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「虞汜」の版間の差分

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16歳のときに父を失い、故郷に戻った。[[孫チン|孫綝]]が[[孫亮]]を廃位したとき、孫綝が自ら即位しようとしたため、虞汜は故事を引用しやんわり窘めた。[[永安 (呉)|永安]]年間の初期に、選曹郎から散騎中常侍となり、駙馬都尉を加えられた。同時に散騎中常侍となった[[王蕃]]・[[薛瑩]]・[[賀邵]]と共に、この人事は好評を博した(「王蕃伝」)。
16歳のときに父を失い、故郷に戻った。[[孫チン|孫綝]]が[[孫亮]]を廃位したとき、孫綝が自ら即位しようとしたため、虞汜は故事を引用しやんわり窘めた。[[永安 (呉)|永安]]年間の初期に、選曹郎から散騎中常侍となり、駙馬都尉を加えられた。同時に散騎中常侍となった[[王蕃]]・[[薛瑩]]・[[賀邵]]と共に、この人事は好評を博した(「王蕃伝」)。


[[269年]]、交州を[[晋 (王朝)|晋]]から奪回するため、虞汜は監軍として[[陶コウ|陶璜]]・威南将軍の[[薛珝]]と共に[[荊州]]から陸路で侵攻した。海路から侵攻した監軍の[[李勖]]・[[徐存]]らが途中で引き返してしまったが、虞汜の軍は交州の晋軍を降すことに成功し、[[交趾]][[郡]]・九真郡・[[日南郡]]を制圧した。その後に扶厳を追討し、交州[[刺史]]・冠軍将軍・余姚侯となった。しかしまもなく病気で死去した。
[[269年]]、交州を[[晋 (王朝)|晋]]から奪回するため、虞汜は監軍として[[陶コウ|陶璜]]・威南将軍の[[薛ク|薛珝]]と共に[[荊州]]から陸路で侵攻した。海路から侵攻した監軍の[[李勖]]・[[徐存]]らが途中で引き返してしまったが、虞汜の軍は交州の晋軍を降すことに成功し、[[交趾]][[郡]]・九真郡・[[日南郡]]を制圧した。その後に扶厳を追討し、交州[[刺史]]・冠軍将軍・余姚侯となった。しかしまもなく病気で死去した。


小説『[[三国志演義]]』には登場しない。
小説『[[三国志演義]]』には登場しない。

2014年7月28日 (月) 14:28時点における版

虞 汜(ぐ し、生没年不詳)は、中国三国時代の武将・政治家。に仕えた。世洪交州南海郡の出身。父は虞翻。兄弟に虞忠虞聳虞昺ら。『三国志』呉志虞翻伝、及びそれに引用された『会稽典録』に記述がある。

生涯

虞翻の11人の子のうち、4番目に当り、当時最も名を知られた人物といわれた。 16歳のときに父を失い、故郷に戻った。孫綝孫亮を廃位したとき、孫綝が自ら即位しようとしたため、虞汜は故事を引用しやんわり窘めた。永安年間の初期に、選曹郎から散騎中常侍となり、駙馬都尉を加えられた。同時に散騎中常侍となった王蕃薛瑩賀邵と共に、この人事は好評を博した(「王蕃伝」)。

269年、交州をから奪回するため、虞汜は監軍として陶璜・威南将軍の薛珝と共に荊州から陸路で侵攻した。海路から侵攻した監軍の李勖徐存らが途中で引き返してしまったが、虞汜の軍は交州の晋軍を降すことに成功し、交趾・九真郡・日南郡を制圧した。その後に扶厳を追討し、交州刺史・冠軍将軍・余姚侯となった。しかしまもなく病気で死去した。

小説『三国志演義』には登場しない。