいくぐり逃亡した。その後、協力者の手を借りてオーストリア国内にしばらく潜伏し、ローマ経由で[[アルゼンチン]]へと渡った。
戦後、ドイツ国防軍伍長の制服を着ることにより連合軍からの追及を逃れることに成功し、グラーツの家族の元に戻るが、[[1947年]][[12月31日]]、[[ネオナチ]]組織に所属したでオーストリア警察当局に逮捕される。このことを知ったナチ・ハンター、[[サイモン・ウィーゼンタール]]からの通報により連合軍から身柄引き渡し要求が出され、彼はイギリス軍の手により護送されるが、その際監視の目をかいくぐり逃亡した。その後、協力者の手を借りてオーストリア国内にしばらく潜伏し、ローマ経由で[[アルゼンチン]]へと渡った。


=== アルゼンチンでの暮らし ===
=== アルゼンチンでの暮らし ===

2014年7月4日 (金) 13:58時点における版

エドゥアルト・ロシュマン

エドゥアルト・ロシュマンまたはエドワルド・ロシュマン(Eduard Roschmann, Edward Roschmann, 1908年11月25日 - 1977年8月10日)は、ナチス親衛隊大尉で、現在のラトビア共和国リガ近郊に存在したカイザーヴァルト強制収容所の歴代所長の一人。リガ・ゲットーの副司令官。ドイツ系ユダヤ人を迫害したことで「リガの屠殺人」と呼ばれた。

生涯

親衛隊入隊

1908年11月25日、オーストリアのグラーツにて生まれる。戦前はリキュール代理商そしてシュタイアマルクのビール醸造・スピリッツ蒸留工場で働いていた。そして、その傍らオーストリアのナチス党支部にて活動していた。1938年、オーストリアがドイツに併合されると、ナチス親衛隊に入隊し、大尉(隊員番号152681)となった。

カイザーヴァルト強制収容所所長

第二次世界大戦中、リガ・ゲットー副司令官、カイザーヴァルト強制収容所所長として、ユダヤ人に対し虐待を加えた。ロシュマンは多くの女性・子供そして老人を次々と殺害していたと報告されている。また犠牲者達の服・毛髪・歯等は現金資産として扱われた。収容された人々は1日18時間の労働を強いられ、彼らの多くは飢えと寒さに苦しんだと言われる。ロシュマンは処刑される囚人達を一箇所に集めては彼らの服を奪い取っていた。また、瀕死の囚人達に犬をけしかけ、囚人達が犬に食い殺される様を見るのが何よりの楽しみであったという。結果的に、彼の手により約35000名が死亡したと言われる。

逃亡

戦後、ドイツ国防軍伍長の制服を着ることにより連合軍からの追及を逃れることに成功し、グラーツの家族の元に戻るが、1947年12月31日ネオナチ組織に所属した廉でオーストリア警察当局に逮捕される。このことを知ったナチ・ハンター、サイモン・ウィーゼンタールからの通報により連合軍から身柄引き渡し要求が出され、彼はイギリス軍の手により護送されるが、その際監視の目をかいくぐり逃亡した。その後、協力者の手を借りてオーストリア国内にしばらく潜伏し、ローマ経由でアルゼンチンへと渡った。

アルゼンチンでの暮らし

アルゼンチンに到着したロシュマンはビジャ・デ・マヨに落ち着き、名前をフレデリック・ウェーゲナーに変えて、旅行代理店で働き、その後家具製作所の共同経営者となった。1955年、秘書と結婚するが、このことがグラーツにいる妻の耳に入り、1959年、重婚罪の容疑で追われる身となった。1960年、リガでの虐殺行為に対し逮捕状が出された。

最後の逃亡・客死

1977年7月1日、アルゼンチン警察に逮捕されるが、4日後、国外退去を条件に釈放される。その後、ロシュマンはパラグアイアスンシオンへと移住するが、8月10日同地で心臓発作を起こし死亡した。69歳没。


関連項目