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'''野口 坤之'''(のぐち こんの/のぐち こんし、[[1860年]][[6月14日]]([[万延]]元年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[1919年]]([[大正]]8年)[[3月7日]])は、日本の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[日露戦争]]における[[第4師団 (日本軍)|第四師団]][[参謀長]]である。最終階級は陸軍[[中将]]。


==人物・来歴==
==人物・来歴==

2014年9月20日 (土) 06:13時点における版

野口 坤之
生誕 1860年6月14日
死没 (1919-03-07) 1919年3月7日(58歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
最終階級 陸軍中将
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野口 坤之(のぐち こんの/のぐち こんし、1860年6月14日万延元年4月25日) - 1919年大正8年)3月7日)は、日本の陸軍軍人日露戦争における第四師団参謀長である。最終階級は陸軍中将

人物・来歴

陸奥国耶麻郡五十軒村(現・福島県猪苗代町)に生まれた、旧会津藩士族である。幼名は坤之助。翁島小学校を卒業後教職に就いたが、退職し秋月悌次郎門下となる。陸軍士官学校(旧6期)、陸軍大学校(4期)を卒業。兵科は歩兵中尉時代に立見尚文の娘と結婚したが死別。少佐時代に再婚している。第一師団参謀大尉)として、日清戦争に従軍。金州、大連、旅順、蓋平、田荘台と転戦した。1897年(明治30年)少佐、1902年(明治35年)中佐へ進級。教育総監部参謀歩兵第三十三連隊長などを務めている。

日露戦争では第四師団参謀長として、師団長・小川又次を補佐し、大石橋、海城、沙河会戦と歴戦。遼陽会戦において小川と共に負傷し、日本に帰国した。第二軍司令部から伝令として派遣された石光真清が負傷現場を目撃している。石光によれば師団司令部が置かれた民家でロシア軍の砲弾が炸裂し、野口は頭部を負傷した[1]

出征中に大佐へ進級し、戦後は陸軍中央幼年学校長を務め、1908年(明治41年)3月少将へ昇進。歩兵第11旅団・歩兵第三十五旅団・歩兵第一旅団の旅団長を歴任し、陸軍士官学校長に就任したが病を得、1911年(大正元年)11月に待命となる。翌年8月、中将へ進級するとともに予備役編入となった。

容貌瀟洒、思慮稠密であったといわれ、同郷の後進育成組織・稚松会の副会長を務めている[2]野口尚一は長男。

脚注

  1. ^ 石光真清『望郷の詩』龍星閣。47頁
  2. ^ 会津会会報第14号「野口坤之君逝去」

参考文献

  • 会津会『会津会会報第14号』
  • 小島一男『会津人物事典 (武人編)』歴史春秋社
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』 芙蓉書房出版
  • 福川秀樹『日本陸海軍人名辞典』芙蓉書房出版
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)1939年。
  • 陸軍中将林太郎外六名特旨叙位ノ件」(JACAR Ref.A12090162100、叙位裁可書・大正二年・叙位巻十七(国立公文書館))